閑話2『蜃気楼をぎゅっとしたら曲』
「あー、レトロ飽きたー。マードックやろー」
副島たちの体験入部が始まる日より少し前のこと。可瀬はパート部屋で一人、フルートの練習をしていた。というのも、三年生になるとどうしても忙しいから、先輩はなかなか来れないのだ。
あくびを合図に可瀬の一人合奏は始まる。
「だー……たらららら、たらーらーらー」
フルートの出番までは、テンポ速めに口ずさむ。人差し指を指揮棒のように横に振って、ご機嫌である。
ようやく可瀬の中でフルートの出番が来たようで、目にかかった前髪を軽く避けてからフルートを構えた。背中越しに見るフルートは少し右肩下がりで、半透明のリングキイプラグで塞がれたキイたちの向こうから、可憐な左手の指先が覗いていた。俯瞰、フルートの重量が空気と勘違いさせるようなふわりとした右腕。
アイリッシュ調の主題を可瀬は「読む」。そうしてクラリネットたちが展開させていき、船内へ眼が移……ピッ!!
「え、リードミス?」
「うへへ~ばれちゃったか~」
「イルカ、いつからそこに!?」
「あーっ、レトロ飽きたーっ。マードックやろーっ☆……ってとこからかな~」
「私そんなキモいこと言ってた!?」
可瀬は目をガン開いて、頬を赤らめる。
「そんなことよりウサギぃ~、マードック通すなら言ってよ~」
そう言ってウサギこと
「よし、じゃあ、八分の六拍子のところからね」
「らじゃ」
きっと、この場面ではレオナルド・ディカプリオがギャラリーが囲むなかでローズと踊る場面なのだろう。うーん、いやまじでレオ様かっこよすぎな? 溜め息しか出んわ。あー、なでなでしてもらいたい……。
などと可瀬が考えているうちに、盛り上がっていた曲は一度落ち着き、サックスの音を受け継いでオーボエソロが過ぎた。
そうして来たるは、フルートソロ。
楽しかったこと、胸踊ったこと。それらが全て海の波にたゆたう、そしてマードックは筆をとる。
ピアノの合いの手が心地よい。
しかし。
安寧の時ほど脆弱なものはない。フルートソロが終わり、六連符が胸をはやらせて、金管がクレシェンドで舵をきる。やがて木管のおたまじゃくしゾーンに入り、いよいよ船は沈没間近。
人が立つ場所はもう残されていないだろう。
マードックの身体ももう遺されていないだろう。嗚咽と咽び泣きと凍えのなか、タイタニックは静寂を迎えた――。
「たららららららん」
ピアノソロはお涙頂戴。
三連符もお涙頂戴。
サックスソロもお涙頂戴。
凍え死んだか、助かったかの二種類の人間しかいなくなってから、画面はディゾルブし、老ローズは泣く。
転調。
マードックの主題は繰り返され、手紙は今も海底を漂う。
しかし彼は生きていた。人々を助け、死んだから。
いまも彼は生きている。この主題が、繰り返し青春となる限り。
曲は終わりを迎え、時計は五時をさしていた。
「うぅー、やっぱり神曲だね。二人だけでもこんなに感動する曲になるとは」
「ほぇ~? 後ろ見てみ?」
小境は親指で教室の窓側にいる可瀬たちの反対側である廊下の方を指さした。するとビックリ、全員楽器を持って居るではないか。
「なんであんたら居んの!?」
「いやー、マードック聞こえてきたら、そりゃ参加しちゃうよ」
テナーサックスの彼が言うと皆は首が取れるほど肯定した。
「中音楽器以上はいいとして、低音楽器よく持ってこれたね!?」
「大変だったけど、マードック聞こえてきちゃったから」
可瀬はあんぐり。
「打楽器……」
「ちっこい楽器の奴らに持たせた」
「ピアノ……」
「ピアノくらい、私の左中指で十分だよ」
可瀬は正気に戻った。
「まあ、ピアノならそんなもんか……」
失礼、悪化だった。
「ところでイルカ、合奏って何時からだっけ?」
「んーと、四時半だね~」
四時半!!
現在時刻五時過ぎ!!!
オ ワ タ ☆
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