第22話

 指定された夜七時、キッチンONの分厚い扉を開くと異様な光景が広がっていた。店のテーブルはホールの中央にある一つを残してすべて隅に追いやられ、中央のテーブルの背後、壁に掲げられていたインドの地図を、スガワラ王国の、Sの字に一つ目の国旗が覆っていた。

 テーブルの席に莉久と一緒に座る。国旗の目は、黒目が少し下がっている。椅子から国旗を見ると、その目が俺たちをじっと見下しているかのような錯覚を感じる。

「なにこれ。こわい。やっぱり、ここに来るべきじゃなかった」

 莉久は怯えたように言って、不安げな目でじろじろ辺りを見渡した。

「ここまで来たから、仕方ない。翔にあってしっかり話そう」

 莉久の肩を優しく抱く。体温が、妙に冷えているようだった。

 店の扉が開く音がした。振り向くと、扉の向こう側に翔が立っていた。半年ぶりに見た翔の外見はあまりに変化していて驚いた。髪は乱れ、肩の下まで伸び、たくわえた顎ひげは胸元まで届いている。肌は浅黒く、温厚な目つきをしていたが、瞳の奥からは何の感情も読み取れない。

 この顔つきに、元社長という肩書きはふさわしくない。今の翔は、修行僧だ。

「翔、今までどこに行っていたのよ? ジムへ行ったっきり、半年も行方不明だったのよ。私たちもできるかぎり探したけど、見つからなかった。私たちに迷惑をかけて、なにも謝ることないの?」

 莉久が険しく問いつめると、翔は少し間をあけてから喋りだした。

「声に導かれたんだよ」

「どういうことよ。さっぱり訳が分からない」

 莉久が翔へ聞いても、翔は黙っていた。俺たちを見る目が、だんだんと蔑みに満ちるように、冷たくなってくる。

 翔は店に入ると席にどっしりと座り、ポケットからマルボロを取り出した。箱はボロボロに傷んでいた。

「ライターが見つかんねえや。クソッ。そういや、お前ら、薬ってどこから買ってるんだ? オオツカ・ミライ、薬物を相当値上げしたって聞いたぞ」

「もう買ってないぞ。俺たち、二度と薬をやらないことに決めた」

「へえ、なんで急に? お、ライターがあった」

 翔はライターを取り出すと、テーブルに置いた。

「莉久を応援してくれる人たちを、悲しませたくないんだ。莉久のファン、事務所、出版社、イベント会社、スポンサー。いろんな人たちが、莉久を信じている。薬をやったことがバレたら、そうあう人たちを裏切ることになる。だから、俺たちはやらない。禁断症状が辛いけど、二人で励まし合いながら、なんとかやっていってる」

「キレイゴトだな。奏太、バカじゃないの? 人間はね、最後は裏切るんだよ。お前のこと、もう少し、賢い人間だと思っていたけど、失望した」

 翔はマルボロに火をつけた。

「店長。いつものマトンカレー、三人前!」

「ハイ……。持ってくるね」

 店長は、怯えたように返事をした。翔はマルボロを吸うと、口から大きく煙を吐いた。

「ジムへ行ったあの日は、大塚から解任を伝えられて、頭の中が混乱していた。これからどうすべきか頭の中を整理したくて、JRビルのジムへ行って、ルームランナーを走っていたんだ。走っていると、だんだんと精神が統一されて、心がすっきりするからな。

 それで、しばらく走ったら、ガラス越しに見える夜の闇が急に真っ二つに裂け、人ひとりが入れるサイズの裂け目ができた。気になったからその裂け目に入ったんだ。すると、目の前に真っ赤な森が広がっていた。辺りは、たくさんの死体が転がっている。不気味だった。少し歩くと、森が開けて玉座のような巨大な椅子があった。そこに、蛇の頭に一つ目の巨人が座っていたんだ。その巨人は俺に『翔、お前は人類を救う神に任命する』って話しかけてきたんだ。

 ふと気づくと、ジムのルームランナーの上に倒れていた。辺りを見渡すと、ジムのマシンたちが声を出しはじめた。みんな、俺に『菅原翔は選ばれし神様だ』って話しかけてきた。俺は悟ったんだ。俺がやるべきことは、株式会社スガワラ王国の再建じゃない。人類の救済なんだってね。

 人類を救済するためには悪い存在と戦わなきゃいけない。すぐに軍隊をつくることにしたよ。次の日には土地を探し回って、泉ヶ岳の森の中に軍の施設を作るって決めた。親父名義の役員報酬を騙し取って作った裏金がとても役になった。軍の名前は『神聖軍スガワラ』。軍の隊員も数百人まで増えて、そろそろ、本格的に決起しようかと思ってる」

 翔は無邪気に笑うとまた一服し、頬を赤らめながらコップの水を美味そうに飲んだ。

「……お前、それは本気で言ってるのか? 何を言いたいか、まるで訳が分からない」

「わからないのはお前らが悪い。俺は、人類救済のために選ばれた『神』になった。この穢れた地球を神聖軍スガワラで制圧して浄化するんだよ。どうしてわからない? お前を参謀に入れてやろうかと思って面接しにきたんだけど、どうもわかってないようだし、やめておこうかな」

 店長が厨房から出てきてマトンカレーをテーブルに置いた。なぜか手が震えていた。

「なにからなにまでわからねえよ。神? 人類の救済? 軍を決起? ふざけたこと言ってんじゃえよ。お前は、俺たちの高校の同級生で、文芸部で一緒だった菅原翔。国王までなら出世したかもしれないけど、神じゃない。単なるやべえヤツじゃん。第一、あの国王だって株式会社スガワラ王国の宣伝のためだったし……」

