第10話 推しの一言で命を救われるオタクがいる

 前世のディアには不幸が重なった時期があった。


 就活が思うようにいかなかった。そのせいで恋人に八つ当たりをして、あっさり振られた。その上、幼い頃から一緒だった愛犬も亡くなってしまった。人生で一番絶望に沈んだ時期だった。

 そのくらいのことで、と思う人はいるかもしれない。

 しかし、人間とは一度思い込むとなかなか抜け出すことができない生き物だと思っている。

 死のうと思った。それが一番自分を楽にする選択肢だと思い込んでいたから。どこでもいいから逃げたかった。


 そんな時、友人に勧められた乙女ゲームがあった。

 それが言わずもがな、「黎明のリュミエール~聖女と太陽の王子~」である。

 

 世界が変わった。

 リオン、ホープ、ジェイド、ジン──そして、クリス。彼ら五人のルートはどれも素晴らしく、一瞬で虜になった。

 特にクリスルート。とある中盤イベントにて、主人公ニコルが治癒魔法に失敗して友人を亡くしてしまった時、自殺を図った。それを止めようとするクリスの台詞だ。


『どんなに悲しくても、どんなに辛くても、生きることを諦めないで。残酷なことを言っているのは分かってる。でも、僕にはどうしても君が必要なんだ。この先一生僕を恨んでいいから、僕の為に生きてほしい。お願いだ』


 その言葉が、じんわりと心に染みわたって、号泣したのを覚えている。

 たかがゲーム、たかが二次元、たかがシナリオライターが提案した台詞に過ぎない。自分自身でなく治癒魔法という希少な力を持つ心優しい主人公ニコルに向けられた台詞だってことも分かってる。

 それでも、確かにクリスは前世の自分の心を救い上げてくれた。こんな自分でも生きていていいんだって思わせてくれた。こんな自分を必要としてくれる人がいるんだと励ましてくれた。前を向かせてくれた。


 どんな絶望があろうとも、そのシーンを再生すれば、たちまち笑顔になれた。


(そうだ、クリス様は私の恩人だ。私の大切な生き甲斐だったんだ。だからこそ今度は私が彼を護りたい。攻略対象キャラ達皆を護りたい。この世界を護りたい。そして、実際にそれが叶う魔法だって与えられた! だからこそ、私は──!!)


「私は、今ここで、負けるわけにはいかないのよっ!! ──護れアミュナァ!」


 追加詠唱。腕の骨が軋む。魔力消費の負担が倍になって身体を襲ってくる。

 だが、推しを愛する気持ちだけは負けたくない。それがオタクの意地だ。


 思い浮かべるのは、クリスの死亡スチル。その愛らしい童顔が白く染まっている恐怖の記憶。一気に体に力が入る。


「私が、推しを、クリス様を、絶対に、護るんだぁぁあああああああ!」


 そう必死に叫ぶと、手から放たれる熱量が一気に増えた。

 竜巻のような突風が舞い、周囲の鳥達が一斉に羽ばたく。ディアの盾の輝きもより一層増し、ついにはその場の誰もが勝負の行く末を確認できないまま、目を開けることができなくなった。


 気づけば、ディアも尻もちをついていた。自分は負けたのだろうか。

 しかしカインも数メートル先で倒れていた。


 クリスも、リンもカインも、ディア自身も、何が起こったのか理解できずに固まった。

 しばらくすると、カインが大きく息を吐いて、ゆっくりと立ち上がり、ディアに近づいてくる。腰を抜かしたディアは何を言われるのかと身構えたが……


「──俺の負けだ」


 見れば、カインが眉を下げて、笑っていた。


「悪かったな。アンタの……いや、貴女の悪評が嫌でも耳に入ってきて、ついこんな無礼を働いちまいました」

「それは……私が貴方でもそうしますわ。私の悪評のことは自分が一番知っていますもの」

「フッ。ディア様。貴女はいい盾を持っていますぜ。貴女になら、殿下を任せられる!」


 カインは豪快に笑いながら力強くディアの背中を叩く。その強さにディアは思わず咳きこんでしまった。今の決闘によって、ディアの身体は相当参っているらしい。


 ……と、ここでカインがディアとクリスに背を向ける。


「──約束は約束だ。俺は負けた。殿下。俺ぁ、貴方の親衛隊をやめる」

「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってくれカイン! 本当にやめてしまうのか!?」

「ああ。男に二言はねぇ。もともとそういう決闘だったんだ」


 カインの逞しい背中が遠ざかっていく。

 クリスが慌ててその背中を追おうとするが、その前にディアが口を開いた。


「いえ、その必要はありませんわ。カイン様!」

「あ?」

「私がなんのために守護魔法を極めているのか知っているでしょう? この先何があってもクリス様を守るためです。それなのに私との決闘のせいで親衛隊の貴方が去ってしまってはクリス様のリスクが増えて本末転倒ではありませんか!」

