第26話「寝相」
いつもの起床時間より二時間も早く起きて、肌寒い空気に震えながら長めのガウンを羽織り、まだ開ききれない瞼を擦りながら、私は夫シリルの部屋の扉をそっと開いた。
「えっ……嘘でしょう。もう居ないの? まだ、夜明けの時間なのに……」
薄暗くてまだ鳥も鳴いていない早朝だというのに、シリルはもう起きているの? 自分なりに頑張って早起きして、ついさっき起きたばかりの私は、夫がベッドにもう居ないことに愕然とした。
この前、一緒にお茶を飲んでいたルーンさんが「シリルは本当に寝相悪くて、俺らも運悪く、宿屋に空き部屋なくて、男三人同室になった時は大変だった」と勇者パーティとして旅していた頃の話をぽろりとこぼし、それを聞いた私は、そんな夫の姿が無性に見たくなってしまった。
シリルは世界を救った勇者様で、姿形も凜々しくて優美。
キリッとした真剣な顔が私を見ると崩れて、にこっと笑うところも好きなんだけど、それはこれと関係なくて……完璧な男性としか見えないシリル本人からも自己申告があった悪いという彼の寝相が、どうしても見てみたい。
私は彼の妻で、隣に部屋を持っている。
続き部屋の扉は結婚式がまだだからという理由で、シリルが鍵を掛けているけれど、こっそり部屋を覗くくらいなら……と思って、何日か前からシリルの部屋に早朝に訪ねて、彼がもう居ないことに気がつくということを繰り返していた。
今朝もシリルは、居なかった……けど、朝食の時には、何故か帰って来ているし……もし、私が「今まで何処に行っていたの?」と聞けば「どうしてフィオナは、俺が居なかったことを知っているの?」と、聞き返されるでしょう?
寝相が見たいなんて言ったら、優しいシリルだって気分を害してしまうかもしれないし……と、なんだかモヤモヤしながら、シリルが早朝に何処に居たのかは、聞けないままだ。
私はベッドへと近寄り、そっと表面を撫でた。掛け布は乱れていて、触るとまだ温かい……と、いうことは、彼はさっきまでここで眠っていたということだ。
ほんの少し前のシリルの熱が残っていて、なんだか嬉しい。
けど、数日同じことを繰り返しても、目的のシリルの寝相は見られない。
私はうーんと悩んで、こういう時に相談出来るあの人を思い出し、今日もロッソ邸に来るだろうから聞いてみようと思った。
◇◆◇
「あんたって、本当に……何を言い出すかわからないね」
いつものように、魔塔での仕事をサボって遊びに来ていたルーンさんは、私の話を聞いて呆れたようにして言った。
「でも、気になるんです。ルーンさんだって、シリルの寝相については何度も言っていたから……そんなにすごいのかなって、どうしても気になってしまって……」
あんなに何をしていても、爽やかで格好良く決まってしまう夫シリルの、悪いという寝相……うずうずするくらい見たいし、とっても気になる。
ルーンさんは頬杖をついて、お茶を飲みつつ、一旦遠い目をしてから私に向き直った。
「あー、まあね……どんな様子なのか、俺から言葉で聞くより、一回見た方が断然早い。初めて見た時、俺も自分の目を疑ったしさ。これ、夢の中でもないしなとか」
まるで、世にも珍しいものを見たかのように語るルーンさんに、私はそれを見たいという気持ちが倍増してしまった。
「……そんなに……ですか」
ますます、より、気になるわ……どんな寝相なの。ここ数日、何度も挑戦して見られなかった失敗の日々も、そんな私の気持ちに拍車を掛けてしまった。
「うん……そうだなー……フィオナも若いし、一夜くらいだったら、徹夜も良いだろうしさ。あいつが眠るまで待って、それから部屋を覗いてみたら?」
「あっ……それもそうですよね! 私……どうしてそれに気がつかなかったのかしら……」
なんだか、恥ずかしい。勇者のシリルだけど現在は軍でお仕事をしているので、夜遅くに帰宅することも多い。彼は遅くなる日は、部下に頼んで連絡をしてくれるので、私はそのまま寝てしまう。
だから、夜にわざわざ起きていて、シリルを眠ってしまうのを待つなんて、思いもしなかった。
「うーん。そうだな……よくよく考えたら、徹夜は肌に悪いか。昼間、シリルの居ない時に寝といたら? 俺が数時間ぐっすり眠れる薬作ってあげるからさ」
ルーンさんは希代の魔法使いとして、勇者パーティになる前からも有名で、かの優秀な人材が集まる魔塔にも、幼い子どもの頃から所属していたらしい。
「ありがとうございます! ようやく、シリルの寝相を見られますね!」
「うん……楽しみにしてて」
ルーンさんが非常に楽しそうな顔で微笑んだので、私も感謝の気持ちを込めて笑顔で頷いた。
◇◆◇
翌々日、今夜も遅くなるというシリルからの手紙を受け取り、私はルーンさんに処方して貰った魔法薬を使うことにした。
起きるのが早過ぎる夫が、早朝に何をしているかも気になるけど、私が見たいのはとりあえず彼の寝相……今日こそは絶対、見たい!
