うんこな子供



 冬花の後ろ姿を茫然と眺めながら、僕は少し顔が赤くなるのを感じた。


 これって、これって、これって、もしかしてラブレター?


 封筒にはぐでっとしたワンコのイラストが描かれていて、とても小さくて儚い文字で宛名が僕。そして裏には何も書かれていなかった。


 いやいやいや、10歳の女の子から見れば僕はおじさん。だからこれはラブレターじゃない。でもでもでも、あの恥ずかしがり様はそうとしか思えない。


 僕は取り敢えず、自分の手に持っていたレポート用紙の間に封筒を挟んだ。


 これは職員室に戻って、がさつに開いて読んではいけない物だ。誰か他の先生にあれこれ言われるのもいやだ。彼女が10歳とは言え、一人の女の子が勇気を振り絞って僕に手渡してくれた手紙だ。キチンと自宅に帰ってから、真面目に拝読しなければいけない。


 僕は先生として、彼女の気持ちを正面から受け止めねばならない。


 僕はそう決めて、その日の授業を終えてからいつもの雑務をこなし、夜にはマンションに戻った。それから夕食も取らずに早速机に座り、ペーパーナイフを取り出すと、丁寧に手紙を開いて中身を読んだ。


 とても小さくてたどたどしくて、綺麗な字だけど、どこか弱くて儚い筆跡だった。






 先生へ


 わたしは先生の事が大好きです。


 きっかけは先生がHRで話していた「テキトーって大事だ」って言葉を聞いてからです。


 先生は言いました。


 僕は教頭先生にいつも怒られているけど、でも元気だ。その理由をみんなに教えるね。それはずばり、心に棚を作れ、って事。いいかい、苦しい事とか、辛い事は世の中にいっぱいある。でも、全部抱え込まなくてもいい。どうしょうもない事は心に棚を作って押し上げて、しらんぷりでいい。そして余裕が出来たら考えればいいんだ。でも、忘れたままで向き合うのをさぼるのは駄目だよ。


 自分ではどうしょうもない事や無理な時は、友達や周囲に頼っていいい。もし友達がいなくても、極端な話だけど見ず知らずの誰かに言うのもありなんだ。却って親身になってくれる他人だって世の中には一杯いる。先生は行きつけの食堂のおばさんに、困った事を相談したりもするんだ。


 それで先生が言いたいのはね、何かがある時に一人で抱え込んではいけないって事。そして辛い時には思い詰めないで。絶望や不幸はたくさんあるけど、世の中には、希望や幸福もあるって忘れないで。今は小学生でも塾とかで大変だし、やる事がいっぱいある。苦しいなぁって思った時、お願いだから、思い詰めないで。だから、テキトーって大事だ。先生はテキトーが大好きなんだ。


 わたしはそれを聞いていて、なんだかうれしくなって、急いでメモをとって、毎日読んでいます。


 わたしは先生に助けられました。


 それで、こんな事を書くのはいけない事ですけど、先生ならわかってくれると信じてます。


 でも、すごく書くのが怖い、とても怖い。手が震えてくる。でも先生に知って欲しい。わたしの事を知って欲しい。


 わたしはいじめられっこです。


 2年生になった時からずっと、もうずっと、ずっと2年間孤独です。


 ひとりぼっちで、どうしょうもなくて、神様に助けて下さいって何度も、何度も言いました。


 最初はぶつかられたり、けられたりして、怖い声でどなられたけど、年々ひどくなる。女子トイレで便器の中に頭をツッコまれて、「うんこ」って呼ばれて、教科書をぶちまけられた。


 わたしは泣きながらこの手紙を書いてます。


 わたしはまだ子供だから、こういう時って、どうしたら助かるのか、逃げられるのか、やめてもらえるのか、わからない。


 どうにかしようとして、努力もして、泣きながらやめてって、何度も何度も言いました。わたしはなにもしてないのに、なんでって言い続けた。


 自分の事だから自分でどうにかしなくっちゃ、自分でがんばらなくっちゃ、って思って、これ以上学校が嫌いにならない様に、あの子達がわたしを転がすのをやめてくれるように、何度も、何度も、頑張った。


 でも、駄目だった。


 朝起きると心臓がどきどきして、学校に行くと考えると汗でびっしょりになる。震えて上手くからだが動かせなくなる。恐怖でこころがいっぱいになって、めちゃくちゃなこの毎日で、いじめられている時以外は、いつもひとりぼっち。


 お母さんに助けてって言いたかったけど、言えない。仕事が忙しそうだし、ここ数年間はお父さんと離婚しするのにもめていて、いつもイライラしてて、とてもかわいそうだった。


