第二十八話 ゆらり
溜まった鬱憤を拳に乗せた≪撲殺≫は、大きな呼吸を繰り返す。自分ではない誰かの血が、自分の拳に纏わり付き、皮膚を伝い、地面に流れる。裸足の足が血液を踏みつけ、汚す。口角が大きく持ち上がる。
「あーーーー……スッキリしたー…………」
血で汚れた片手と、薄汚れた片手。
「弱い奴をいたぶるのはもう飽き飽きだ。俺の周りをブンブン飛び回られるのはほんとーに鬱陶しい……。俺は強い奴と戦いたい。命を賭けた戦い。本土でも、闘技場でも味わえない最っ高のスリルがほしい……」
拳を握り、月を潰す。まるでその力を我が物としたように、冷静で力強い目。我慢して我慢して、我慢させられてきたとっておきの≪
「ようやくだ……。
「えぇー? 大丈夫だよ。君はとっくにイカレてる♪」
「最高の誉め言葉だぜ。ありがとよぉー」
両足を大きく開いた≪撲殺≫は、上半身を倒し、頭を持ち上げるのをやめた。伏せられた顔に、伏せられた瞼。最大の長所である視界すらも封じ、≪撲殺≫は触覚に全神経を集中させる。
「………………」
呼吸は浅い。風に書き消える。さっきまで叫び散らしていた人間と同じとはにわかには信じにくい光景。≪模倣犯≫は両手で薙刀を構えた。獲物を狙うカースト上位の肉食獣のような雰囲気。殺気。異様なまでに重く、濃い存在感。そこにいるのに、感じているのに、まるで蜃気楼とも思わせるような異物。ここが屋上ではなく、ジャングルであったなら。≪模倣犯≫はらしくもない想像をせざるを得なかった。
ゆらり。
気のせいか、≪撲殺≫の体が揺れ始める。目を凝らした≪模倣犯≫は、それが見間違いではないと確信する。不思議と目を奪われる。何かをしてくる。上肢も脱力して垂れ下がり、振り子のようにゆらゆら、ゆらゆらと。頭部、上半身、上肢がタイミングをずらしてゆらゆら、ゆらゆらゆら、ゆら、ゆら、ゆらゆら、ゆら、ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら。
一直線に向かってきた。
「おお」
左右の動きに気をとられ、≪模倣犯≫は迫ってくる動きに反応を遅らせた。薙刀を強く握る。向かってくれ場そのまま突き刺さる位置に刃をずらす。最小限の動き。もちろん、それだけでは終わらない。
≪撲殺≫は刃の柄を握り、捻る。木製のそれはひしゃげてしまい、刃はともかくとして薙刀としては使い物にならない。即座に手放すことを判断した。引き寄せようとした≪撲殺≫は折れた薙刀だけを屋上入り口の方へ放り投げた。
「素手の勝負かぁ」
体格差は一目瞭然だ。≪撲殺≫は業よりも大きく、また≪模倣犯≫は業よりも小柄。≪模倣犯≫もここ数日は戦ってきたとはいえ、≪撲殺≫からしたらまだまだ
だが、それは、始まる前までの話。
≪模倣犯≫と≪撲殺≫が出会った瞬間。≪模倣犯≫は危機感を感じた。業が≪模倣犯≫に感じたように、≪模倣犯≫も≪撲殺≫に「こいつはやばい」と本能が告げた。ならばどうするうか。逃げることは≪模倣犯≫の『正義』が許さない。けれどその場で戦えば確実に負ける。『正義』が『悪』に屈する。そんなこと、あってはならない。
神のお告げというべきか。≪模倣犯≫の頭の中に、言葉が降ってきた。そのお告げの通り、≪模倣犯≫は見て学んだ。一番近い所で。たまに、遠くから第三者の視点で。≪撲殺≫の戦い方を。≪撲殺≫自身のことを。試行回数が必要だった。だから、≪撲殺≫と出会っては回避に努め、離れ、また出会い、相手を知る。さながら運命的な出会いをした遠距離恋愛。相手のために身を粉にして出会う。知って、知られ、知り尽くし、将来を
丸腰の≪模倣犯≫は≪撲殺≫の動きを思い出す。その巨体と太い腕で威圧。距離感を混乱させるそれは、常套手段としてより長い足で先手を取ろうとする。視界が腕と顔と圧で制限された中で、死角からの蹴り。体勢を大きく変えて繰り出されるそれは意表を突くのに十分な効果を発揮する。
けれど、知っていれば脅威ではない。≪模倣犯≫は大きく外から回ってきた足の射程外に出て、即座に≪撲殺≫と体幹を並べる。
体格差で劣っている≪模倣犯≫が狙うのは、関節と急所。厚い筋肉で覆われた体では、いくら殴ろうが蹴ろうが蚊ほどのダメージしか与えられないだろう。
後頭部。耳。顎。脇腹。鳩尾。背骨。膝。アキレス腱。
素手で狙える場所には限りがある。そこに手刀を打ち込もうとした。
その時。
――ゆらり。
≪撲殺≫は正面から突っ伏した。
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