第8話

 一限目の講義が始まる。建物の一階、小教室へいくと、コミュニケーション学科の一年生がそろっていた。欠席が多いと単位をもらえないので、みな、真面目に出席をしていた。大半は寝ていた。寝ている学生は起こさないことにしているし、成績も甘くつけている。生活費を稼ぐため、毎日夜遅くまでバイト漬けなのだ。問題は、起きている方の学生だ。堂々とスマホをいじっている。こういうヤツに限って、実家が金持ちで、バイトをしていないし、遊んでばっかりなのだ。同情する余地がない。

 今日は学校の要望で、現代社会を教えることになっている。

「そしたら、今日はアメリカの政治の仕組みをやるぞ。プリントを配るから、後ろに回せー。それと、なんか質問あるかー?」

「ねえ、榎本。今度、アメリカに行くんだけど、アリアナ・グランデってホワイトハウスに住んでいるの?」

 教卓の目の前の席から、結亜が話しかけてきた。これぐらいの勘違いは日常茶飯事だから気にしないし、呼び捨てされるのにも慣れているから、叱らない。

「ホワイトハウスにはな、大統領が住んでいる。アメリカで一番偉い人だぞ」

「それなら、アリアナ・グランデじゃん。一番偉いんじゃないの?」

「おいおい、どうしてそう思うんだ?」

「え、だって、私がそう思うからそうじゃないの?」

 結亜は真剣に言い放った。さすがに頭を抱えそうになった。結亜は、自分の興味のあることしか学習しようとしない。非論理的で、主観だけで生きている。

 だが、俺は結亜のことを、一番気に入っている。講義に最前列で参加しようとする姿勢があるだけ、この学科で一番の優等生だからだ。

 結亜の後ろの席で、男子学生の半田と奈良坂が、喧嘩をし始めた。

「ハルトの髪の毛、キモい色してんな」

「バカ、うるせえ。つーかお前、早く金を返せよ」

「はあ? キモい奴に何言われても平気だし。バカ、死ね」

 二人はお互いに小突きあっていた。二匹の犬がじゃれあっているようだった。失望はしていない。そもそも、こんな学生たちに最初から望みなんて持てない。無意味だ。なんのために、教えなければならないんだろう。やるせなさに、腸が煮えくり返りそうになる。

 それでも、金を稼ぐためだ。耐えなければ。

「それじゃあ、プリントの説明をするぞ。まず、アメリカって国がどうやってできたかだな……」

 そう言った瞬間、何かが頭に当たった。振り返ると、紙飛行機が落ちていた。拾い上げる。ついさっき配ったばかりの、プリントで作られていた。

 心の中で、何か糸のようなものが切れた。限界だった。今まで溜めていた我慢を縛り付けていた、その糸が切れたのかもしれない。この紙飛行機で、これまでの自分の苦労が全部無駄にされた気がした。腹が立つ。きちんと、学生たちを叱らなければならない。そう、心の底から感じた。

 顔を上げて、学生たちをじっと見渡す。学生たちが、一気に黙り込む。

 ゆっくり、丁寧に、話しかける。

「……てめえら、紙飛行機を作って遊ぶ暇があったら、もう少し、将来を真剣に考えろよ。もう大学生だろ? 周り、見てみろよ。寝ている奴らはさ、何百万って奨学金を抱えて、この学校へ来ているんだぞ。ずっとバイト漬けで疲れている。俺が寝ているヤツらを見逃しているの、そういう理由なんだからな? 起きているヤツらのなかに、金借りてここに来ているヤツ、いねえよな? なあら、本気で何をやりたいか、てめえらの頭で考えて、行動しろよ」

 学生たちの顔面が、一気に青くなる。

「……まあ、先生も、他人に言えた身分じゃないけどさ。でも、その歳でやりたいことすらないヤツって、正直言うと、救いようのないクズだよ」

 黒板の方を向き、チョークで丁寧に文字を書く。自分で言った言葉が、そのまま跳ね返る。俺も、救いようのないクズだ。やりたいことがなく、腐って生きていて、翔に依存しないと生きていけない。クソ!

 講義が終わるまで、教室はずっと静まり返っていた。


 非常勤講師室に戻る。その後は、席に戻り、講義用のプリントや、就活指導用の資料を作ったり、他の学科で講義したりして、一日が終わった。

 夕方、家に帰るため、講師室から出る。廊下は、暗く赤い夕陽に照らされているせいで、ひどく不気味だった。通用口へ向かう、足取りが重くなる。週二日、フルタイムで働いて給料は六万円強。翔の会社は固定給で手取り八万円。家賃を払って光熱費と食費を払えば、残りは微々たる金額。どちらかの仕事がなくなれば、途端に生活が成り立たなくなる。

 大学での意味のない仕事。結果を出せても、都合が悪ければ、クビ。金の奴隷になりさがっている。学校と、翔に、金のため、こきつかわれている。

 辛い。だが、ブロン錠をキメれば、忘れられる。早く飲みたい。バッグの中からブロン錠の瓶を取り出して開けようとすると、結亜の声が聞こえてきた。

「あ、榎本! ちょっと手伝って!」

 慌てて瓶をしまい、声のした方に顔を向けると、結亜は大きな寸胴鍋を持って歩いていた。

「結亜、なにやってるんだ?」

 驚きすぎて、間の抜けた声で話しかけてしまった。

「わたし、料理サークルに入ってるじゃん? で、『みんなでラーメンを作りたい』って話になったから、買ってきたんだよ」

 鍋を持つ結亜の手が、ぷるぷると震える。結亜に近づいて、鍋を持つ。ずしり、と重さが伝わった。

「うわ、お前、これ何キロあるんだよ」

「十二キロって言ってたかなあ」

 結亜が買ってきたのに、まるで他人事のように言い放った。

「なんで他人事のように言うんだよ。ほら、手伝うから、どこまで行けばいいんだ?」

「サークル棟までもっていって。榎本、ありがと」

 生意気な結亜が珍しく感謝の言葉を放つ。なぜだか嬉しくなる。そのまま、二人で寸胴鍋を運んでいった。

「なあ、結亜。今度、ラーメン食べさせてよ」

「うん、いいよ。榎本っ」

 何の屈託もなく笑った。夕陽が沈みかけ、空はだんだんと、深い青に染まる。

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