三枚のお札×盗聴
「実は、私、好きだった女性が住んでいた部屋に、盗聴器を仕掛けたことが、あるのです」
おもむろに、なんとも悪趣味極まりない話をしだしたのは、常連のOさんだ。
現役の歴史教師として、都内の私立高校で教鞭を奮うというOさんとは、わたしが月に何度か顔を出している、行きつけのバーで知り合った。
お互いの生活リズムが似ているのか、出会す機会が多く、なんとはなしに一言二言交わしながら飲むうちに、いつの間にか、すっかり打ち解けた仲となっていた。
八の字眉毛が特徴的なOさんは、その眉が象徴する言葉に負けず劣らず、オドオドと気弱で、痩せて顔色も悪く、どちらかというと暗めの印象を受けたのだが、一度話し始めると、なるほど、教壇に立っているというだけあって、明朗な声と言葉でもって流暢な会話をする人物である。
そのギャップを面白く感じたわたしが、Oさんに興味を抱いたのが、そもそもの始まりだった。
なにか、奇怪な経験などありませんか? と、聞いたのがいけなかった、のかもしれない。
「学生時代のことですので、かれこれ、数十年前になりますか。私が通っていたのは、然る国立大学でしたが、その女性は、校内いちのマドンナと呼ばれるほど、美しい人でした」
その他大勢の男子と同じように、若かりし日のOさんも、その女性に淡い恋心を抱いていたらしい。
「ですが、私はご覧の通り。上京したての田舎者同然、今も昔も対して変わらない地味な風体、引っ込み思案の性格をしていました。旧友には、歴史オタクとあだ名されるほど、歴史以外に趣味や取り柄もありませんでした。ですので、なにをどう逆立ちしても、彼女には釣り合わないだろうと、はなっから諦めておりました。私は遠くから彼女を眺められれば、それで幸せだったのです。ところが、」
当時、Oさんは、消防設備会社でアルバイトをしていたそうだ。
公共施設や企業、集合住宅などに、消化器や非常警備装置、火災通知設備を始めとした消防設備の設置、点検、管理などを主に行っていたOさんのアルバイト先は、常に猫の手も借りたいほど忙しかったのだという。
住戸数が多い大型マンションや団地などは、スタッフが手分けして点検に当たる場合も多々あり、アルバイトのOさんも度々駆り出されたという。
「点検自体は対して難しくはないんで、私でもできたんですよ。資格、ですか? 消防設備士の資格が必要なのは、延べ面積千平方メートル以上の防火対象物なので、それ以外は無資格者でも大丈夫だったんですよ。なので、社員の人が誰も手が空いてない時、小さなアパートなんかでしたら、一人で行って来てなんてのもありましたね」
例の憧れていた女性のアパートに点検に行かされたのは、まったくの偶然だった、という。
「予め、点検に窺いますって告知はされていたんですが、学生や勤め人が多いアパートだと、だいたい部屋の主が学校や仕事に行っている昼間に大家さんが立ち会って、ちゃちゃっと済ますってケースが多いんですよ。そのアパートに関してもそうでしたね。ちょうど私は講義を取ってない曜日だったのでアルバイトをしてましたが、普通に平日だったんです。なので、最後の部屋から彼女が出てきた時は、本当に驚きましたよ。まぁ向こうは、私のことなんてまったく知らなかったでしょうし、ましてや同じ大学に通っている学生だなんて思ってもみなかったでしょうけどね・・」
どうやら、女性は、風邪を引いてしまい、休んでいたらしいのだ。
間近に見る彼女は、遠くから眺めるよりも遥かに綺麗で、熱のある潤んだ眼差しに色っぽさか滲んでいたのだという。その魅力的な姿に蠱惑されてしまったOさんの心に、にわかに黒い欲望が沸き上がったらしい。
「彼女の部屋に設置された消火設備を点検する時に、わざと首を捻ったり、おかしいなぁって呟いたんですよ。もちろん、なんの異常もなかったんですけど・・その後、大家さんには異常なしですとお伝えして、その日の点検を終えたんです。それからね、」
Oさんは翌日、会社の制服を着て、彼女の部屋を再び訪ねた、という。
「ちょっと、気になるところがあったので、再度点検させてもらっていいですかーって理由を言ってね。あーやっぱりこれが原因だなぁなんて独り言を言いながら点検している振りをして、秋葉で購入した超小型盗聴器を仕掛けたんです。完全な犯罪ですけど、当時は、興味本位だけでまっしぐらでしたね。だって、そこで同じ大学だなんて言ったところで、私なんて相手にもされないのはわかってましたから。なので、ちょっとだけでも、麗しのマドンナの私生活を覗き見たいって、ただそれだけでした」だから、カメラとか本格的なものじゃなく音だけをね、ちょっと、中途半端な変態だったんですと、Oさんは、気まずそうに自分の顔を何度か撫でながら言い訳をした。
けれど、そんなOさんの企みは、呆気無く崩れ去る。
それから数日後に、彼女は引っ越してしまったのだ。
