第44話

 話を聞き終わったタクマちゃんは部室棟から三歩下がった。

「……ここに、黒い靄が」

 タクマちゃんがそう呟くような声で言った。

「俺達は中に入って確かめてこようと思う。タクマちゃんはどうする?」

 どうする、と聞かれてタクマちゃんは目を伏せた。それはそうだ。中はどうなってるか分からない。怖いに決まっている。だが、タクマちゃんはキッと顔を上げた。

「行きますっ……私も」

「いいの? 何が起こるか分からないよ?」

「そ、それでも、行きます……何も、出来ないかもしれないけど……」

「分かった。行こう。みんな、準備はいい?」

 俺達は頷いた。ワタルはそれを確認するとドアノブに手を掛け、一気に扉を開いた。

「ゔっ!」

 中は更に酷い臭いだ。だがそれ以上に中の有様が酷いのだ。天井から黒い粘液が滴っている。それが床を真っ黒に染めて、壁はその跳ね上がりで汚れている。

「ユータ大丈夫?」

「へーき。それよりお前らには何か見えるか?」

「俺には普通の校舎にしか見えないよ。タクマちゃん何か見える?」

 ワタルが聞くが、タクマちゃんから返事が無い。見ると、タクマちゃんは小さく震えていた。

「……こんなに、空気が重いのは初めて……それになんだかいつもより暗くて……」

 タクマちゃんは何か感じている。俺は中に一歩踏み出してみた。粘液を踏むネチャリとした感触が気持ち悪い。ヌチャッと言う音を立てて、目の前の天井から粘液が滴った。背筋が粟立つ。だが、思ったより足は取られない。これなら大丈夫だ。

「コウキが心配だ。行こう」

「分かった。タクマちゃんはサッカー部の部室に案内してくれる?」

 タクマちゃんが頷いた。

 サッカー部の部室は三階の一番奥の突き当たりだ。階段は入り口付近にある一つだけだと言う。俺達はその階段を上がっていく。空を飛べば早いが、空気が粘ついていて上手く飛べない。俺は仕方なく粘液の中を走った。驚いたのは階段を走っているのに、まったく滑る感じが無い事だ。実体の無い粘液、やはり不気味だ。建物の中は何処も不気味な粘液が覆っている。三階に上がると、左を向いた。その突き当たりにサッカー部の部室があるのだが、その前だけ粘液が厚い。肉のように盛り上がった粘液は、まるで動物の体内のようだ。何も見えないワタルはスタスタとそちらへ歩いていく。タクマちゃんもその後に続く。だが、顔色が明らかに悪くなっている。もうどこもかしこも気持ち悪過ぎて俺の感覚は麻痺してしまったようだ。グッと奥歯を噛み締めると、俺も歩き出した。

 ふと窓の外を見たら、空が赤くなっていた。黒い人型の何かが運動場を歩いている。きっと体育の授業でもやってるんだ。自分にそう言い聞かせて、俺はそちらから目を背けた。

 部室の前に着くと、ワタルがノックをした。だが、返事は無い。俺達は目配せし合うと一気にドアを開けた。中には二十人くらいの男と、その男達にベッタリとおぶさったり抱きついたりする女らしきモノがいた。みんな濡れたように髪がベタついているのに、肌にはまったく水気がない。生霊だ。一目見ただけでそう思った。憑かれた男達はみんなグッタリして、誰一人動かない。

 ワタルもタクマちゃんも絶句してその場に立ち尽くしている。

「……ワタル」

 俺は小声でワタルに声を掛る。

「お前、何が見えてる?」

「サッカー部が二十人くらい。みんな、グッタリして精気が無くて凄く不気味」

 思った通りワタルにはサッカー部しか見えてない。タクマちゃんの方を見る。口を手で押さえて真っ青な顔をしている。俺を見た時の反応に近い。

「俺には、サッカー部の奴らと、多分コイツらに憑いてる生霊が見える」

 そう言うと、ワタルから小さく息を呑む音が聞こえた。

 俺はまた部室の中に目を向けた。その部屋の奥、床に寝そべる男がいる。金髪と派手な柄のパーカー、コウキだ。こちらに背を向けているが、間違いない。

 それともう一人、部屋の隅で膝を抱えて肩を震わせるポニーテールの女の子。見覚えの無い子だ。もしかしてサッカー部の女子マネか? この異様な状況に巻き込まれて怖くて動けなくなった、と言ったところか。

「コウキがいる。後、女の子も」

 俺はゆっくり中へと足を踏み入れた。

「待って、俺も行く」

 ワタルがそう言って部屋の中に入って行った。

 本来なら板で出来た旧校舎の床は、今では足首にまで達する粘液でその暖かみが掻き消えている。後ろからワタルが呼びかけてくる。瞬間、一番近くにいる生霊の頭が大きく揺れた。コイツら、音に反応するのか? 俺は振り返ると立てた人差し指を口に押し当てた。ワタルがグッと口を噤む。俺はそれを確認して先を行く。男と生霊達の間を出来るだけ触らないように歩いて行くと、奥の壁際にコウキが倒れていた。

