浦島太郎×殺虫剤
久方ぶりに地元へ帰省した時分のことだった。
幼少期より見慣れた敷居を跨ぎ二日ほどは、実家の居心地のよさと懐かしさに塗れて過ぎた。
ところが、三日めを過ぎたあたりから暇を持て余し始めたのだ。
母もまた、わたしを客人扱いすることに疲れてきたようで、だらしなくソファーに伸びて、つまらないテレビを半飽きの眼球に写すという生産性の欠片もないことに耽っていたわたしの前を、妨害するように掃除機で往来をやりながら「散歩でもしてきたらいかがですか?」と、睥睨してきた。
特に逆らう理由もないわたしは、その命令に従って、近所を散策することにした。
かれこれ七年ぶりの地元の街並。随分と新しい建物が増えたのだなとキョロキョロ見回しながら歩いていると、自転車に乗った警察官に職務質問をされた。
どうやら挙動不審な人物に見えたらしいのだ。
失敬だな、とその警察官を見ると、どこか覚えのある顔をしている。おや? と、わたしが首を傾げたのと、その男が気付いたのが、同時だった。
「おお!久しいな!どうしてた!」
彼はわたしの幼馴染みであったのだ。
こちらに帰ってきていて一週間ほど滞在することを伝えると、では飲みに行こうとなった。
現職警察官の彼は、ふとしたことから出世コースを逃してしまい、今は交番勤務になっているそうだ。
「色々あったが、今は気楽にやっている。犯人だヤクザだを相手にするわけじゃないから、命の危険が少ないこともいい。バカにされることもあるが、オレは結構気に入っているんだ」豪快に笑う彼。
その笑顔は子どもの頃となんら変わりないが、話し方は、すっかり警察官特有の口調に変化している。
特に、わたしへの素朴な質問をする時の彼などは、わたしを、誘導尋問や詰問の類いを受けているような気分にさせるのだ。
彼は、体の弱い母親と二人暮らしをしている。
子どもの頃から生活保護に支えられた生活を恥じていた彼は、中学卒業と共に警察学校に入校した。
自衛官か警察官で迷ったが、人々の生活に関われるからと、警察官を選んだのだと打ち明けてくれたことを朧げに思い出した。
彼は今、一家の大黒柱として立派に母を養っている。
あとは、嫁でもいればなと苦笑いを浮かべる。
四十の峠を超えた男は人気がないんだ、と婚活の状況を語り始めた。がんばっては、いるらしい。
「選り好みできるような歳じゃないのは自覚しているが、誰でもいいってわけじゃないさ」何杯かお代わりしたハイボールで饒舌になってきた彼は、自分の女性観をとつとつと語り出した。
学生時代の彼は、クラスの男子の半数以上が可愛いと認める女子を好きになる傾向があり、毎回漏れ無く玉砕していた。
そんな彼が歳を経て、女はやっぱ中身だね、最終的には性格に集約されるわけよ、と酔いの回った熱弁をふるっている。
大人になったのだなと感心しながら耳を傾けていたが、いざ具体的な理想の女性像を述べる段に差し掛かると、中身が大事と言いつつも、顔だの目だの身なりだのと、外見への拘りが目立ち始めた。
嫁の宛てがないのも納得、相変わらずだな、とわたしは苦笑しながらグラスを呷る。
「だが、いくら好みの外見をした女であっても、年を取れば、例外なく皺くちゃババアになる。だから、やはり、最終的には性格に集約されることになるな」うん、と彼は腕を組むと、アルコールで赤くした顔で何度か頷く。
それは、老後までを見越しての見立てなんだなと、わたしが聞くと、当たり前だろう、と返ってきた。
「人生、老いてからのほうが長いんだ。心身共に弱って心細くなる老後だからこそ、二人で支え合って生きていかなきゃならん。それこそが、夫婦の究極の形だろうとオレは思う。子どもなんて、当てにはならんよ」
むかーし昔、あるところに、おじいさんとおばあさんがいましたとさってやつだな、とわたしが茶化すと、昔は六十過ぎたら年寄りに区分されたようだから、今と比べて随分と若かっただろうがなと、彼は応じた。
「長生きできる時代だ。だが、弊害が多いのも事実なんだよ・・」と、彼は語り始めた。
Uさん夫婦は、彼が理想とするような、穏やかな夫婦だったらしい。
