第10話「逃げよう」

 彼女の申し出通りにジャスティナはシリルと話したいと、私は仕事に行く前の彼にそれを伝えた。


 「別に良いよ」とサラッと返事を返された時に、私は何を彼に期待していたのか、心の中でガッカリしてしまった。


 シリルがジャスティナの話を聞こうと言ってくれたのも、私がそうして欲しいとお願いしたからだ。なのに、私はそれを不満に思った。


 自分の気持ちが、複雑すぎてよくわからない。


 私は結婚したがっていた勇者シリルと、偶然結婚出来た。


 けど、自分よりもすべてが優れている存在、ジャスティナに取られてしまうのかもしれないと、不安でたまらない。


 シリルに会うために訪ねて来たジャスティナは、私も同席するように言ったけど、何を言われるかもわからなくて……どうしても怖くて。


 直前で逃げ出して……私は、ここに居る。


「……えっ……あんた。何してんの。怖くない?」


 空を飛んで現れたルーンさんは、窓からよじ登って斜めの屋根の上に居た私を見て驚いているようだ。


 落ちることは別に怖くない。少なくとも今は。


 それよりも目の前に迫る彼の選択が方が怖くて、高所にある怖さがわからない。


 シリルが私と才知あふれるジャスティナを比較して、どちらを選ぶかの結果なんて、もうずっと知りたくない。


「ううっ……ルーンさんっ」


 この前に感情のたかぶった時を見せてしまったせいか、彼の前ではこれまでに被っていた仮面をうまく被れない。


 今まで私の前で誰かが私以外を褒めても、何も言わずに言えずに我慢してた。


 私のことを見て。私もここに居るよって、心の中では叫んでいた。言いたかった。でも、言えなかった。今までずっと。


 どうしてもジャスティナに、シリルを取られたくない。


「……あんた。俺の前で、いつも泣いてるけど……その」


 隣に座ったルーンさんはこの前に持っていなかった反省を踏まえてか、泣き出した私にハンカチをそっと渡してくれた。優しい。


「ごめんなさいっ……けど、ルーンさん、いつもっ……泣きたい時に、居るからっ……」


 上手く声が出ない私を見たルーンさんは難しい表情をした後に、はあっと息をついた。


「今度は何」


「私……この前に言っていた親友が、今家に来てて」


 この状況をどう説明しようか、迷った。言葉を止めた私を不思議そうに見て、ルーンさんは言った。


「じゃあ……なんで、こんなところに居るの? あんた訪ねて来たんだろ?」


「私ではなく……シリルに、用があるんです」


「……はー、なるほどね。ご自慢の親友に会ったシリルの反応を見たくなくて、ここに逃げてきたんだな。あんたって……本当に、馬鹿だね」


「そんなの……わかっています」


 あきれたような言いようを聞いても、その通りだと思うだけだ。


 自分が馬鹿なことは知っていたし、意気地なしだと罵られようがただ怖かった。こんな私の情けない気持ちは、きっと誰にもわかってもらえない。


 今までジャスティナと私が並んでいて、私を選んでくれた人なんて……本当に、誰も居なかったんだから。


「あのさ。もう……わかったから。シリルと別れてきなよ」


「……え?」


 いきなり静かに話し出したルーンさんの言葉に、私は顔を上げた。


「そうしたら、俺と付き合えば良い。人妻が泣いていても、慰められない。別れてきなよ……辛いことのあるここから、連れ出してあげるから」


 いきなりルーンさんの言い出した言葉に驚き、思わず涙を止めてしまった私は、良くわからなくなった。だって、これってシリルと別れればルーンさんが私と……?