私はまだまだ日の高い昼間だけど、就寝の準備を済ませた。
「奥様、もう眠ってしまうんですか……?」
私付きのメイドレイチェルは、まだ若く男爵家の流れを汲む商家出身の若い女の子だ。栗色の巻き髪に同色の目を持ち、古典的なメイド服が少しふっくらした可愛らしい彼女の体型に良く似合っていた。
貴族の傍流などでは行儀見習いの一環で、身分の高い貴族に仕えることはままあった。こちらとしても最低限の教育なども行き届き、身元がはっきりとしているので、使用人として雇用しやすい。
「ええ。明日早いの。もし、何かあったらアーサーに対処して貰うようにするから……」
「明日早いにしても、時間が早すぎます! これでは、深夜に目が覚めてしまいますよ?」
私は「そうなの。そうしたいから」とも言えずに、言葉を濁し、人払いをしてからベッドへと眠りについた。
その日、見た夢の中で私は、幼い頃ジャスティナと一緒に行った森の中に居た。エリュトロン家の領地には、深い森があり、私たちはその中で遊ぶことがとても好きだった。
懐かしい森の匂い漂う空気の中で、私は肺をそれで満たすように思いっきり深呼吸をして、ぱちっと目を開けた。
……そして、呼吸をすることも忘れてしまうほどに、とても驚いた。
「な……何、しているの? シリル」
眠っていたはずの私がパッと目を開けたことで、彼側だって驚いているのか、目を何度か瞬かせていた。
シリルは私の夫だから、私の部屋に入ってくることは、おかしなことでもなんでもない……私も彼に対し、そうしようと思って居たくらいなのだから。
けど、起きた時に彼の顔しか見えないという事態は、人生で初めてだったので、驚きの感情が先に出てしまった。
「……うん。ごめん。今日は思ったより早く帰れたんだけど、フィオナがもう寝てしまっているって聞いたから。心配になって見に来ただけなんだ……体調が悪い?」
なんと、心配そうな表情のシリルは私が眠っていると聞いて、何があったのかと部屋に入ってきたところだったみたい。
眠りやすいように照明を落とした部屋の中は暗く、シリルの顔はかろうじて表情が読み取れる程度だ。けど、高い位置にある壁掛け時計の針の位置は、はっきりと陰影が濃く良くわかった。
本来ならば、夕食を食べている時間に私は眠っていたから、シリルは心配になったんだ。
「ごめんなさい……私、先に眠ってしまって……体調は、全然悪くないの」
シリルが遅くなるって聞いていたから、いつものように深夜に帰って来て、その時間に私が眠っていてもおかしくないって思うと思って……こういう、急に予定が変わって早く帰って来るということもあることも、わかっていたはずなのに……自分勝手な欲望に負けてしまった。
ゆっくり上半身を起こした私に寄り添うように、彼はベッドの上へと腰掛けた。
「うん。どうかしたの? 何かあったか、俺に教えてよ。フィオナ」
シリルはこんなに不自然なことをしていた私を見ても、優しく理由を聞くだけで、ここでもし私が「恥ずかしいから、理由は言いたくない」と言ったら、きっとそれ以上なにもいわずに聞いてくれるはずだ。
けど……私、そんなに彼の優しさに甘えて居てて良いの……?
シリルは私が何も言わないことで不安に思うかも知れないのに、私のために彼はそんな自分の気持ちは覆い隠すはず。
ただ、してもらうだけじゃなくて……私だって、彼に優しくしたい。
「シリル……ごめんなさい。私、どうしても、シリルの寝相見たかったの……」
私は恥ずかしそうに切り出すと、シリルは一瞬きょとんとした表情になってから、吹き出して笑い出した。
「はははは! そうなの? 俺の寝相が見たいから、昼から眠って深夜に起きようと? ……フィオナ、ルーンに相談した?」
私の行動の理由を何もかもお見通しな夫に、私はしゅんとして肩を落としつつ頷いた。
「だって! ……シリル、私が早起きしても、どこにも居ないんだもの」
「ああ……ごめん。早起きして素振りをするの、癖になっちゃってて……そっかー。なんで、俺にそれを言わなかったの?」
「もしかしたら、シリルはこれを聞いて、嫌な気持ちになるかもしれないって……思ってっ」
私が言葉を言いきる前に身体の大きな彼に抱きしめられて、全身覆われるような錯覚を受けた。
「はーっ……可愛いなあ……俺の妻が可愛い。おかしいくらいに可愛い。大丈夫? フィオナって存在してる? 俺の妄想が具現化していないよね?」
「シリルっ……苦しいっ……」
私は力の強い彼に遠慮無く抱きしめられて抗議すると、シリルは力を緩めてくれた。
「……フィオナ、俺の寝相……見たいんだよね?」
「そうなのっ! ルーンさんに何度も聞いたし、気になっちゃって……もしかして、見せてくれるの?」
どうしても気になっていたシリルの寝相が、見られる! と思った私に、彼は無情にも首を横に振った。
「フィオナ……それは、結婚式の後にしよう。ね? 俺の方も、色々と我慢しているから……うん」
「えっ……私、結婚式終わるまで、見られないの?! どうして……もうっ……シリルー!」
私は何度かお願いって言ったけど、断固としてシリルは首を振り、こういう時に知恵を借りられるルーンさんの介入も、それからは禁じられてしまった。
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