小作りな平屋建てに住み、猫の額ほどの庭に突き出た縁側で、彼はよくお茶をご馳走になっていたのだという。
「老人の孤独死なんてざらだからな。巡回する時には、その地区の高齢者だけで暮らしている家は、様子見がてら、気をつけて回るようにしてたんだ。だから、話し相手になることもよくある」
Uさん夫婦の場合も、そうだったようだ。
彼が自転車で通り掛ると、ご苦労様です、いいお天気ですね、などと夫婦のどちらかが必ず声をかけてくるのだと言う。
「明るくてしっかり者の奥さんで、ご主人も矍鑠として、いつも盆栽なんかを弄っていたっけな。確か、ご主人が盆栽の県大会に優勝したとかなんとか」
Uさん夫婦に子どもはなく、二十代の時に駆け落ち同然で奥さんと結婚した後に、今の住居に移ってきたらしい。それ以来、何十年も二人っきりで暮らしてきたという。
「子どもに恵まなかったから、以前は犬や猫を飼っていたらしいんだが、先に死んでしまうのが悲しいからと、もう飼わないことにしたんだそうだ。確か、縁側の水槽に、二人が結婚してから飼い始めたという、かれこれ七十年目になる長生きの亀が一匹いたはずだ。長寿の象徴ともいえる亀が生きている限り、自分たちも長生きできるなどと自慢していた」
背中が曲がってはいたが、若い頃は男前だったと思わせる老夫と、華やかな色の衣服を身に纏い、常に身だしなみに気をつけ、週に一度の美容院をなにより楽しみにしていた朗らかな老妻。
二人は、支え合って生きていたらしい。
ところが、
「夏の始め頃だったかな・・ご主人の口数が、めっきり減ったんだ。ご主人は、好奇心旺盛で新し物好きな性格だったから、前は、テレビで話題になってる情報だ世界情勢だ若い頃の武勇伝なんかの類いを話し出すと止まらずに、奥さんに窘められるくらいだったんだけど、急にさ。どうしたのかと聞いても、奥さんは、前からあんなでしたよと言って、取りつくしまも、なくてな・・」
気になりつつも、数週間後、
奥さんの姿が、見えなくなったのだと言う。
彼も最初は、たまたまだろうと、思ったらしい。
だが、数日後、再び通っても、奥さんの姿は、見えなかった。
それどころか、いつも風に靡いている洗濯物も、ない。
ご主人だけが、いつものように縁側に出て、亀を相手に、ぼんやりと日向ぼっこをしていた。
声をかけると、家内は友人と旅行に行っているのだと返ってきたらしい。
「いつも、奥さんがまめまめしく世話を焼いていた感じだったから、ご主人だけだとどうしていいかわからず、洗濯は疎か家事も疎かになっているのだろうと、奥さんが留守の間だけヘルパーでも頼んだらどうかと提案したんだ。けど、ご主人は照れくさそうに笑ってさ、家内があと数日で帰ってくるはずだから、平気ですよって」
断ったと言う。
だが、彼はそうして笑うUさんの背後に、伸び放題になって枯れかかった盆栽があることに気付いた。
「あんなに大事にしていた盆栽が放置されっぱなしだった。それで、おかしいと思ったんだ。だけど、もしかしたら、仲がいいのは表面だけで、ほんとうはとっくに夫婦仲が冷えていて、奥さんが家出してしまったのかもしれないぞとも考えた。だとしたら、男気質の昭和の男であるご主人は、そんな恥ずかしいこと、他人様に、ましてや同じ男のオレに知られたくなんてない可能性だって、ある。或は、ほんとうに、なにか事件かもしれなかった。だが、その場合であっても、正当な理由もなく、憶測だけで勝手に家に立ち入ることはできないんだ。ましてや、家主でもあるご主人がいて、必要ないと言うんだ。無理に押し切ると、それは、不法侵入罪に当たる」
彼は、散々思案した末、心配ではあったが、立ち去ったのだという。
それから数日、どうしたもんかと気にしているうちに、連日の昼夜問わない酷暑の影響もあり、ご主人が縁側に出ていることがなくなった。
覗くと、亀だけが、水槽の濁った水を掻き分けながら、心持ち苦しそうに蠢いているのが見える。
縁側の横に据えられた室外機が、熱風を出しながら稼働しているところを見ると、室内でクーラーを効かせていることだけがわかった彼は、やっと奥さんが帰ってきたのかもしれない、と楽観的に捉えて、Uさん宅を後にしたらしい。
