第50話

 すると病室の前には母が満面の笑みで立って手を振っていた。

 だが俺は手を振って笑える精神状態ではない。

 恐怖で精神が蝕まれている。


 何でよりにもよってこのタイミングで母さんが……


 奇跡的に三人の訪問時間が被った。


「あ、幸子さん! こんにちわ!」


 白鳥は母の存在に気付くとピョンピョンと跳ねて嬉しそうに両手を振る。


「翔子ちゃん、こんにちわ」


 母は病室に入って後ろ手に扉を閉めるとそのまま俺の側まで足を運んだ。

 役者が揃った。

 今この空間には『加害者の孫』と『加害者兼被害者の娘』と『被害者の妻と子供』が居る。


 何だこの地獄絵図。


 気が狂いそうになる。胃がキリキリと痛み出す。


「あ、翔子ちゃん、いつもありがとね」

「いえ、当たり前ですよ」


 母さん、そいつ父さんを殺した男の娘だよ。 白鳥、その人はお前の父親が殺した男の妻だよ。


 本人達は何処吹く風だが、俺にとっては堪ったもんじゃない。 いつ崩れてもおかしくない砂の城だ。


「あなたは?」


 母の視線が桐生に向いた。


 ──まずい!


 桐生は白鳥とは違って本名だ。

 名前を聞いたら絶対にバレる。

 せっかく傷が癒えてきた頃合いなのにそれはマズイ。

 母が桐生の正体に気付いたらこのほんわかとした空気は忽(たちま)ち地獄と化す。

 殺伐としたものになる。

 芋蔓式で俺の正体が二人にバレる事だって十分に考えられる。 なんとか阻止しなければ。


「あたしの名前は──」

「母さん時間大丈夫か! そろそろ帰った方が良いんじゃないか!」


 俺の目標は母を家に帰られる事。

 桐生と同じ空間に居たらいつ事故が起きてもおかしくはない。


「え? さっき来たばっかだけど?」


 まあ、そうなんだけど、そう言うしかねえだろうが。


「八重島くん、それは幸子さんに失礼だよ。幸子さんだって八重島くんの事を心配してお見舞いに来てくれたんだから──桐生さんもそう思うよね?」


 お前が言っちゃうのかよ。予想外過ぎて反応出来なかったわ。


「そうよ。自分の母親を無下に扱うんじゃないわよ」

「……桐生」


 母は目を真ん丸と見開き、ポツンと言葉を漏らした。


 終わった……


「あなた、桐生って言うの?」

「はい、桐生花と言います」


 鋭利な刃物を喉元に押し付けられている様な緊張感。

 見ているだけで胃に穴が空きそうだ。


「……そう、花ちゃんね……」


 俺もここまでか──


「私のことは幸子って呼んでね花ちゃん!」


 いや、そうでも無かった。間一髪窮地を乗り越える。


 俺はホッと息を吐く。


 今日に限っては母さんがアホで良かったわ……


「……は、はい、幸子さん」

「じゃあ私はそろそろ行くから」

「さっき来たばっかりなのにもう行っちゃうんですか?」


 白鳥がそう言った。


「もともと様子を見に来ただけだから。元気な京くんを見れたし十分だよ」


 元気じゃねえよ。寧ろ母さんが見舞いに来てからの方が悪化しとるわ。


「二人とも京くんをお願いね」

「はい、任せてください!」

「……は、はい!」


 そして母は去って行く。


 ようやく地獄が終わった……


 今日だけで十年は歳を取った様な気がする。

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