鶴の恩返し×アイスコーヒー

 暦の上では、とっくに十月になったというのに、その日は、夏並みに暑かった。

 わたしは、行きつけの喫茶店にて、涼みながら読書をしていた。

 ブレンドコーヒーをお供に、古本屋で発見した『女たちの告白の書』なる古書を熟読していたのだ。

 肩を叩かれたのは、ちょうど、安部定の供述が始まった行だった。

「お久しぶりですー」と挨拶されたのは、歳の頃三十前後くらいの男。

 引き締まった体に、ワイシャツとストライブ柄の粋な色をしたネクタイを絞め、白く輝く歯を余す事なく堪能できる笑顔を向けている。

 誰だっけな・・と、わたしは一瞬当惑した。

 歳のせいなのか、最近、人の顔が出て来づらいのだ。

 男はなんの断りもなく、わたしの向かいに腰を下ろすと、アイスコーヒーを注文した。

「最近、調子はどうですかー?」と言いながら、わたしの手にある本を覗き込むと、うわ、相変わらず好きですよね、こういう類いの、と苦笑いをすると、置かれたおしぼりを広げて豪快に顔を拭く。

 わたしはというと、目の前で顔を拭いてさっぱりしている男がいったい誰であったのか、いささか頼りない記憶を呼び出し、必死に手繰り始めた。

 ハンサムな男である。

 それに、芸能人並みの笑顔と愛嬌を持っており、語尾を伸ばした話し方をして、おしぼりで顔を拭く・・

 全く思い当たらない。

 男は、そんなわたしに構わず、喋り続ける。

「でも、女関係のトラブルってー多かれ少なかれ、誰でも体験してるもんですよねー」と、一人頷く。

 そんな経験とは無関係のわたしは、記憶を探り続けながら、黙って、男の話を聞いていた。


「オレも過去にそういうの、ありましたよー学生の時ですかねーオレ、こう見えてそこそこ人気あったんでー」

 届いたアイスコーヒーを、さもうまそうに飲む男の話によれば、彼が大学生の時、一人の女を、助けた、らしい。

 大学内の図書館において、彼と彼の友人がふざけて寄りかかった本棚が倒れ、運悪く反対側にいた女が下敷きになってしまったそうだ。

 小さな悲鳴で、誰かが下敷きになってしまったらしいことが知れた途端、友人たちは一目散に逃げてしまったが、彼だけは慌てて駆け寄った。

 反省や後悔からではない。

 男は無類の女好き、しかも、美人には目がなかったからだ。

 なので、助けた、と言うには些か語弊があると、わたしは思う。



「当時、付き合ってた彼女も校内ミスコンで優勝するレベルだったんすよーでも、もっといい女と知り合えたら、普通、誰だってそっちに乗り換えるでしょ? 女なんて、そんなもんなんですわ。で、その下敷きになった女なんですけど、」

 男が回り込むと、本棚に足を挟まれて横座りになった、髪の長い後ろ姿があったそうだ。

 黒いワンピースを着た後ろ姿からでも、豊かなバストと艶かしい腰のラインが見てとれたらしい。


「絶対、美人だって思いましたよねー悲鳴も、小動物の鳴き声みたいに可愛い声だったしー当たりだなって」


 ところが、助け起こした女の顔は、ブロブフィッシュに似ていたと言う。


「やっちまったぁーって、後悔しましたよー知ってます? ブロブフィッシュ。世界一、不細工な顔した深海魚。オレも、最近知って、たまげたんですけどーマジで似てる」


 女は、涙目になりながら、何度もお礼を言ったようだ。だが、男は手を振るだけで、さっさと逃げたらしい。


 それから数日後の朝、男は、焦っていた。

 せっかく徹夜で仕上げたレポートを、どうやら電車に置き忘れてきてしまったらしい。


「通学中に、車内で見直ししてたんですわ。降りる時にうっかり置いてきたらしくて。提出期限が、その日までだったんで、駅に電話したりして焦りましたねーでも、見つからなくて・・」男は、割合簡単に諦めたようだ。