 わたしは我慢して、泣かないようにして、心配させまいとして、学校に行きたくないなんて、言えない。


 やっぱり、先生、自分の気持ちを出すのが怖いです。気持ちを伝えるのが怖いです。


 わたしは毎日みじめな気持ちで登校して、ずっと下をむいてみじめに歩いていて、誰とも目を合わさない様にして、誰にも見つからない様に息をひそめて、誰にも分らない様におびえている。


 こんな人生なんてのぞんでいないのに、いつも汗をかいて、震えて、うんこって呼ばれて殴らる。


 わたしは何もしていないのに、彼女達はなんでやめてくれないんだろう、なんでわたしを見つけて、わたしの所に来て、むりやりひきずって、聞きたくもない嫌な声を出して、痛めつけられて、泣くのもおこられて、ひどいめにあわされて、どうしてって、なんでって。


 トイレのタイルのうえで泣きながら自分の汚れた服をみて、きょうふで動けなくなって、来る日も来る日も、またなぐられて、けられて、お金をとられて、お母さんが一生懸命作ってくれたお弁当をぐしやぐしゃにして捨てられて、体操服をかくされたり、破られたり、かばんのなかみをかきまぜられて、おもしろそうにトイレにぶちまけられる。


 わたしがもっているものを全部だめにしたって、なにが楽しいの。


 わたしのからだを叩いたり、ひざまずかせてどなったり、転ばせたり、そんな事のなにが楽しいの。


 わたしの心は限界で、ただ痛めつけられているだけのままで、ずっと、ずっと、わたしはこのまま何かを失くし続けて、もうなにも持っていなくて、彼女達とは友達にもなれなくて、がまんもなにもかも無駄で、ただ生きてて意味がない。


 わたしだって同じ人間なのに、彼女達はわたしを苦しめて、もうここから助からない。


 ずっと、そう思ってた。


 もう諦めてた。


 でも、先生に会えました。


 5年生になってクラスが変わって、私は先生に会えました。


 先生はいつも笑顔で楽しそうにしゃべって、みんなも先生が大好きです。


 そして、わたしは先生が言った「テキトーって大事だ」って言葉ですこし元気がでました。


 それがどれほどわたしを助けてくれたのか、それがどれほどわたしを勇気づけてくれたのか、とても言葉じゃ言い表せないことだった。


 ずっと抱え込んでいたものを、少しだけ横にずらして、先生の言葉を聞いて、顔をみているだけで、楽しくなりました。また学校が楽しくなりました。


 先生は私の希望です。


 だから、わたしは先生が大好きです。


 元気をくれた先生にどうしても言いたい言葉があって、この手紙を書きました。


 先生、ありがとうございます。



                              美咲冬花







 僕は暫くの間、茫然としてしまった。


 涙が溢れていた。


 悲しみ、怒り、無力感、様々な感情が僕の中で渦巻いていた。


 なぜ、たった10歳の女の子がこんなにも苦しまなければいけないのか。


 なぜ、彼女はここまで追い詰められなければいけないのか。


 僕はなぜ、もっと早く気が付いてやれなかったのか。


 なさけない、なさけない、なさけない。


 拳を握り締めて、歯ぎしりする。


 全身の血が逆流するみたいに暴れている。


 僕はくやしかった。


 先生とか呼ばれていい気になっていた自分がゆるせなかった。


 今日まで僕は何を見ていたのだろう。


 僕は彼女の苦しみを、なんで悟ってやれなかったのだろう。


 自分のクラスにいる小さな女の子の胸が張り裂けるのを、なぜ見逃していたのだろう。


 僕は駄目な大人だ。教師と言う前に、一人の大人として駄目な人間だ。


 何も見えていない、何もわかっていない。


 苦しみ怯える心を、悲しみに染まる心を、絶望で満たされた心を。


 先の見えない暗いトンネルを、泣きながら歩き続ける彼女を。


 僕は何もわかっていない。


 僕は何も救えていない。


 僕は希望なんて呼ばれる男じゃない。


 そんな僕を彼女は好きだと言ってくれた。


 そんな僕を信じてくれると言ってくれた。


 そんな僕に自分の事を知って欲しいと言ってくれた。


 こんな辛い手紙を、


 こんな吐き出せない恐怖に怯える手紙を、


 泣きながら彼女は書いた。


 たった10歳の女の子が必死になって、


 たくさんの涙と一緒に、僕に伝えようとして書いた。


 彼女の最後の暖かい言葉が、ずっと僕の胸の中に残っていた。


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