「えっ……でも、私なんて」


 ルーンさんはわかりやすく顔をしかめると、言葉を遮るようにして話し出した。


「あんた。いつも私なんてって言うけど……何の不満があんの。裕福な貴族に生まれて姿も可愛くて、自分で努力をしなくてもそれなりの教育だって受けられている。これ以上に、何が欲しいの。何を望んでいるか言えば、俺が叶えてあげるから言えよ」


「……そんなこと。私……私は」


 私を見るルーンさんの可愛い顔は、今まで見たことのないくらいに真顔だった。


 彼は魔法使いでそれこそ私には想像もつかないことも、何でも出来てしまうんだろうけど……私のこの消えてしまいたいくらいに、情けなくてみじめな気持ちを埋めてくれることなんて、出来るんだろうか。


「その……なんか、良く出来た親友と比べてっていう話は、この前にもう聞いたよ。だから、あんたをシリルが好きじゃないんなら、俺が貰うよ。俺だって魔王討伐の報酬なら、たんまり貰ってるから。爵位だって持ってる。あんたが王都に残りたいなら、それも叶えても良いよ」


「でも……」


「あのさ。あんたとその親友を並べて、親友を選んだ連中はあんたの中身を知らなかっただけだと思うよ。何も劣っていない。俺から見れば同じくらい可愛い」


「そんなことはないわ……ジャスティナは、素晴らしい人だもの」


 知らないだけだ。彼女がいかに優しくて寛容で、心まで美しい人なのかを。


「あんたも傲慢な人間の多い貴族にしては珍しく性格は控えめだけど、顔だって可愛いし、誰にでも優しく接し気遣いだって出来る。それに、頭も良いから公爵夫人としての女主人の仕事だって、すぐに習得したんだろ? よそから引き抜いた経験豊富な執事だって褒めてたって、この前にシリルに自慢されたから知ってる」


「私……私」


「さっきも言ったけど。あんたが本当に逃げたかったら、逃がしてあげるよ……それに、俺は自慢の親友とやらを気になってこの前見て来たけど、プライド高そうで面倒そうで、俺は無理だと思った……好みもあるからさ。シリルが誰を選ぶなんて、決めつけるなよ」


「もう嫌なの……ジャスティナのことが、好きなのに。彼女のそばと居ると、つらくて悲しくて……誰もが彼女を褒めるけど、私のことには見向きもしない。そんな自分には、何にも価値がないみたいに思えるの。居なくなって仕舞えば良いって、思ったこともあった。大事で大好きなのに。そのはずなのに……」


「……そうか」


「だから、こんな私は、シリルに好きになってもらえないの……」


 嫌だ変わりたいと、いつも思ってた。ジャスティナと同じように、明るく振る舞えば人の見方は変わるかも……そう思ったりしたことだってあった。


 それなのに、そうすることが出来ないのだ。抜け出せる方法なら、肌でわかっていた。控えめに笑っているだけでは、誰も振り向いてくれない。このままだと、嫌だと思っている状況から逃げられない。


 けど、私はそうしなかった。現状を変えない方が、嫌な思いをすることだってない。その方が、楽だったから。


「……なあ。それって、シリルに聞いた?」


 ルーンさんは重い空気を変えるように、わざと明るい声で聞いて来たので、私は目を瞬かせてから首を横に振った。


「いいえ……?」


「じゃあ、俺はそれ聞いても、あんたのこと嫌いにならなかった。もし、それを打ち明けてシリルが嫌いだって言ったのなら約束するよ。あんたのことは、俺が最後まで責任持つ。なんか、俺が酒飲んで適当に言ったことが、そもそもの元凶だったしな」


「えっ……でも、ルーンさん?」


 何を言い出したのだと慌てた私に、ルーンさんは楽しそうに笑った。


「ははは、そんな顔すんなよ。あんたは困り果てたシリルを助けようと、酒場で即結婚決めたんだろ? 俺だって英雄の一人なんだから、条件的にはあいつに負けてないだろ。じゃあ、シリルに聞いて来いよ。もし、駄目だったら俺が一緒にここから逃げてやるから……フィオナ」


 今まで全く男性として意識していなかったルーンさんは、うずくまって泣いていた私の手を大きな手で取り、立ち上がらせると笑った。

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