 ところが、男のレポートが、期限通りに、ちゃんと提出されていたことがわかった。


「どういうことかわからなかったんですけど、でも、ま、どこかの見ず知らずの親切な誰かが提出してくれたらしいってことで、ラッキーって思いましたねーその時は」


 その後も、親切は続いたらしい。


 レポート作成用の資料が彼の鞄に入っていた事もあれば、彼が休んだ講義が出席していることになっていたこともあり、風邪気味の時には風邪薬に冷えピタなど一式が、一人暮らしの男の部屋の前に届けられたそうだ。


「確かに助かりましたけど・・財布を忘れた時に、手作りの弁当が入ってたことがあって、さすがのオレも、食べられませんでしたわ。そこらへんから、なんだか、だんだん、気味悪くなってきたんですよねー誰かが、どこかからオレのことをじっと観察してんだなって思って」


 親切は、止まらなかった。


 一人暮らしだった男の部屋の前には、毎晩、奇妙な贈り物が、届けられたらしい。


 手作りの、豪華な食事。


 手編みの、マフラー。


 男物の、パンツ。


 終いには、自撮りの、ヌード写真が数枚。

 封筒に入って、置かれていた、らしい。


「首から下だけが写ってたんで、顔は隠されてましたけど、体のライン見て、ピンと来ましたね。あの、ブロブフィッシュ女だって!冗談キツいわって、即刻焼き捨てましたけど」


 そこからは、訪問が始まったらしい。


 時間を問わず、男が在宅しているのを見計らって、男の部屋の扉を叩くのだ、そうだ。


 覗き穴から、水槽を覗いているような錯覚を起こす女の顔を確認した男は、恐怖に凍り付きながら、耳栓をして、ひたすら無視をし続けたらしい。


「ストーカー紛いの奇行をするようなキチガイ女には、なにを言っても無駄だろうなと踏んだんで、シカトすることにしたんですわ。いざとなったら通報しようと思ってたんで」


 女は、控え目なノックを、三回ほど、間隔を置いて、何度か繰り返すそうだ。


 それが終わると、扉に耳をつけて、室内の音をじっと聞いているような、沈黙が降りる、らしい。


「ブロブフィッシュが諦めて、階段を降りる音がすると、やっと息がつけましたよ。でも、無視し続けるのは、危険かもなって思いましたね。そのうち、殺されでもしたら、かなわないじゃないですか」


 けれど、女の訪問は、執拗に続いた。


 回を重ねるごとに、ノックの音は図々しく大きくなっていったらしい。


 危険を感じた男が、そろそろヤバいな、通報するかと考えていた、ある休日。


「ちょうど、彼女が遊びに来てた時に、来たんですわ。ブロブフィッシュ女。それで、玄関に出た彼女と、鉢合わせ。オレの元カノは気が強い美人だったんで、あんた誰? なにしに来たのよ! って激怒して大騒ぎ。あれは、マジで傑作でしたわー」


 結局、男の彼女に追い払われる形で、女は消えたらしい。


「でも、ちょっと後悔してるんですよね・・」と、男はへらっと笑う。


「あのヌード写真、とっといたら、今頃、プレミアついてたかもしれない」


 ブロブフィッシュ女は、その後、整形して人気AV女優に転身したらしく、女が出演しているDVDは売り切れ続出で、オークションでも彼女が写っているものに高値がついている、らしいのだ。


 顔が変わっているのに、よくブロブフィッシュ女だとわかったものだなと、わたしが呟くと、待ってましたとばかりに、男が身を乗り出して、目を輝かせた。

「顔は変わっても、体つきで一目瞭然じゃないですか!オレ、女の体には目敏いほうなんですわーはははー」そんな感じで、お先です、と言って男は店を出て行った。

 結局、最後まで、男が誰なのか、思い出せず終いだった。


 男が消えた後、なんだか唖然とした気持ちが抜けなかったわたしは、再び本に集中できそうもなかったので、家に帰ろうと思い会計を頼んだ。

 すると、コーヒー一杯にしては多い勘定が来た。

 聞けば、先程の男のアイスコーヒー分が込まれているらしい。

 アイスコーヒー詐欺だろうか?

 ネタを提供した代金だとしても、半分は男の自慢話のような内容だったので、見合わない値段だと、わたしは歯噛みしながら帰路についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る