耳なし芳一×ドアノブ
「大体、深夜。一時か、二時頃、なの」
最近、そんな非常識な時間帯に、訪問客があるのだと、彼女は言う。
新宿にある某デパートに入っている化粧品メーカーの売り子として働いているM子は、わたしの従兄弟に当たる。
東京に住んでいる者同士、時々会っては食事などをしてお互いの近況を報告したりしていた。
M子は一ヶ月ほど前に、立川から品川のマンションに引っ越しが完了したばかりだった。
通勤が楽になると喜んでいたのも束の間、真夜中の訪問に悩まされるようになったそうだ。
その相手は、丑三つ時になると現れて、彼女の玄関のドアノブを執拗に回すのだという・・
「最初は、酔っぱらいかと、思ったの」それか、前に住んでいた人ね、とM子は組んだ手に視線を落とした。
確かに、よくある話では、ある。
だが、それなら、鍵を所持していてもおかしくはないはずなのに、鍵を試しているような音は一切しないのだという。
M子の住まうマンションは、駅や幹線道路からは少し離れた住宅街に建っていた。
マンション周囲に公園が多いのと、昔ながらの商店街があるところが気に入って入居を決めたのだそうだ。
「わりと、下町的な雰囲気が好きなの。おじいちゃんおばあちゃん子だったから、かな。元気なお年寄りが多く住んでる地域だと、道ですれ違っても挨拶してくれたりして、それだけで安心できるっていうか」
ところが、それが仇となった。
高齢者が多く住まっているため、早い時間から雨戸が閉められ、夜には通りの人気もまばらになってしまう。
夜の防犯という面においては完全に盲点だったのだ。
虫の声しか聞こえないような夜の静寂を、明らかに、異様な気配を伴った、ガチャガチャという、不穏な音が、破る。
その異常に気付いて、通報するような住人は、いない。
丑三つ時ともなれば、大方の人間が、深い眠りの底に、いる。
当事者以外は、家の外で起こっている、事件となりうる可能性を持つ事態に、耳を澄ます者など、いないのだ。
不穏な音は、突然始まり、始まったら最後、眠っているM子の鼓膜を継続して脅かし、彼女を強制的に夢から引きずり出す。
そして、寝ぼけ眼の彼女がなにが起こっているのかを確かめに来るまで、続く。
「覗き穴から見ると、さっと逃げていくの」だから、男か女かもわからないし、余計に気味が悪くって、とM子は両手で腕を抱える。
警察には相談したのかい? と聞くと、とっくに、と返ってきた。
「警察は、実害が出ていない限り、決定的な証拠でもないと動けないって言うのよ。だから、その時に通報するとか、覗き穴から写真を取るとかしないと、ダメみたいで」全然当てになりゃしないの、と目元に皺を寄せる。
「だから、どんなに疲れて帰ってきた時でも、施錠だけは何度も確認するようにしてる。うっかりかけ忘れたなんてことになったら、想像するだけで恐ろしいもの。殺されるかもしれないじゃない? 回せば開くんだから、ガチャガチャと音もしないだろうし、運悪く爆睡なんてしてたら、一巻の終わりよ」あたし、まだ死にたくないわ、と訴えるような涙目になっている。
心当たりはないのかと聞くと、まだ知り合いにも、品川の新しい住所は教えていないのだという。
では、元の住人絡みなのかもしれないと踏んだわたしは、M子に紹介してくれた不動産屋を訪れて事情を話し、元の住人に連絡を取ってもらったらどうかと、提案した。
そうすれば、いくらか不審者の見当がついてくるかもしれないし、そうすれば警察も動いてくれるだろうと。
それを聞いたM子は、俄に元気になり、そうね、そうするわと言って、晴れ晴れした顔で帰っていった。
一週間後。
M子から、会えないかと連絡が入った。
「もう、気が狂いそうよ!」
開口一番、彼女はそう叫んだ。
聞けば、例の真夜中の訪問が、以前は一週間や二週間おきと不定期だったのに、今は明けて二日ほど。
ほぼ毎晩のように彼女の睡眠を妨害するようになっているらしいのだ。
不動産屋には言ったのかと聞くと、相談して前の借り主にも連絡を取ってもらって確認したのだが、それらしき人物に心当たりはないらしく、状況打壊の兆しすら見えなかったのだとか。
そして、追い打ちをかけるように度々の訪問。
M子の精神は限界に達しようとしていた。
「突然ガチャガチャガチャガチャ始まってね、あたしが見に行くまで、ずっと続くのよ」以前と同じことをうわ言のように繰り返している。
どうやら、かなり、まいっているらしい。
神経が過敏になっているそんな状態では、無視して寝ることはできないのだろう。
まだ余裕がある頃、無視したら、どのくらいで相手が諦めるのかを試したことがあったらしい。
不審者は、約二時間ほど、ドアノブを回し続けていたようだ。
二時間耐え続けたM子の精神もすごいが、不審者も根性がある。
結局、彼女が耐え切れなくなって動いてしまったが、そのままだったら朝までやっていたかもしれないというのが彼女の見解だ。
しかし、そんなに頻繁に訪れているというのに、未だ、不審者の性別、特徴に至るまで、手がかりとなるものを目撃することに至っていない。
不審者も負けず劣らず、よほど、俊敏な五官の持ち主なのだろう。
不動産屋が心配して、マンションの持ち主に、監視カメラをつけてくれるように掛け合ってみると言ってはくれたようだが、なんせ古いマンションなので、期待はできそうもないらしい。
