第19話
朝、会社へ行く時間になっても、翔は家に帰ってこなかった。LINEにメッセージを送ったが、既読すらつかない。
「探しましょ? 会社にいるかもしれないし、今から行くわ」
メイクをした莉久は、慌ててモスグリーンのスーツに着替え、カルティエのネックレスを首にかけた。
「そんなに急がなくていいんじゃね? どうせ、スマホをろくに見ないで会社へ向かっているんだろうし」
すると、鏡越しに映る莉久の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「よくないよ。私、翔にいなくなられたら、困る!」
莉久は震えた声で言うと、あろうことか俺の胸ぐらをつかみあげてきた。
「うわ、お前、離せ!」
「もういい、話にならない。一緒に会社へ行くよ」
にらみつける莉久の目は鋭い。何も言えなくなった。
そのまま莉久と一緒にマンションを出る。近くの駐車場に行くと、ダークエメラルドのキャストがある。莉久の車だ。
「あんたはそこでおとなしくして」
莉久は後部座席へ俺を押しこんで、運転席に座るとプッシュボタンを勢いよく押した。
莉久の運転は荒い。キャストは、愛宕大橋を猛スピードでかけていった。右側に愛宕山、正面には大年寺山がそびえる。山頂のテレビ塔は、気味が悪いほど大きい。
「奏太さ、なんで運転しないの? てか、少し震えていない?」
莉久が呟いた。キャストは橋を渡りきり、愛宕山脇の急カーブへ突っ込む。
「親がここで事故死したんだよ。車には怖くて乗れない」
「……ごめん。そういえば、ここだったね」
莉久は申し訳なさそうに言うと、すぐにスピードを緩めた。両親は四年前の四月、春にしては珍しい猛吹雪の夜に、このカーブを曲がりきれず、対向車のトラックと正面衝突して死んだのだ。
キャストはゆっくりと走った。数分後、オフィスの駐車場へ着く。車から降りて二階のオフィスへ行くと、見慣れない男たちが会社の書類をかきあつめ、ダンボールへ詰めていた。社員は、隅に集まって呆然としていた。
「どういうことだ。何があった」
社員へ話しかける。
「榎本さん。高橋さん。お、大塚さんが………」
企画スタッフの尾形が震えた声で社長室を指さした。すぐ社長室へ向かった。
ドアを開ける。大塚がいた。あろうことか社長の椅子に堂々と腰掛けている。
「大塚さん、なんで社長の椅子に座っているんですか!?」
「決まってるじゃないですか。私がこのスガワラ王国の社長だからですよ。今朝、うちの取締役会で菅原さんを解任し、今日付けで私が社長に就任したんです」
「か、解任? 大塚さん、突然すぎませんか。そんな大事なこと、私たちに何も知らせずに決めるってずるくないですか?」
「いえ、あんたらのほうがよっぽどずるいです。この会社、脱税しようとしてるでしょ? 国税局にバレて捜査されるといろいろ厄介なので、私が火消しをしにきました」
大塚は、拳を振り上げると、思い切り机を叩いた。
「この会社、一度も出勤したことのない取締役の菅原良雄ってヤツに、創業した五年前から役員報酬を毎年二〇〇〇万円も払っていたらしいですね。しかも、その二〇〇〇万円を損金として計上して税務署へ申告。もし、税務署がこれを知ったらどう思いますかね? 架空の役員報酬で損金を作り、法人税を不当に安くしようとしている。つまり、スガワラ王国は脱税しているかもしれない。そう疑われたら、国税局が必ず捜査しに来ます。マスコミも騒ぐ。信用ガタ落ち。親会社の私の会社にも、なにか捜査の手が入るかもしれない」
大塚は立ち上がった。近くのライトスタンドを持ち上げると、壁に向かって思い切り叩きつけた。
「なあ、てめえら、俺の面に泥を塗る気か? ふざけんじゃえねよ。死んでしまえ! そもそも、菅原良雄って誰だ? 本人と会って話をしたいから、すぐ呼んで来い! ここで殺してやる!」
戦慄が走る。生きた心地がしない。逃げたい。だが、ここで嘘をついたり、ごまかしたりすると、余計に事態が悪くなる。しっかり答えなければいけない。それに、菅原良雄のことはよく知っていた。
「菅原良雄さんは、菅原社長の……」
「前社長と言いなさい。社長は私です」
大塚はもう一度、ライトスタンドを壁に叩きつけた。壁には穴が開いた。
「失礼しました。菅原良雄さんは、前社長の父です」
「へえ、そうなの。あれ、菅原さん、お父さんを憎んでいたはずなのに、なんで?」
大塚は驚いたような甲高い声を出した。心底驚いたようだった。
そのとき、社長室に大友が入ってきた。山のような資料を抱えている。
「大塚社長! 菅原のヤツ、役員報酬をそっくりそのまま自分の口座に突っ込んでいたそうです。一番上の資料が証拠ですのでお読みください」