八月半ば。
溶けるような暑さのため、熱中症で倒れる住民が急増し、彼は対応のために忙しくかけずり回っていた。
そんな中、電話が鳴った。
隣の家から、異臭がする。すぐに様子を見に行って欲しいという。
問題となっている家の住所を聞いて、思わず冷や汗が出たそうだ。
Uさん夫婦の家だ。
彼は、慌てて向かった。
夫婦の家に近付くにつれ、妙な臭いが鼻をついたのだという。
更に、彼がペダルを漕ぐ一足毎に、臭いはだんだん強く濃くなっていったそうだ。
いよいよ近付いてくると、Uさんの家を遠巻きにして、鼻を摘んだ人集りができているのが見えた。
そして、
なるほど、異臭より遥かに強烈な劇臭が、辺りに立ち籠めているのだ。
その臭いは、下水臭や生ゴミの腐敗臭と、シンナーなどの臭いの強い化学薬品を混ぜた臭いとでも言ったらいいものか、いかんとも形容し難い臭いであった。
彼はハンカチで鼻と口を抑えて、Uさん宅のドアチャイムを鳴らした。
応答は、ない。
再度、鳴らす。
だが、応答は、ない。
耳を済ますと、シューと何かが吹き出ているような、微かな音がしたらしい。
ガス漏れ、か?
彼は、玄関扉に手をかけた。
が、鍵がかかっているらしく、開かない。
応援を要請したほうがいいと判断した彼は、無線を飛ばしたそうだ。
しばらく、玄関扉と格闘した後、庭に回ってみたのだという。
カーテンが閉められていたため、窓ガラス越しには室内を窺えない。
すると、縁側に面した窓から、細く白い煙が漏れているのを発見した。
煙が沸き立つ窓の正面には亀の水槽があり、すっかり乾涸びて、微動だにしない亀の甲羅が見えたそうだ。
彼は、勢いよく窓を開け放した。
その途端、
目が痛くなるほどの劇臭を孕んだ白い煙が、勢いよく彼に向かって、吹き抜けていった。
その白い煙が、バルサンだとわかったのは、
つい最近、ダニ退治のために、彼の家でもバルサンを焚いたばかりだったからだった。
煙が晴れた室内は、荒れ放題の惨い有様だったそうだ。
「一瞬で、後悔したよ。もっと早く気付いてやればよかったなぁって」
二間続きの奥に、汚れた布団を敷いて、誰かが横たわっている。
Uさんと思しき人物が、その枕元に胡座をかいていたそうだ。
充満する腐敗臭は増々強くなり、彼は吐気を押さえて、部屋に踏み込んだ。
彼に背を向けている人物に呼びかけるのだが、一向に反応がない。
丸々太った蠅の死骸だらけの床を、爪先だって奥へと進むと、その人物の肩越しに、覗き込んで仰天した。
「オレは、職務中は、極力感情を揺らさないように努めているんだ。感情に左右されると冷静な判断ができなくなるだろう? だから、感情移入なんて持っての他だ。だがな、あの光景を一目見た途端、脳天を殴られるほどの衝撃が体を走ったよ。怖いとか、気持ち悪いとかじゃない。そして、涙が滝のように溢れ出てきた」
布団に横たわっていたのは、Uさんの妻だった。
いや、正確に言えば、かつて、Uさんの妻だった亡骸、だ。
体液に塗れた布団は、赤茶色く変色しており、奥さんの優し気な眼や、欠かさずに口紅を塗っていた唇があった穴からは、白い蛆が犇めいているのが見て取れたそうだ。
「ご主人は・・奥さんの亡骸に湧いている蛆や、バルサンでも死なないで部屋を飛び回っている蠅に向かって、一生懸命、殺虫スプレーを吹き付けていたよ」
髪と髭が伸び放題の上、骨と皮だけの体に、垢を煮詰めたような臭いのする、シミだらけの衣類を身に纏った、変わり果てた姿をしていたUさん。
落ち窪んだ目は空ろで、ぶつぶつとなにかを呟きながら、殺虫スプレーを振り回しているだけだったそうだ。
「認知症だったらしい。それで、奥さんが亡くなったのが、理解できてなかったみたいで・・気の毒過ぎて、見ていられなかったな」彼は苦々し気に顔を歪めると俯いた。
Uさんは、その後、特別養護老人ホームに入り、間もなくして亡くなったらしい。
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