第28話「強い風(Side Ciryl)」
背後からいきなり強い風が吹いて、城壁の上で何枚の書類を持ち自分の考案した新しい陣形を確認していた俺は、顔を顰めなにげなく振り向いた。
……そして、とても後悔した。
見覚えのある、金色の巻き毛が風に靡いているのが、視界に入ったからだ。
「……シリル」
嘘だろう。当分神殿を出ることが許されないはずなのに、何故ここに居るんだ?
「ベアトリス。神殿に居るはずだろう。俺はもう、君に容赦しないよ」
か細い声の弱々しい呼びかけを無視しきれず、返事をしてしまった自分を自己嫌悪した。
もう俺は、彼女に対し優しさを見せるべきではないと思って居る。これまでの凶行の根本的な原因は、この俺がベアトリスに対して、ほんのわずかだとしてもなんらかの可能性を残したからだ。
少し前にあった地下室での出来事を、ベアトリスは良く覚えているはずだ。自身の持つ結界の能力を両手に集中させねば防げないほどの攻撃を与えたのは、この俺だから。
久しぶりに見るベアトリスは、珍しく憔悴した様子だった。大分、絞られたのかもしれない。
各方面から、ひどく怒られたとは聞いていた。この王都上空に魔物が現れるなんて、今までの歴史にあり得ないほどの大きな危機だったのだ。
「シリル、ごめんなさい……」
ベアトリスがしおらしく謝罪するなんて、とても珍しい。俺は彼女と一年ほど旅をしたけど、そうそう見られるようなものでもなかった。
あったとしても、数えるほどか……いや、もうどうでも良いな。
もうこれから、彼女は俺にとって二度と関わることもないはずの人間だ。
「悪いけど、君のしたことはこうして謝って済むようなことではない。俺の妻にまた手を出せば、問答無用で君を殺すよ。ベアトリス。これは、別に脅しじゃない。ただの事実だ」
何の罪もない妻フィオナを攫い、俺と離婚させようとしたことを、二度と許すはずもない。
周囲から甘やかされたベアトリスが、これまでもこれからも我が儘であるのも、それはそれで良い。これから彼女が出会うすべての人から、どう思われるのかも、俺には無関係のことだから。
だから、俺と俺の家族が無関係でありさえすれば、彼女に対し、何も言わないししない。
「違うわ……私は!」
常に自分以外のことなんて考えもしないベアトリスが、こんなにも必死になるなんて珍しい。
……そう思った。俺に謝ることも言い訳をすることも、これまでに想像もしていなかった。
結局のところ、ライリーと俺はベアトリスから気に入られてはいたものの、彼女から恋愛感情で見られていたとはどうしても思えなかった。
見たこともない珍しい色の宝石、それを無邪気に欲しがる幼女のような自分本位の純粋な欲求。
世界救済の使命があって必要さえあれば仕方ないとは思うものの、不必要なら二度と関わりたくはない。
「悪いけど……言い訳も、何ひとつ聞くつもりもない。二度と近寄らなければ、それで良い。それに、俺と妻には絶対に関わるなと、王に厳命されているはずだろう?」
ベアトリスはこれはもう何も言えないと思ったのか、黙り込んだまま、踵を返して去って行った。
「……何、あいつ。これで大人しく引き下がるなんて……腹でも壊したのか」
多分、ベアトリスを見た瞬間に逃げていたライリーだ。ついさっきまで俺の近くに共に居たはずなのに、どうやって姿と気配を消していたんだか。
「そうだな。いつもと様子が違っていた。けど、俺に関係なければ、どうでも良いよ」
ベアトリスの落ち込んでいる理由を、知ってどうする。許す気もなければ、二度と関わる気もないのに。
「シリル。優しかったお前が、こんなにもきっぱりと拒絶するとは、ベアトリスには堪えただろうな……」
どこか同情するように言ったが、受け入れる気がないライリーだってそうするしかないのは同じだろうと、俺は肩を竦めた。
「俺には既に愛する妻が居るから、ここで彼女を何か期待させるようなことは言えない。それは、誰に対してだとしても、優しさではないだろう」
今の俺のようにフィオナが居なければ、ゼロに近いごくごく僅かだったとしても、奇跡が起こり結ばれる可能性だけならあったかもしれない。
けど、もうベアトリスに対しては、そういう可能性が全くのゼロなのに、気がある様子を見せる彼女に対し優しくするつもりはない。
「あー、まあね。わかるわかる。今はもう独身時代とは、違うよな。シリルの言い分が正しいとは思うが、俺はさっきのベアトリスの様子が気になる……明らかに、おかしかっただろう?」
ここでライリーの言わんとしていることは理解出来るが、俺は仕事中で仕事終わりに帰る邸には妻が待っている。
ベアトリスのことは、彼女の周囲がなんとか解決するだろう。
俺は手に持っていた陣形の描かれた書類を纏めようとしたが、強い風が邪魔して無理だった。強風を遮る物のない城壁上から一旦、部屋の中に戻ろうとライリーを手で促した。
「うん。けど、俺はもうベアトリスに関わる気はないよ……ライリーは、違うかも知れないけど」
「いやー……! そんな訳ないよな。そんな訳がないわ。何言っているんだ。シリル。結婚して一抜けしたと思って良い気になりやがって。つか、ベアトリスと上手くやれる奴なんて居るの? 俺にはそれが、すごく不思議だよ」
ライリーは確かに今、尊重すべき女性に対し大変失礼なことを言ったが、俺はまことに申し訳なく思うが、それを否定はしない。
ベアトリスというか、人の意見を全く取り入れず、我が儘放題な言い分をまき散らす人と上手くやれる人なんて……どこかに、存在しているのだろうか。
ベアトリスは、特殊な環境で生まれ育った。
国自体を覆う結界を張り国民を護る聖女と呼ばれ、ほかの誰からも甘やかされた。そういうことを思えば、彼女のように我が儘放題が言える人間は少ないのかもしれない。
「そうだな……居るだろう。ベアトリスの崇拝者とか……類は友を呼ぶというから、ベアトリスのような人ならば、ベアトリスと上手くなれるかもしれない」
俺がどうにかひねり出した答えを、ライリーはなんとも言えない表情で首を横に振った。
「それこそ、無理だろう。一人が我が儘を言い出せば、もう一人と喧嘩になるしかない。爆弾がふたつ同時に爆発するようなもんだぞ。周囲は気が気じゃないだろう……そこを、上手く転がせるような頭の良い奴なら可能かもしれないが」
「ルーンでも、無理だったのに? 無理だろう」
ここには居ない俺たちの仲間魔法使いルーンは、職業柄だろうが頭が良いし立ち回りも抜かりなく要領も良い。あいつがやって出来ないなら、世界中の人間がきっと無理だろうと俺は普通に思える。
「それは……まあな。しっかし、今日は風が強いな。ルーンが居れば、風をやませてもらったのに」
風に煽られた髪の毛が視界の邪魔だったのか、ライリーがそうぼやくと、ピタリと風が不自然にやんだので、この会話を聞きすぐ近くに居るはずの誰かを探して、俺たち二人は周囲に視線を巡らせた。
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