第4話『バタフライエフェクト・レイト』

「今日は一人?」

「えっ」

 吹奏楽部の先輩に言われて初めて副島は気がついたが、副島の肩を押したはずの平は既に姿を消していた。副島の目には三階へ下る階段と、立ち入り禁止の屋上へ続くごく短い階段しかなかった。

「そうみたいですね」

 副島は目を合わせずぎこちない微笑をする。

「私、フルートパートの二年の可瀬かせ雨紗うさって言います。よろしくね」

 可瀬はすらっとした胸に、今にも折れそうな華奢な体つきで、なんだか知らないが青を纏っていた。彼女の右の小指は左の小指より長かった。

「こっちこっち」と可瀬に呼ばれて副島は音楽室の真ん中に座る。そこには彼女と副島の二人と、打楽器であるパーカッションパートパーカスしかおらず、副島は「他の一年生たちはもう体験を始めているのかな」と思った。

「取り敢えず、これ、名前とここのアンケート、書いてくれるかな」

 そう言って可瀬が渡した紙には、希望する楽器と吹奏楽経験の有無の記述を要求する欄があった。

 その紙に副島はフルート希望と書き、吹奏楽経験の欄には「ある」と回答した。そしてフルート希望の文字を消し、考え込んだ。

 きっとフルートは人気で、既にオーディションで選ばなければいけない人数になっていてもなんら不思議じゃない。それなのに自分が希望してしまっては余計な手間を先輩方にかけてしまうかもしれない。なんて考えたから。

 しかし副島には吹奏楽部に入るならフルート以外の未来は見えなかった。中学校の頃からフルートで、それなりの自信がある。まあ、吹奏楽部より文芸同好会を優先させたのには理由があるのだが。

 副島は深く考えながらも、可瀬とパーカスの先輩の会話に耳を傾けていた。

「まじでサロメむずない?」

「むずすぎ。タイミングむずすぎるもん」

「ちょ、あそこやってよ」

「どこ?」

「最初のティンパニのでぃんちぇっでぃんちぇっのところ」

「擬音それで合ってる?」

 副島の脳内は百点満点原サロメばかりになっていた。

「よーしいっちょやったりますか」

 パーカスの先輩は腕捲りをする。

 可瀬は副島の方を一瞥した。

「あ、アンケート書けた?」

「いや、体験フルートにしようか迷ってて、でも多分満員だろうと思って、申し訳なくて」

「全然大丈夫だよ! よっしゃ、そうと決まれば、フルートのパート部屋に行きましょう、えーと、悠依くん、だね」

 パーカスの先輩が腕捲りをしたまま怠惰にカスタネットを鳴らしている間に、二人は音楽室を後にした。副島は、この瞬間に偉大なる未来へのタイムラインに乗ったのである。

 可瀬は部屋へ向かう途中で副島と話す、副島が目を合わせないままで。

「なるほど、男子のフルートか……ズバリ、モテるね」

「いやいや、そんな」

「で、実際どうなの、恋愛の方は」

「好きな人は居たんですけど、恋実らず、ですね」

「あらーそれは残念だね。中学生の時は何の楽器やってたの?」

「フルートです」

「連続フルートってことか。それは頼もしい! 是非このまま入ってくれると嬉しいな」

「あはは……」

 副島は苦笑いをした。

「……はい、ということで着きました!」

 いつの間にか目の前にあった教室からはタンギングがないフルートのあのぽっかりとしたような音がしていて、可瀬が伸ばした手の方向を見ると、先輩が二人、そして頭部管を持った一年生の二人がいた。

 その内の一番手前の一年生が副島を見て、「あ」という顔をした。

 副島はフルートばかり見ていた。

 蝶は古から東へと羽ばていた。

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