 すると突然翔は立ち上がり、拳を構えると、俺の胸ぐらをつかんできた。

「俺のことをバカにしやがって! なんで俺の言うことを聞かないんだよ。まだ俺が神じゃなかったときも、みんなからバカにされた。親父にも、学校にも、大塚どもにも、お前らにも! だけど、今は神になった! 全知全能! これで誰からもバカにされないと思ったのに!」

 そう言うと翔はけたたましく笑いだして俺の腹を殴った。目は完全にイッていた。

 鳥肌が立つ。恐ろしい。このままだと、殺されるかもしれない。逃げなければいけないと察した。

「店長、翔を捕まえてくれ!」

 店の奥にいる店長へ叫んだ。店長は顔を強ばらせて、首を横に振った。

「ムリね。私、翔さんに逆らったら殺される……」

「逃げるぞ。翔はおかしくなった!」

 翔を勢いよく突き飛ばす。翔は床に倒れた。頭を抱えて、うなっている。急いで莉久の手首をつかんで立ち上がり、店の外へ思い切り走った。

「翔はマンションの合鍵を持っている。帰るのは危ない! タクシーをつかまえて、遠くへ逃げるぞ!」

 通りかかったタクシーを拾って、車内へ入る。

「運転手さん! とにかく走って! どこまでもいって!」

 ドアが勢いよく締まり、タクシーは走り出した。マンションの脇の坂を下る。振り返ると、走って追いかけくる翔がリアガラス越しに見えた。そのリアガラスには、皮肉にもスガワラ王国のステッカーが貼られていた跡があった。

「お客さん、警察に通報しましょうか? たぶん、酔っ払って喧嘩したんでしょ?」

 運転手が慣れたように事務的な口調で言ってくる。

 警察に通報されたら、俺たちが薬をヤッていたり死体を捨てていたりしたことも、バレるかもしれない。それだけはダメだった。

「いいです。話がまともに通じる相手じゃないですし、警察に出てこられたら、私たちも捕まるかもしれませんし」

 運転手は何かを察したかのように黙った。。

「翔が! 翔がおかしくなった! なんでああなったの?」

「わからねえ。あと、あいつの話、どこからどこまで本当か、さっぱりわからねえ。調べないと」

「誰に相談すればいいの?」

 莉久が目を擦る。

「思いつくのはあの人しかいない」


  翌日、勾当台公園駅の長く真っ直ぐ伸びた階段を登って、仙台市役所の南側、一番町のオフィス街へ向かう。駅の出口、定禅寺通の欅並木の向こう側に、全面ガラス張りの十二階建てのビルが立っている。ここにはオオツカ・ミライの本社がある。

「大塚は忙しくて、十五分しか時間が取れないらしい」

「話を聞いてくれるかな」

「わからねえ。正直、賭けだ。けど、やるしかない」

 ビルへ入って、真っ白いロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗って登る。十二階で降りると、目の前にはすでに大塚が立っていた。

「お久しぶりです。大塚さん。私の無茶なお願いを聞いてくれてありがとうございます」

「メールを見ましたけど、榎本さん、最後まで読まないと何が言いたいかわからないメールは嫌われますよ。メールの打ち方を忘れるほど、恐ろしいのはわかりますけどね」

 大塚の背後には重厚な鉄の扉がある。この先が、オオツカ・ミライの本社だ。銃撃戦にも耐えられるというその扉には、いくつもの丸い凹みがあった。おそらく銃痕だろう。

「さすがに本社のなかには入れさせません。信用していたヤツを本社へ入れさせて、金や情報を盗まれたことなんてザラですからね。エレベーターの脇に応接室を作っています。そっちで話しましょう」

 大塚に連れられて、エレベーターの脇の応接室へ行く。応接室は狭く暗い。椅子に腰掛けると、大塚は真剣な眼差しをしながら重い口調で話し始めた。

「菅原さんを救うのは、私の役割ではありません。あんたらの役割です。それと、榎本さんはメールの中で『翔は薬のやりすぎで頭がおかしくなった』と書いていますが、それは違うと思います。販売履歴から調べると、榎本さんと菅原さん、高橋さんは同じぐらい薬を使用しています。でも、榎本さんと高橋さんは平気で、翔さんだけおかしくなった。菅原さんは薬のせいでおかしくなったわけではないと私は考えます」

「じゃあ、なんなんですか! あんなの、薬で脳がぶっこわれた以外、何物でもないじゃないですか!」

 大塚へ叫ぶ。すると、大塚は珍しく悲しそうな顔をした。

「いろんな人に裏切られたから、おかしくなったんです。辛い現実を認めたくなくて、あちらの世界に行ってしまった、というところでしょうね。榎本さんも高橋さんも、いろんな人に裏切られておかしくなった時期があったんじゃないですか?」

「……あります。私は、大学をやめた時、絶望しました。友人たちに『学校を辞めるなんて心が弱い』とに見捨てられました。その時に救ってくれたのが、翔でした」

「だったら榎本さん、今度は菅原さんを救ってあげなさい。榎本さんに協力するカタチなら私どももできます。部下の大友を手伝わせましょう。スガワラ王国で経理部長をさせていたヤツです。あなたがたも、よく知っていると思います」

「ありがとうございます!」

 莉久の顔色が明るくなった。

「菅原さんは強迫観念を抱えて生きているんですよ。結果を出さないと、生きる価値がない。そう本気で思ってるから、死ぬ気で仕事にうちこんで成功するんです。そういう人にとって、仕事を取り上げられるのは、実際に死ぬより辛いことなんです」

 大塚は下をうつむいた。かすかに震えている。

「私も、あんたらみたいな友達思いの人が身近にいたら、もう少しマシな人生を歩めたんです。菅原さんを、私のような哀れな人間にしてはいけません」

 大塚の目からは、涙がこぼれていた。

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