第9話「行かないで」
「ただいま……どうしたの? フィオナ。そのドレスは可愛いけど……それは、お茶会用のデイドレスだろう?」
仕事帰りのシリルは、私がお茶会に出席したままで部屋の中に座っていたことに驚いているようだ。
視線を上げれば窓の外は、もう暗い。
私がずっと考えている間に、日中働いているシリルが帰って来る時間になってしまっていた。
シリルは今は軍に関係した仕事をしているので、軍所属になるらしくきっちりとした軍服を着ていた。相変わらず、視界の悪い暗がりでも思わずはっとしてしまうくらいに素敵な人だった。
メイドの呼び掛けもどこかで聞こえていたような気もしたけど、私の反応がなかったので彼女は諦めていたのかもしれない。
ジャスティナから色々と聞かれたので、そのことの処理で精一杯でもう何も覚えていない。私が勘違いした理由とか、エミリオ様の本心とか。
もう何もかも、どうでも良くて。
「あ……ごめんなさい。私」
貴族の妻としてシリルが帰って来た時には、玄関ホールへと彼の出迎えにいつも出ていたのに、それすらも出来ていなかった。
「フィオナ。謝らないで……何かあったの?」
私の隣に座ったシリルは、外の匂いがした。彼は外出していたのだから、当たり前だけど。
そんなことで彼がすごく近くに居るのだと、実感した。
まるで慰めるように大きな手を膝の上にあった私の手に重ねて、シリルは私の返事を待っていた。
こんなに優しい人なのに。
「……何も。ごめんなさい……私。出迎えも出来てなくて」
「こんなフィオナの様子を見せられて、その言葉を俺が信じるとでも? 確か今日は友人のジャスティナ嬢のお茶会に、出席すると言っていたね? もし……君に言えないようなことがそこで起きたというのなら、彼女に直接聞くよ」
シリルは硬い表情で立ち上がり、私の部屋を出ようとした。私は止めようと慌てていたので、彼の背中へと抱きついてしまった。
「行かないでっ……」
シリルの背中は、私が想像していたよりだいぶ大きくて広かった。私はいけないと思って身を引こうとしたんだけど、その前に彼の体の前で手を握られた。
「わかった。どこにも行かない。これは今日も頑張って、働いて来たご褒美? フィオナ。こうしてくれて、嬉しいな。君が落ち込んでいる理由は、俺には話してくれないの?」
「あ。違うのっ……お茶会は、何も関係ないから。シリル」
「……では、何か違う理由?」
手をぎゅっと握られて、私は彼の背中に顔を付けた。シリルの背中は大きくてあったかくて、とても安心が出来る。
「ううん。もう、何でもないから……遅れて来た、マリッジブルーなのかも。私はシリルと結婚したという、実感がまだ少ないから」
歯切れの悪い言い訳だと、自分でもわかっていたけど……こう言ってでも、切り抜けるしかない。
私が考え込んでいる理由を、シリルには明かせないもの。
「だいぶ苦しい言い訳だけど、俺に言いたくないという意志は伝わった。そんなフィオナに、話せと無理強いはしたくない。では、ともに着替えて夕食にしよう。君付きのメイドは、奥様が魂がぬけてしまったと心配していたよ」
「……考え事を、してて。ごめんなさい」
そうしたら、シリルがようやく握っていた手を離してくれた。そして、くるりと私の方を振り向いて、肩に手を置いて真剣な眼差しで言った。
「フィオナ。何か、心配ごとでも? ベアトリスは、王の厳命がくだり、君には近づいていないはずだけど……フィオナに危険があるなら、俺が対処するから変わったことがあるなら教えて欲しいんだ」
「何も……何もないわ。シリル」
◇◆◇
私は親友のジャスティナに黙っていられなくて、全てを打ち明けた。
シリルは皆が噂している通りに、聖女ベアトリス様から逃げ出したくて、偶然通りがかった私に結婚を申し込んだ。
けれど、夫になったシリルは、私にはそういう意味で指一本触れないのだと。
ジャスティナは憧れの勇者様がやけになって酒場の前で手持ち看板を持ち呼び掛けていたくだりでは絶句していたけど、急に私が結婚した理由や何もかも、彼女に話してしまえば大きな秘密を抱えていた私は気持ちが楽になった。
ジャスティナはこれまでのすべてを知って、複雑そうな表情をしていた。
何度もシリルのことは好きではないのかと確認されたけど、私は首を横に振った。もうすぐ別れてしまう人を、好きなのだと認めたくなかったから。
シリルは、何も悪くない。
急拵えの結婚相手を慌てて用意しなければならなかったのも、別に彼のせいでもない。
ルーンさんはベアトリス様を増長させたのはシリルだと言っていたけど、魔王討伐時には、どうしても聖女の聖魔力を借りねばならなかった。だから、シリルが彼女のご機嫌を取っていたという流れは理解出来る。
けど、シリルは結婚した私と本当の意味で夫婦になろうとはしなかった。
夫として紳士的に優しくはしてくれるけど、キスはベアトリス様に強制されたきりだし、まだ私たちは互いの部屋のベッドで夜は眠っている。
血を繋ぐことが主な目的な貴族間の結婚だと肉体関係のない白い結婚であれば、婚姻関係を無効に出来る。
互いに白い結婚を主張すれば私はシリルと結婚していた婚姻歴さえも、なかったことにしてしまえるのだ。
ジャスティナから聞いたエミリオ様の話は、私にとってとても衝撃的な話だった。
私は憧れていたエミリオ様は他の男性たちと同じように、ジャスティナのことを気に入っていると思っていた。
だから、二人が楽しそうに隠れて笑っているのを見て、ジャスティナとエミリオ様は親密になったのだと判断した。ジャスティナは用心深くて今まで、異性とそんな風に居たことはなかったからだ。
けれど、彼女にとって友人の私の話をしていたのだと思えば、確かに話は通る。二人ともお互いに気がないとわかっているので、逆に意識せずに親しく話せたということも。
ジャスティナはもっと私に早く言えば良かったと謝罪してくれたけど、私はもう自分の気持ちがよく分からなくなった。
こんなに大事にしてくれるシリルと別れてまで、エミリオ様と婚約を前提に交際したいかと問われた時に言葉に詰まった。
私とシリルは期間限定の夫婦で、いずれ別れてしまう。けれど、そもそもの元凶のベアトリス様が本当にシリルを諦めたのかは、まだ確定していない。
真剣な顔つきのジャスティナは、これら全てを知った上でシリルと一度話したいと言った。もしかしたら、私ではなく自分を結婚相手に選べと、交渉するのかもしれない。
確かにジャスティナなら、名誉ある勇者の結婚相手として相応しい。女性として必要なもの、何もかもを持っている伯爵令嬢だ。
常に彼女のおまけのように扱われていた私とは、同じ立場にあっても似ていて非なるもの。
シリルと私が偽装結婚だと疑われたのは、二人があまりにも似合わなかったせいなのかもしれない。きっと偽装結婚であることが知られたら、納得してしまうはずだ。
やっぱり、最初からおかしいと思っていたんだと。
ジャスティナがシリルに何を交渉をするのも、それを聞いて彼がどう判断するかも、私が口を出せる話ではない。
だって、私とシリルは本当の夫婦でも何でもなくて……彼の心変わりを責められるような、そんな立場に居ないもの。
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