回送

バスが行ってしまった。

酔っ払いらしい男が両手を振っている。

乗せてくれ、とかそんな感じのことを叫んでいる。

「回送」という文字が見えていないらしい。

遠ざかるバスの背中。酔っ払いは諦めてしまった。

適当な悪態をつくと、アスファルトに唾を吐いた。

僕はその唾にどのくらいの微生物がいるか数えてみたい気分だった。

おそらく、全部数えきるころには僕は死んでいるけれど、それはきっと幸せなことなんだと思う。

目を閉じて、夜を平行移動してみる。

僕はさっきのバスに乗っている。

回送だから、乗客はいない。

僕と、運転手だけがこのバスのすべてだった。

わからないけれど、運転手は多分男だ。

僕も男だから、この二人では子供はつくれない。

もう、このバスの人類はゆっくり絶滅するしかない。

しかたがない。もう終わりだ。

力が抜けて、エンジンの振動に身をあずける。

頭の中に浮かぶのは後悔と呼ぶにはあまりにも些末な出来事ばかりだった。

昨日仕留め損ねたゴキブリのこととか

結局買い替えなかった先の広がった歯ブラシとか

最後までつかいきれなかったノートとか

頭の中に、浮かんでは消えた。

「お客さん。私はもう限界です」

車掌が言った。ひどく年老いた声だった。

運転席に近づくと、男はぼんやりと遠くを見つめている。

ハンドルには、皺だらけの手がひっかけられている。

「次はお客さんが運転する番です」

運転なんてしたことありませんよ。

「大丈夫です。私だってしたことありませんでしたから」

どこまでいけばいいんですか?

運転手は乾いた笑い声をあげた。水分を一切感じない木の扉が開く音みたいだった。

「そんなこと、私が知りたかったですよ」

それもそうだと思った。

僕は運転手と席を変わった。

運転手、いや、いまは僕が運転手だから、元運転手だ。

元運転手は、骨になったあと、粉になった。

僕しかいないのだから、僕が運転するしかない。

でも、僕しかいないのだから、そもそも運転なんて必要ない。

ハンドルを握り、アクセルを踏む。

少し開いていた窓から、粉がさらさらと出て行った。

羨ましいと思った。

なんとなく、車庫を目指そうとおもった。

回送バスはみんなそうしているはずだ。

僕しか乗ってないバスが可哀そうだ。

でも、車庫ってどこだ。僕が知るはずがない。

まあいいや、ずっと走ってればいつかつくだろう。

僕は、めんどうになって、アクセルを強く踏んだ。

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