第29話「噂話」

「うちの妻はお菓子……っ! ……が、好きで……ええ。はい。甘いお菓子が好きなんです」


 王に挨拶するため登城し、そこで偶然会ったシリルの上司に会い、私の趣味「お菓子作り」を話題に出そうとしていた夫を察し彼の足を慌てて踏んだ。


 隣に居た私に、いきなり足を踏まれたシリルは、そつなく会話を続けながら、何で足を踏んだの……? といわんばかりに、涙目で私をチラッと見た。


 あ……ごめんなさい! シリル。私が説明していなかったのが、全部悪かったのに……。


 何も悪くない夫の足を踏んでしまった罪悪感に体中を包まれながら、私は上司の方への挨拶を済ませ、私たち二人は廊下を歩き曲がり角を曲がった。


「……ごめん。俺には何が失言だったかわからないけど、あれで良かった?」


 彼らに話が聞こえない場所まで移動したと思ったのか、シリルは並んで歩きながら私に聞いた。


「シリル……ごめんなさい。私から言っていなかったのが、悪かったわ。貴族は、使用人に任せるようなことを、趣味にしてはいけないの」


 貴族が支配級にある存在で、使用人の仕事を奪ってはならないという考えからだ。


 私は兄姉の居る末っ子で、政略婚も好きにすれば良いと割と自由に育てて貰ったけど、実際の貴族の家はもっと厳格に教育される。だから、貴族はお菓子作りや庭いじりなど、そんな趣味を持つことは、もってのほかなのだ。


「え……? そうなの? 俺は自分の食べたいものを自分で作れるって、すごく良いと思ったけど、そうなんだ。知らなかった。貴族にはいろんな常識があるんだね」


 感心した様子で呟いたシリルだけど、私がそれを言った時に彼に教えていないのがいけなかった。


「そうなの。けど、シリルは貴族の常識を何も知らなかったのだから、仕方ないわ。私がそれに気がついて、先んじて言っておけば良かったんだけど……ごめんなさい」


 シリルは何も悪くなくて、さっき上司と話していた時だって、結婚したばかりの私を褒める言葉をたくさん言ってくれた。


「良いんだよ。フィオナは真面目で可愛いね。いきなり足を踏まれたのには、びっくりしたんだけど、そういう事情があるのなら、余計なこと言わなくて良かったよ。俺の軽率な一言で、君に何か不利益があっても嫌だったし」


 私は今日履いている踵の高い靴を見た……これで踏まれたら、すごく痛いと思う。咄嗟だったから、手加減だって出来なかったし……。


「痛かったでしょ?」


「うん。痛かった」


 シリルはあっけらかんとして頷いて、想像していた反応と違ったので、私は驚いた。


 自分勝手だけど、ここは痛くないよって……言われるかと思ってた。痛いと思うけど……思うけど、でも。


「……どうすれば良い? シリルが痛かったのなら、私も……」


 足を踏んだのなら、彼に踏まれる? そんなシリルが想像出来ないけど、彼に踏んで貰えたら、許して貰える?


「ははは! じゃあ、交換条件しようよ。俺は今度、フィオナの靴を買う。どう?」


「……それだと、ご褒美になっちゃう」


 足を踏んで痛い思いをしたはずなのに、まるで良いことをしたみたいに靴を買って貰えるなんて、シリルが優しすぎて、価値観がおかしくなりそう。


「……こういうおめかし用の踵の高い靴も可愛いけど、俺は踵の低い靴ならいつ踏まれても大丈夫……気にしなくても良いよ。魔王倒しに行く旅の途中なんて、死にかける怪我を何度も負っていたりしたしさ。こんなの、かすり傷にも満たないから」


 シリルは魔王討伐の旅を、見事に成功させた勇者様だった……あまりに身近過ぎて、なんだかたまに忘れてしまいがちだけど、世界に一人しか居ない凄い人なのよね。


「シリル。ありがとう……」


 またここでごめんねと言うのもおかしいし、私が彼にお礼を言うと、いつものように腰に履いた剣を指さして言った。


「良いよ良いよ。フィオナはわかっていると思うけど、痛いって言ったのは、ただの冗談だから……それに、奇襲ならいつもエンゾが教えてくれるんだけど、これは流石にわからなかったみたいで、すごく驚いていたよ」


 あ。聖剣エンゾさん!