「コウキ……」

 抑え切れずワタルが小さく呟いた。俺は慌てて周りを見たが、これに反応している生霊はいなくて、ホッと胸を撫で下ろした。

 俺はしゃがんでコウキの顔を覗き込んだ。コウキは苦しそうな表情で浅い呼吸を繰り返している。ヤバいな、急がないと。ワタルを見ると、同じようにコウキの顔を覗き込んでいた。そして、俺を見て頷いた。触れない俺はこの場をワタルに任せて立ち上がった。次に膝を抱える女の子に近づいた。そっとしゃがんで女の子と同じ目線になる。

「君、大丈夫?」

 聞こえるかどうかの声で問い掛ける。一か八かだったが、女の子がおずおずと顔を上げた。結構可愛い子だけど、泣き腫らした目は何処か虚ろだ。

「わたし……私、一体、何が……」

「大丈夫だよ。ここはサッカー部の部室で……」

 サッカー部、と俺が言った瞬間に女の子の顔がみるみる恐怖に染まっていく。なんだ? どうした? 俺の混乱を余所に女の子は荒い呼吸を繰り返し始めた。

「ぁっ、はっ、はぁっ、サッカーぁっ」

「お、落ち着いて! 俺はサッカー部じゃなくて……」

 しまった! と思った。今、サッカー部の名前を出した瞬間に、女の子が目と口を目一杯に開いた。その顔は今にも叫びだしそうだ。俺は慌てて女の子の口に手を当てた。その手は女の子を通り過ぎる事無く、その口を覆った。

「……え?」

 触れる? そんな。て事は……一瞬、何が起こったか理解出来なかった。それがいけなかった。そう考えているその時、押さえる手が緩んでしまった。それと彼女が叫ぶのが同時だった。

「ぅ、うおおおおおおおおおおおおおおおぉーー!」

 獣のような咆哮、と言う言葉が頭を過る。だが、そんな悠長な事を言っている場合じゃない。女の子の叫び声に反応したように、一番近くにいた生霊が叫び出した。

「あああああああああああああああああああーー」

 一人が叫び出すとあっという間にそれが伝播していった。

「あああああああああああああああああああーー」

「あああああああああああああああああああーー」

 精気の無い、声にならない声の合唱は、まるで地の底から鳴り響いているような不気味さだ。その叫び声が響き始めると、建物がグラグラと揺れだした。サッカー部の奴等から呻き声が聞こえ、数人が糸の切れた操り人形のようにぐにゃりと崩倒れていく。俺は視線をサッとワタルとタクマちゃんに向けた。良かった。まだ二人はちゃんと立てている。俺は形振り構わず声を張り上げた。

「ワタル、コウキを連れていけ! それとタクマちゃんに誰か呼んでくるように言え!」

「分かった!」

 ワタルは叫び返すと、タクマちゃんに声を張り上げて指示を出した。タクマちゃんは弾かれたように走り出した。そして今も苦しそうな呼吸を繰り返すコウキを担ぎ上げた。

「早く! ユータも逃げなきゃ!」

「いい! 俺はまだやる事があるんだ」

「やる事? そんな事言ってる場合じゃない!」

 ワタルが怒鳴る。そうか、ワタルには今も狂ったように叫び続けるこの女の子が視えていないんだ。生霊達の叫び声はどんどん酷くなっていく。コウキが苦しそうに呻くのが聞こえる。もう時間が無い。

「いいから早く行け!」

 俺はそう叫ぶとワタルに背を向けた。

「……分かった。ユータ、もう死なないでよ」

 ワタルはそう言うと走り出したようだ。その音を背に受けて俺は女の子の腕を掴んだ。

「俺達も行くぞ!」

 だが、彼女は俺の腕を振りほどくと、頭を抱えながらイヤイヤと言うように首を横に振った。

 なんだ? なんなんだコイツ! お前が叫んだりするから……

「面倒な事になったんじゃねーかっ!」

 何かが俺の中で爆発した。俺は踞るその子の脇の下と膝裏に腕を差し入れて無理矢理抱き上げると、そのまま壁に猛然と突っ込んでいった。バチッバチッバチッ、と火花が散るような音と激しい痛みが体を襲う。女の子がさっきとは質の違う悲鳴を上げる。でも、それがどうした!

「なんっ、なんだよっ! こンの、バカヤローがぁ!」

 バチィッ

 激しい弾ける音と何かを破る感覚があった。その先に広がっていたのは、真っ青な空だった。体が下に落ちる感覚。でも今の俺にはそんなの、なんて事無い。中空を蹴ると体がフッと浮かぶ。カッカッカッと階段を駆け上がるようにして助走を付けると、空へと飛び出した——

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