「あ、あぁ……? だ、だけどよ、俺はディア様が負ければディア様と殿下をどんな手を使ってでも婚約破棄させるつもりだった。今のは、そういう自分の地位を懸けた決闘だったはずだ」

「そんなことありません。貴方は私が負けたとしても、クリス様との婚約を破棄させるつもりなんて毛頭なかったはずです」

「な、なんでそんなことが貴女に分かるんだよ……」


(分かってるよ。だってカインはそういう人だから。貴方がそんなクリス様を困らせるような真似、するはずがないのよ。ゲームでも、カインはディアの我儘っぷりに憤慨しつつも、クリスの婚約者だからと最低限の敬意を払っていたし……)


 それでも納得ができないとばかりにむすっとするカイン。頑固な兄貴肌というキャラ説明を身に染みて感じた。

 しかし彼の一番はクリスだ。ということで、ディアはクリスを指した。


「カイン様、見てくださいな。貴方が親衛隊を辞めると言った時からクリス様が泣きそうなお顔になっておられますのよ!? この愛らしいお顔を置いて貴方は立ち去れますの!?」

「うっ……!!」

「私はクリス様を悲しませるようなことはしたくありません。婚約者ですもの。ですからカイン様、どうか親衛隊をやめるだなんて言わないでくださいな。カイン様はこれからもクリス様のお傍にいるべきです! そしてクリス様を慕う者同士、これから私と仲良くしていただけると嬉しいですわ」

「ディア、様……」


 するとカインの小さな瞳に涙が溢れてくる。眩しいくらいの白い歯が見えたと思えば、彼はにっこり笑って、ディアに拳を突き出した。その意図をしっかり受け取ったディアもまた笑顔で己の拳を突き出す。枯れなりの友情の証だ。

 

「悪かったな、ディア様。それにクリス様も! でもこれでディア様の悪評が嘘だと完全に分かった!」

「だ、だから前からずっとそう言ってるじゃないか! ディアは変わったんだって!」

「すんません、殿下! どうしても信じられなかったもんで!」


 先ほどの形相はどこへやら、カインは上機嫌であった。

 対してクリスはどこか恥ずかしそうに顔を真っ赤にしている。そしてディアを恥ずかしそうに見つめる。


「そ、それに……知らなかったよ、ディア。君が僕のこと、そんなに想ってくれていただなんて」

「え?」

「ほら、さっき……僕を護りたいって……」


 ディアはハッとなって、頬を染める。散々「クリスを守る」だの「クリスを慕っている」だの恥ずかしい台詞を本人の目の前で自分が言い放ってしまったことを思い出したからだ。

 もじもじするディアとクリスにカインがニヤニヤしているが、二人はそんなことを気にする余裕もなかった。


「こ、これから出来るだけ、毎日君に会いに来てもいいかな?」

「え?」

「君に興味があるんだ。今まではあんまりこうして話す機会もなかったから……。もっと、知りたいと思ってる。君のこと」

「!」


 まるで乙女ゲームの主人公に掛けられるような口説き文句。


 だがこの時、ディアの頭の中ではそんな口説き文句に色めきだすような乙女の思考は一切なく、ただただ己の偉大なる作戦のためのフローチャートを組み立てていた。


(クリス様が私に会いに来る→必然的にクリス様がヴィエルジュ家に訪れる→クリス様とリオンが触れ合う機会が増える→お互いがお互いの魅力に気づく→リオクリ万歳!)


「ぜ、ぜひ! 私も、楽しみにしておりますわ!」


 思わず涎を垂らしそうになるのを堪えて、ディアはそう言った。


 ディアとクリス。周囲から見れば微笑ましい二人だが、ディアの頭はもうそれどころではない。

 彼女が今、それはそれは綺麗なバラの園へ誘われていることを知るものはいないのである……。

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