 そういえば、魔物の弱点とか教えてくれるって言ってた。シリルは苦笑してるけど、それはそうだよね。エンゾさんだって、隣に立っている妻に足踏まれるなんて……咄嗟に伝えられないよね。


「エンゾさん、どんな風に言ってました?」


「敵意あるなら、すぐにわかったはずだけど……フィオナには敵意がないから、まさか攻撃してくるとは思わなかったって、すごく驚いてた」


「攻撃! そんなつもり……ううん。良く考えてみると、エンゾさんの言うように、痛みがあるから攻撃です。けど、もしシリルが貴族として言ってはいけないことを言おうとしていたら、どうやって伝えれば良いのかしら?」


 シリルは庶民出身で、貴族の私とは生きてきた世界が全然違う。だから、これからもこういうことがあるかもしれない。


 私がそういう時にどうすれば良いかと、うーんと考え込むと、シリルは苦笑して頭を撫でた。


「だから、これで良いんだって……それに、俺に対する遠慮がなくなって来て、距離が近付いていると思うと、俺は嬉しい……フィオナは、最初は俺に心を閉ざしていたから」


 シリルは胸が苦しいと言わんばかりにわざとらしく両手を胸に当てたので、私は慌てて否定しようとした。


「それは……っ! そんなことっ……え? ……あったかも……しれないけど」


 だって、シリルは仕方なく、私と結婚したって思って居たから……彼は初めて会った時から、私を好意的に見てくれていたなんて、なんだかもう本当に夢みたいで……夢だったら、すごく嫌。


 なんだか不安になった私が黙ってシリルの腕あたりの服を掴むと、彼は不思議そうな顔をした。


「どうしたの? フィオナ……冗談だよ?」


「私……これが長い夢だったら、嫌だなって思ったの。シリルと結婚して、勇気を出して、自分の気持ちも口に出来て……ちゃんとここに居るって確かめたくて、ごめんなさい……っ!?」


 言い終わらないうちに、多くの人が行き交う城の廊下でシリルは私の身体を抱きしめたので、私は慌てて離れようとした。


「シリル! ここ、城の廊下よ! 社交界中の噂になっちゃう!」


 貴族は寄ると触ると噂好き。


 もし、一度でも噂になってしまうと、大変な騒ぎになってしまう。離れようとする私の意図とは逆にシリルは私の腰を持ち上げてくるっと回したので、周囲からはやし立てるような歓声や口笛が聞こえた。


 えっ……はっ……恥ずかしい!


「なった方が良い! だって、俺たちが愛し合っていたと皆に知られれば、フィオナに変な気持ちを起こす奴もいないだろう?」


「もうっ……シリル……そんな人居ないから、降ろしてー!」


 キラキラした青い目のシリルには言いづらいけど、必死で言うしかない。だって、こんなの絶対恥ずかしいもの! 別に誰も見てなくて二人っきりなら、嬉しいからこれもそれはそれで良いんだけど!


 パコンと間抜けな音がして、シリルの頭に靴が当たって床に落ちた。


「おい……流石にこれはなし。ここに居る全員が、フィオナの共感性羞恥感じているから、お前以外」


 怒られたシリルはようやく私を降ろしてくれたので、少し離れてしまった。


 どこからか現れた不機嫌そうなルーンさんが歩み寄り、下に落ちていた片方の靴を履いた。実はルーンさんの働く魔塔は城の中にある。彼がここに居てもおかしくない。


「ルーン。邪魔するなよ。別に少々の噂が立っても良いだろう? 俺たちは、愛し合って結婚しているんだから、別に悪いことでもなんでもないだろ?」


 本当は、結婚してから仲を深めたんだけど、それはそういうことで、もう良いと思う。


「お前が知っている噂という言葉と、フィオナが言う貴族の噂話は全然別物だ。貴族は、何よりも評判が第一だ。商人は商品が良ければ売れる。職人は作品が良ければ売れる……貴族は、そこが評判なんだ。他の貴族から知性や人格に問題ないと思わせなければならないし、作物の取引の必要のある広い領地も抱えているなら尚更だろう。自分の気持ちが乗ったからと、フィオナの嫌がるようなことをするな」


 私が言いたいことを全部言ってくれたルーンさんに、ほっとしてお礼を言った。


「ありがとうございます。ルーンさん」


「……別に。あんた、夫の躾けをちゃんとしといた方が良いよ。シリルは情熱家で、後先を考えないし……まあ、あんたはそれも可愛いと思っていそうだけどね」


「はい……シリルって、本当に……可愛いですよね」


「フィっ……フィオナっ……」


 呆れたルーンさんの言葉を、私が照れながら肯定すると、シリルは感動した様子でパッと目を輝かせた。


「止めろ止めろ。もう一回あれをやったら、今度は身体ごと、ここから吹き飛ばしてやるからな」


 嫌そうな表情のルーンさんにシリルは脅され、ようやく大人しくなり、私たち夫婦はやっと国王の下へと挨拶に行けた。

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