大友はそう言うと、ペコペコと頭を下げながら資料を机に置き、すぐに出ていった。大塚は一番上の資料を読み始めると、顔を歪めて、震える手でポケットからマルボロを取り出した。
「落ち着きたいので、タバコを吸います。とにかく、この会社は腐っている。役員も総入れ替えしましょう。もちろん、高橋さんも退任してもらいます。榎本さんは契約社員でしたが、社長に一番近い人でしたし、消えてもらいます。本日付けで契約終了です」
ついにクビ。目の前が暗転した。
莉久は冷静な口調で大塚に向かって言った。
「いいですよ。役員報酬がなくなっても、働いてお金を稼ぎます。大塚さんのことはもう知りません。それより、翔はどこです? 知りませんか?」
「知りません。これは本当です。探すならあんたらが勝手にやってほしいです。私たち、子会社の元社長でも、使えなくなったクズには関心がないので。ああ、そういえば、あんたら、捕まりたくないでしょ? 警察に捜索願を出さない方がいいと思いますよ? まだ、愛宕山の件も、本当に落ち着いたどうか、わからないですし」
大塚は、ライターで火をつけたマルボロを口に咥えた。息を吸った大塚は、やや気だるげに煙を吐き出した。
「まあ、いいでしょう。これから、死体を捨てるのは他の人に任せます。菅原さんにまだ払っていない報酬は、ここであんたらに渡します。この報酬は、手切れ金も兼ねています。私たちからあんたらを裁判所へ訴えたり警察に通報したりすることはしません」
大塚はカバンから札束を取り出した。
「ほら、これを受け取って、今すぐここから出ていけ!」
大塚は叫ぶと札束を机に叩きつけた。
「莉久、行くぞ。これからのことは、家に帰って考えよう」
「そうね、行きましょう」
右手で札束を、左手で莉久の腕を掴み、社長室を出ていった。壁にかかるスガワラ王国の憲法にはドライバーが突き刺さり、その隣には新しい憲法が掲げられていた。文章は手書きで、大塚の神経質で細く、形が歪んだ字で書かれている。
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新スガワラ王国憲法
修正前文
スガワラ王国臣民は、自由意志に基づく契約のもと、スガワラ王国の一員となり、憎むべき菅原翔が腐敗させたスガワラ王国を、全力を挙げて再建することを決意し、この憲法を確定する。
第一章 国王
修正第一条 スガワラ王国は菅原翔を追放したたうえで、一切の主権を剥奪する。スガワラ王国の運営は、日本国のオオツカ・ミライ株式会社の指導と監督のもと行われる。
修正第二条 スガワラ王国はオオツカ・ミライ株式会社代表取締役社長・大塚レオを国王とする。みんな大好き、国王陛下。
修正第三条 国王は地位の贈与、売買を一切しないものとする。また、臣民も、地位の贈与、売買をしてはならない。
……
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莉久を連れて一階に立ち寄る。公式グッズコーナーは、普段通りに営業していた。グッズを買いに来る「臣民」は、名刺やアクリルキーホルダーを眺めながら楽しそうに喋っている。王国の国王が追い出されたが、臣民は全く気づかず、いつも通り暮らしている。
駐車場へ出ると、みぞれが激しく降っている。急いでキャストに乗った。
「スガワラ王国が大塚に乗っ取られた。これって正真正銘のクーデターだよ」
「クーデターとは違うよ。もともと、スガワラ王国はもともとオオツカ・ミライの操り人形。最初から、この王国の国王は大塚だったのよ」
莉久は切り捨てるように言うと、プッシュボタンを押し、ワイパーのスイッチを一番下まで下げた。
「これからどうする?」
「なんとかなるさ」
「ホント、高校のときから奏太って、大事なところで適当になるよね。私が文芸部で、太宰の『お伽草子』を貸したの、ゼッタイ忘れてそう」
「あれ、そんなことあったの?」
「あったの。貸したものを返さない奏太にうんざりしたから、翔と付き合いだしたの。まあ、いまさらどうでもいいけど」
莉久は不意に笑った。頬を少しあからめている。心の底から可愛いと思った。
そのとき、コンソールボックスにある莉久のスマホが鳴り出した。
「あ、着信だ。ん、マネージャー? なんでだろ……。もしもし? はい、RIKUです。お疲れ様です。どうしましたか。え、これから東京……?」
莉久の声が弾む。雨粒がガラスに叩きつけられ。ワイパーがガラスに擦れる摩擦音が車内に鳴り響く。
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