第5話『人と話す時に歩く帰り道はちょうど良い』

 まだ春の盛りなのに。

 こんなサブタイトルだというのに。

 ……暑い!

 副島のひたいの汗腺という汗腺からは無駄にじっとりと汗が吹き出て、だんだん下へ下へと顔をコーティングしていく。それでもめげずに副島は幾億年ぶりかのフルートを乗りこなそうとしていた。

 そんな副島に可瀬は大きな笑顔を見せる。

「えっ上手!!」

「あはは……」

「私よりもう上手いかもしれん」

 愛想笑いしかできない可瀬の褒めに、三年生の先輩が合いの手をいれる。

「どれくらい?」

「ざっと百億倍ですね」

 もうぐらっと傾き始めた陽の陰が差し込むフルートパートの部屋のエアコンは季節を冬と勘違いしている。そして災難、エアコンの設定は職員室でしか変えられない。その間にも副島の汗は滝を多岐にわたらせて作り、ぽとっ、と床を鳴らした。

 そのやや硬めの音とは対照的に、副島はアホずらだった。

「やっぱり久しぶりだと酸欠になるよね~」

 そう微笑みながら可瀬は副島が吹いていたフルートを持ち上げて、分解した。掃除棒の穴にガーゼを入れ込むことに苦戦しながら、副島たち三人の一年生たちに告げた。

「もう時間だから、このまま帰っていいよ~」

「ありがとうございました」

「またきてね~」

 退出間近、副島は可瀬の顔をちらと見ると、「あ」という顔をした。

 廊下の暑さは教室のそれだった。


 駅までの帰り道、副島はバスに揺られていた。まだ押したことの無い降車ボタンが光り、バスは酸素を減らした。

 あくびをして一曲聴き終え、副島は電車に乗った。副島はスマホをいじりながらだったが、

「あ」

 と発したのは二人だった。副島が電車とホームの間の暗い隙間を軽く跳んで渡っていたところをを、真隣で女子が見ていたのだ。

「あ、後からフルートの体験に来た人だ」

「え、こん、にちは?」

 二人は少し奥まで歩いてつり革を掴んだ。

「フルートの体験にいた人やんね?」

「はい」

 副島の頭には大きな疑問符が突き刺さったままだったが、その女子は安堵した表情を見せた。

「良かった~。やっぱりこの電車使うんだ」

「やっぱりっ……て、どうして」

「だって今朝君を見たんだもん。ところで、名前は?」

「副島、悠衣」

「ふーん、ゆいゆいか」

「!?」

 その女子はごく自然な摂理であるかのように真顔で言った。

「私は南居なごやかっていう名前」

「なごやか……なごやか!?」

「珍しいでしょ。たまたまらしいけどね」

 副島の顔が急にしわくちゃになった。

「うぐっ」

 副島の股間に推定三十代半ばのサラリーマンの腰骨がクリーンヒットしたのだ。

 人と話す時に電車はちょうど良くない。

 結局、電車を降りるまで副島は口を開くことができなかった。


 今日一日疲れた。

 吹奏楽部には最後の方に行く予定だったのに、狂った。

 改札通って右向いて、階段降りて、駐輪場。右隣を見ると南居。

「南っ……居さんもこっちなの?」

「うん、そんな感じ。ゆいゆいは自転車なん?」

 副島はその声を片耳に、駐輪場のロックを外した。

「これ、いいでしょ!」

 そう言って副島は深緑のボディとポップなブラウンをもった自転車を引っ張り出した。

「あれ、どこかに穴の空いたアドバルーン飛んでる?」

「この時代アドバルーンなんて無いと思うよ。それに下の方から聞こえるし」

「じゃあ、この音……」

 副島は視線を動かした後、硬直した。南居がメデューサを警戒しつつ副島の目の先を見ると、そこにはあれよあれよという間に潰れていく自転車のタイヤがあった。副島のものである。

「……ドンマイ」

 アドバルーンは飛んでいた。


 このまま別れて一人で自転車をひいて帰ることを想像すると、あまりにも虚しかったため、副島は元々歩きの南居に着いていくことにした。陽はあくびを始める。烏も純白な頃。

「今日暑くない? まだ夏じゃないってのにさ」

 南居は手で仰ぎながら、「ぐへー」という感じにうなだれる。

「暑い、もうそれは暑い暑い」

「こんな日にはガリガリ君を貪りたいけど、無慈悲なことにコンビニはまだ先なんだよ……」

「買うの?」

 南居は肩をすくめてみせる。

「それがさ、コンビニに着いたら私の家まで三歩だから、アイス買わなくても家向かえばすぐ涼しいんだよね」

 そうして副島は悟る。この暑さの中、南居と別れた後は結局一人でサウナに殺されたように帰るはめになることを。

「絶望……」

 少しでも副島の自宅に近いうちに帰ろうと、口を開きかけると、それに被せるように南居は伸びをした。

「いやー良かった。もう話せる人ができて」

「そういえば南居さんは、どうして吹部の体験に最初に行ったの?」

「中学校からホルンやってたからかな。惰性といえば惰性なんだけど、やっぱり吹部が好きでやりたくて」

「え、ホルンやってたのに、フルートを体験してたの?」

「できるって分かりきってることより、挑戦してみる方が楽しいからね!」

 そうして、コンビニの前で二人は別れた。烏が黒みを帯びる時間だった。


 人と話す時に歩く帰り道はちょうど良い。

「アリヤトヤーシター!」

 コンビニで買ったガリガリ君を齧って、ゴミは捨てた。

 そんな間に、副島の脳内には思いが巡っていた。

「南居さんは、僕とは正反対なのかもしれない。挑戦が好きで、吹奏楽部が好きで……」

 自転車に鍵を刺して、とぼとぼ帰路につく。

「……」

 中学生のころ、吹奏楽部内の関係は良好で、フルートもそこそこ良かったんだけど……。

 僕は、極度の緊張しいだった。

 コンクールの舞台に立つと一音も出なくなるのだ。初めてのコンクールで演奏した「マードックからの最後の手紙」なんて、先輩のフルートソロが終わるまで本当に音が出なかった。掠れた泣き声のような空気の音しか出なかった。

 それがトラウマで、吹奏楽部に行くのはあまり気が進まなかったのだ。勿論、吹奏楽は好きだし、フルートも好きだ。だけど、コンクールに出場する吹奏楽部はちょっと怖い。

 今だって迷ってる。また吹奏楽部に入ったとして、コンクールに意気揚々と乗り込めるだろうか? 僕には、そんな挑戦はできない。

「あちい……」

 空気しか間に介在しない熱砂を生む日差しに副島がとろけていく。イヤフォンが着いていることを確認し、ユーチューブを開くと、おすすめ欄の一番上に「マゼランの未知なる大陸への挑戦」が出ていた。

「やっぱり、吹奏楽部に入ってもいいのかも……」

 その言葉を引き金に、トラウマは大笑いして窓を壊し侵入してくる。

 ぐちゃぐちゃな頭のまま、副島は無意識に曲のテンポを体全体で楽しんでいた。

 そうして気がついた。

「あのガリガリ君、当たりかどうか見ずに捨てちゃった……」

 当たっていた「もしも」を捨てたことに、副島は頭を抱えた。

 それはそれは頭を抱えた。

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