弍ノ話
大雨の予感
生温い風が平野に吹き抜ける。
雨の予兆を肌で感じ取ったステラはメビウスと馬とを幹の太い大木の下へと運んだ。幾許もなくぽつりぽつりと雨が降り始め、二人と一匹は木の洞で息を吐く。
街を出て一週間。一行は国を二分する巨大な森の手前まで来ていた。鬱蒼と広がる森を眺めてメビウスは一人溜息を吐いた。
「ツイてないな……」
月の煌々と照る夜には森の奥に潜む怪物が平野にまで姿を現すと言われている。
まことしやかに囁かれる噂を恐れてメビウスは少し離れた海岸の港町から貨物船で迂回したのだが、ステラの手前そうはいかない。何より、ステラの為にもなるべく早く目的地に辿り着きたかった。
「……っ!?離して……っ!」
「いーじゃん別にー」
争いの音に回想に耽っていたメビウスが振り返ると、ステラは彼女より幾分か小柄な少女に組み伏せられていた。
「(何者だ……?それよりどこから……!?)」
メビウスは咄嗟に剣を掴む。その所作を触角のような揺れる二本のアホ毛で感じ取ったのか、少女は慌てて飛び退き、今度はメビウスに近寄った。
「カッコイイ剣!オニーサンの?」
「え、あ、うん……!」
緊迫した空間に響くとんちんかんな明るい声。メビウスは拍子抜けしてしまう。少女はつぶらな瞳を輝かせてそのままメビウスの腰に提げていた剣をべたべたと触る。
扱いに困ったメビウスは彼女の容貌を観察する。ステラとは対照的な褐色の肌と短いブロンドの髪は彼女の特性を彼によく理解させた。好奇心旺盛な彼女は次いで旅装束の下の鎧にも触れる。
「こんな豪華な鎧、見たことないよ。オニーサン、もしかして凄い人?」
囃し立てられる気分は悪くない。が、活発な少女の相手をするのはメビウスには重荷だった。リューゼンに絡まれた時は黙ってやり過ごしたが、ここでは逃げ場がない。
話半分で頷いていた彼は嫌な視線を感じ取る。ステラのものだった。
「どうしたの?」
「一旦落ち着いて。ほら、僕らまだ自己紹介もしてないし……」
少女の華奢な肩を掴み、洞の中に押し戻す。ステラにさらに強く睨まれて、メビウスは悲鳴をあげそうになった。
少女はステラの殺気もメビウスの冷や汗も意に介せず、意気揚々と話し始めた。
「私は森の案内人、マルクスって呼ばれてるんだ。オニーサン達、この森の近くは初めてでしょ?私に案内させてよ」
警戒を崩さないステラと困惑するメビウスにマルクスはぎこちなくウィンクをして見せた。
純粋無垢なマルクスとの交流によってステラが少しでもニンゲンに慣れることができるのではないか、とメビウスの頭は考える。ステラを横目で見ると、彼女は目も合わせてくれなかった。
「じゃあ、お願いしてもいいかな?僕はメビウス、彼女がステラ。よろしくマルクス」
うわ……と、ステラが露骨に嫌な顔をする。彼女は感覚的な部分で素直だった。だがしかし、メビウスの鈍感さはそれ以上である。
雨が止んだ時機を見計らい、マルクスは湿った平野に飛び出した。
「それじゃ、まずは……うん、泉かな。ふたりともしばらく入ってないよね!」
幼い少女の発言は容赦ない。メビウスはすぐさま旅装束の袖を嗅ぐ。確かに少し汗の匂いがした。
二人はマルクスの案内に従って自然に湧出した温泉へと辿り着いた。
「メビィはそこで待っててね」
少女はあどけない笑みを見せて温泉近くの岩場へと姿を消した。ステラもメビウスに近付いて「荷物、お願い」と耳打ちすると、自分も岩場の陰に消えた。
手持無沙汰のメビウスは呑気に寝転がっている馬の腹に背中を預ける。雨上がりの陽気に誘われて、瞼が重くなってきた。鼻孔に押し寄せる爽やかな草の香りも、彼の心を落ち着ける。
「少し、休もうかな……」
そこから意識を失うまではもう、早かった。
激しく水の跳ねる音にメビウスは跳び起きる。太陽の位置からあまり時間が経っていないのは分かるが、それでも自分が隙を見せたことは明確だった。
「ステラ……!」
慌てて立ち上がり、水音を辿って泉の方へ駆け寄る。が、岩場の向こう側から彼にペチっとヌメリを帯びた何かが飛んできた。
魚だった。
「ステラすごーい!」
マルクスの興奮した声が聞こえ、次から次へとメビウスの周りに大小様々な魚が飛んでくる。周りを見渡せば、確かに地面が魚だらけだった。どうやらステラが熊のように魚を獲っているらしい。
「もうやめちゃうの?もっと獲ればいいのに」
「……これ以上は、ダメ」
「じゃ、向こう行ったやつやつ取ってくるねー!」
ビュッと岩場の陰から素早くマルクスが飛び出してきた。そして、二人の目が合う。マルクスの髪から水が一雫、滴り落ちた。
「メビウスの変態っ!!!」
「ごめんっ!」
メビウスは両手で顔を覆い、罵倒を背中に受けながらメビウスは走って馬の元まで戻った。
何も知らぬ馬は主人の訪れにのっそりと顔を上げる。
「ごめん、起こしたかな」
未だ胸の鼓動が治まらないメビウスは馬の頭を撫でることで心を落ち着けようと試みる。滑らかな肌を撫でているうちにいつしか気分も落ち着いて来た……ところに木の枝で背中を突かれた。
「ステラー、この変態どうする?」
「知らない」
ステラは無関心な様子で魚を一匹ずつ細い枝に刺していた。メビウスは両手を上に上げる。
「わざとじゃないんだ。起きたら水音がしたから何か起きたのかと思って……」
「寝てたの?」
メビウスはステラから荷の番を任されていた。ステラが立ち上がったのが背中越しでも分かった。玉のような汗が全身から噴き出る。
「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど……」
「荷物が無事ならいい」
「良くないよ!覗こうとしたんだよ!」
「メビウスはそんなことしない」
ステラに保証され、メビウスはまず一息。そしてマルクスとの和解を試みようと振り返る。
「僕は二人に何かあったらと思って行ったんだ。別に覗こうとした訳じゃなくてさ……」
熱心に説明を試みるメビウスにマルクスは渋々感情を表すように天を突くように立っていた触角を下げた。
「まぁ、心配してくれたんだったら……」
「……ありがとう。じゃあ、僕も体を洗ってこようかな」
「ステラ、どうする?」
「え、ダメなの!?」
「冗談冗談!さっさと入って来て!」
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