彼女が当時付き合っていた男と同棲をし始めたらしいと、Oさんが噂に聞いたのは、彼女の部屋に盗聴器を仕掛けて一週間後のことだった。
最初の二日程、雑音のようなガサガサした音だけが聞こえ、それ以降、期待していた生活音どころか、物音一つしなかったため、ああ、やはり不良品だったか、ワンランク上の高価なものにすればよかったかと、夜な夜な後悔していたOさんは、その事実を知った途端に意気消沈したようだ。
「かといって、わざわざ回収しにも行けないでしょ? バッテリーも自然に切れるだろうと踏んで、そのまま放置することにして、すっかり忘れてしまったんです」
その盗聴器が、再び、音を拾い始めたことに気付いたのは、それから一年後のことだったらしい。
「論文を書くのに、部屋のどこかに置いた資料を探しまわっていたんです。ええ、私も大半の男子学生の例に漏れず、片付けが苦手でして、部屋は常に散らかってました。そうして、ゴソゴソしているうちに、放っぽったまま忘れていた盗聴器の受信機の電源ボタンに、どうやら触れてしまったようなのです」
突如、子どもが、泣き叫ぶ声が響き渡ったという。
「吃驚しましたよ。彼女の部屋に仕掛けた盗聴器がまだ、生きていたみたいでね。見ると音量が最大になってました。慌ててボリュームを落としましたけど、いったいどういうことなのか、状況を把握するまでに時間がかかりましたね」
泣き叫んでいる子どもは、声の感じから察するに、三歳から小学校低学年くらいだろうか。
合間合間に、親と思しき大人の怒鳴り声も、混じっている。
その音声をじっと聞いていたOさんは、徐々に動悸がして胸が苦しくなってきたのだという。
「ただただ可哀相なんですよ。子どもは、ごめんなさいごめんなさいって繰り返し、一生懸命に懇願している。それなのに、多分、親が、殴るか蹴るかしているみたいなんですよ。そんな嫌な音が、時々、聞こえるんです・・」
Oさんは、通報すべきだと真っ先に思った。
だが、これが現実に起こっていることなのかどうか、確信を持てない。
もしかしたら、テレビや映画の音なのかもしれないからだ。
そう考えたOさんは、しばらく様子を見ることにした。
それからのOさんは、帰宅すると、ラジオを流すように盗聴受信機の電源を入れて、その前に齧り付くようになったのだという。
なにかの間違えであってくれと、祈る気持ちであったらしい。
ところが、やはり、子どもの泣き声が止むことは、なかった。
特に夜、頻繁に聞こえていたようだ。
居ても立ってもいられなくなったOさんは、どうにかしてやりたい気持ちが強まっていった。
そして、迷った末に、とりあえず現状を確かめてみようと思い立ったのだ。
「で、それには、やっぱり、点検ですよ。虐待する声が聞こえ始めた時を狙って、訪問したんです。水漏れしている可能性があるとかなんとか言って、水回りを点検するように大家さんから依頼されましたと、消防設備の制服を着て、会社名の入ったところだけ上手く隠して、それらしい工具を持ってね。ええ。その家族になってからは、まだ一度も、消防設備の点検で入ってなかったんで、疑われずに割と簡単に入れてくれました」
眉間に深い皺が寄り、血走った目の般若のような顔をした母親らしき女が対応したという。
最初、女は苛々とした口調で、渋っていたが、Oさんの水道料金が倍になるかもしれないという脅し文句に結局は折れたのだそうだ。
そうして、再び足を踏み入れた室内は、以前、憧れのマドンナが住んでいた時とは打って変わって、ひどく荒れ果てていたらしい。
「以前は、女性らしい淡い色合いのラグや白で統一された家具、ドレッサーなんかがあった可愛らしい雰囲気の部屋だったんですけど・・ゴミだらけで、衣類も散らかっていて、とても不衛生でした。同じ部屋とは、思えませんでしたね」
だが、子どもの姿は、確認できなかったそうだ。
それどころか、子どもが使っているような品や、子どもサイズの衣類の類いも見当たらなかったという。
「なにかの間違いなのかなぁと思いましたけど、やっぱり不定期に子どもの声が聞こえていたんですよ。それに、あの対応に出た母親らしき女の怒鳴り声もね。もしかしたら、子どもは押し入れとかに隠されていて、監禁に近い生活を送っているんじゃないかって思いましたけど、さすがに二度目は点検で入り込むことはできませんから・・」
そして、散々考えた末、Oさんは、盗聴している音声を録音し、そのデータと親子の住所を匿名で警察に送りつけたのだという。更に、数日前に辞めた防火設備会社に電話して、盗聴器らしきものが仕掛けられているから、確認に来て欲しいと、女に似せた金切り声で電話した。
「その後、どうなったのかって? さぁわかりませんね。盗聴器は破壊して捨てましたし、電話番号も変えて引っ越しましたから。私ができることは、やりましたよ」そう言って、Oさんは満足そうにカクテルを飲み干した。
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