「そもそも、どうして、あたしが玄関に来るのがわかるのかしら? もしかしたら、人間じゃないのかもしれないわ・・」とまで言い出す始末である。
現実逃避したくなる気持ちはわかるが、そんな非現実的な現象ではないのはわかりきっている。
もし、幽霊などの類いであるなら、わざわざドアノブなんぞを回さなくても、鋼鉄の扉であろうと簡単に通り抜けて、枕元に立つなり、部屋を徘徊するなりできるだろうに。
そうではない。
違うのだ。
夜な夜なM子の玄関扉のドアノブを喧しく回しているのが、人間であることは、間違いない。
手袋をつければ指紋は残らず、扉に耳をつけていれば、M子が玄関の床を踏む音が聞こえるだろうし、音がした瞬間、身を翻せば姿を見られることもないだろう。
だが、逆に考えれば、姿を見られないように、予め、覗き穴を塞いだ上で犯行に及べばいいのではないだろうか。そうすることで、M子に見えない恐怖をも与えることが可能になる。
敢えて、しないのか。
する必要がないのか。
それとも、そこまでは、考えが及ばないのか・・
いずれにせよ、なにがしたいのか、目的すらも推測しかねる。
M子に恨みがあって、嫌がらせとしての行動だとしても、そんな時間にほぼ毎日とくれば、相手だって相当キツいはずだろう。ましてや、M子と同じように、昼間の勤め人であれば尚更だ。
なので、わたしは、その線は薄いと見ている。
濃厚なのは、相手が精神異常者である線だ。
病院などにかかっておらず、自覚がない人格異常者。もしくは、思い込みが激しい、偏った異常思想を掲げている、高過ぎるプライドを持っているなどの類いの人間であれば、そういった奇行に夢中になってしまう可能性はなくもない。
その手の人間は、昼間は、真面目に仕事をこなし、普通の外見をした無害な人物に擬態しているケースが多い。
だが、そう考えてしまうと、やはり、M子の仕事場やその周辺にいる関係者である可能性が捨て切れない、と、こう堂々巡りとなる。
「最近、売り場でも積極的に接客ができないの。もし、このお客さんだったらどうしよう。あたしの接客のせいだったらどうしようって考えちゃって。それに、同僚や先輩、上司に対して以前のように話したり、接することができなくなったわ。誰も彼もが恐ろしく感じられて、誰のことも信用できないのよ」もちろん、相談などできないと言う。
話しかけられるだけで、刃物で脅されているかのごとく怯え、目が合うだけで謝ってしまうそうで、そのため、M子は現在、職場内で完全に孤立してしまったらしい。
真夜中の訪問者は、もしかしたら、それが狙いなのかも、しれない。
M子は、美人ではないものの、朗らかな性格と愛嬌のある笑顔、押し付けがましくない上手な接客が評判の売り子で、客から指名されることも多く、販売実績も高く評価されていたそうだ。
それもそのはず。彼女は努力を惜しまない質だった。人の見えないところで猛勉強をし、日々精進していた賜物だと言ってもいいだろう。
だが、もちろん、そんな努力の成果として得た栄光を、面白く思わずやっかむ輩はどの世界にもいるものだ。
では、もしその手合いだと仮定したならば、最終目的はいったいなんなのだろう?
M子の失脚が目的だったとしたなら、もう充分ではないか。
未だ、訪問が止んでないところを見ると、別の目的があるとしか、思えない。
それはなんなのか?
「とりあえず、帰ったら、警察で教えてもらった警告の紙を、ドアに張っておこうと思うの。いくらか脅しにもなるだろうからって」そう言って『不審者警戒中! 発見次第、即通報します!』と大きく印刷されたポスターを取り出した。
アマゾンで取り寄せたようだ。
効果のほどは定かではなく、気休めにしかならないだろうが、もはや藁をも掴む心地で注文したらしい。
気の毒なことである。
「それじゃあ、それをドアに貼ったら、ひとまず今夜はうちに泊まりなさいな」
先程から黙って話を聞いていたわたしの妻が、急に割り込んできた。
妻曰く、そのポスターを貼る事で、相手を刺激してしまうことは確実なので、なにが起こっても不思議はないため、身を守る意味でも、今夜は留守にしたほうがいいと言うのだ。
確かに一理あった。
「たしか、明日はデパートの休館日でしょ? ちょうどいいじゃないの。そうなさいな」
妻は、珍しく、やや強引にテキパキと決めてしまった。
妻のこの行動には、後々多大な感謝を禁じ得ないことになる。
M子が自宅に帰り、ポスターを貼り終わった足で戻ってきて、そのまま我が家に泊まったその夜。
彼女の部屋の扉の前で、なにが繰り広げられていたのか、想像するだにおぞましい。
翌日、M子がマンションに帰ってみると、玄関扉のドアノブの外側部分だけがすっぽりとなくなり、扉一面に血のような真っ赤なペンキが塗りたくってあったらしい・・
「血液・・ではなかったと思うわ。生臭い匂いはしなかったから」と、後に彼女は証言している。
とにかく、彼女が、不動産屋に泣きついて、すぐに引っ越したのは言うまでもない。
結局、最後まで、犯人はわからずじまいだった。
M子は現在、急遽引っ越した小さなアパートで、毎晩、心ゆくまで睡眠を貪っているらしい。
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