第7話

 次の朝、リクルートスーツを着て、鏡を見ながらひげを剃るが、なかなか剃れない。ひげ剃り器の刃を見ると、ところどころ欠けていた。刃を買い換えようかなと思ったその瞬間、玄関から、ドアが勢いよく開く音がした。

「ただいま。撮影会、マジでよかった!」

 莉久が甲高い声を出しながら、洗面台にやってきた。撮影会を終えて、会津から帰って来たのだ。莉久は満面の笑みでスマホの画面を見せつけてきた。人気アニメキャラのコスプレをした莉久は、会津・磐梯高原の真っ白な雪原で、全身を赤くぴったりした服を着ながら、長さ二メートル弱の赤い二又の槍を天に突き出していた。

「どう、私、いいでしょ?」

 莉久が聞いてきた。手元の袋は、異様に長い袋。おそらく、槍が入っているのだろう。

「うん、いいね。カッコいいし、しかもとっても可愛いよ」

 ふと、言葉が出てしまった。恥ずかしくなる。莉久の顔が、一気に赤く染まった。言い終わった瞬間、心の底から悶えた。

「い、いや。違うんだよ。莉久のコスプレが可愛いってことで、別に変な意味じゃないよ?」

 莉久は、じっと俺を見ていた。目が潤んでいる。莉久が不意に体を寄せてきた。

 そのとき、翔が大声を出しながらやってきた。

「おい、バカども! この前の仕事、給料をやるぞ。一人、二〇万円だ。ほら、さっさと受け取れ!」

 翔は、持っている二つの汚い茶封筒で莉久と俺の頭を叩いた。ふざけるんじゃねえ。悔しい。だが、このお金がないと生きていけないのだ。莉久は、じっと翔を睨みつけていた。

 翔は封筒を床に叩き捨てた。封筒を拾い上げ、中を見る。札束だ。数えると、確かに二〇万円が入っていた。

 翔を見上げる。ブライトネイビーのスーツから自信が漂う。

「お、そういえば、約束通り、大塚さんからMDMAをもらったぞ。夜、一緒にヤるか」

 翔は無邪気に笑った。

 結局、翔は心が壊れているのだ。翔だけじゃない。ここにいる三人、全員が壊れている。俺は両親の事故死で壊れて院を中退、莉久は父の病死で壊れて東北大学を中退。翔は新卒で入社したネット回線の訪問販売会社で、上司に殴る蹴るパワハラを受けて壊れて退職。そして、世の中には、壊れた人間が勝手に集まって、傷を舐め合う場所がある。この土樋のマンションがまさにそれだった。


 地下鉄に乗りながら、惰性でYouTubeを見る。ふざけた動画をずっと見ていると、将来の不安を考えなくて済むのだ。

 会社と逆方向に向かっている。家庭教師の派遣会社から紹介をされて、週二日で私立大学の非常勤講師をしているのだ。話を受けたとき、学士しか持っていない俺が大学生を教えていいのかと最初はとまどったが、実際に教え始めて理解した。授業内容が、中学校に毛が生えたレベルなのだ。予備校の講師のほうがよっぽど高度なことを教えている。

 ビジネスバッグの中には講義に使う中学生向けの漢字ドリルが入っている。ここの学生の学力はひどく、自分の名前すら漢字で書けない学生も多い。はっきり言って、底辺だ。『源氏物語』や『伊勢物語』を教えるより、漢字を教える方が先だし、役に立つ。学生からも、「先生のおかげできちんと名前が漢字で書けるようになった!」と感謝されたこともある。

 たまに真面目な学生もいる。劣悪な環境に生まれ育ち、力が発揮できないだけだ。とにかく、教育に対する親の理解が圧倒的に足りていない。ひどい学生の場合だと、親が「子どもを大学に出したら奨学金を借りられる」と考え、子どもに数百万円の奨学金を借りさせ、その奨学金のほとんどを親が巻き上げてパチンコや風俗に費やした例もある。その学生は、すぐ退学し、いまでは行方がわからない。

 だが、もしその学生が社会へ復帰できたとしても、はたしていい人生を送れるのだろうかと心配になる。思春期の終わりに大切な人生を深く傷つけられた人間は、社会的に復帰したり成功して評価されたりするだけでは、到底癒やされない。俺達は仲間同士で傷を舐め合って、ごまかそうとしている。だが、そんな仲間もいない人間は、救われるために何かを追い求めたあげく、他人を傷つける。大塚がまさにそのタイプだった。実家の書店がネット通販サイトにおされて倒産し、両親と弟が無理心中。残された大塚は必死に、金、暴力、快楽を必死に求めている。そして、邪魔をする人間は容赦なく潰す。おそらく末路は、孤独、破滅、悲劇。哀れだ。


 黒松駅で降りて、住宅街を少し歩くと、オレンジ色の建物がいくつも見えてきた。仙台文芸大学のキャンパスだ。職場は、その地域環境学部だ。

 キャンパスは細い道路を挟んで、東西に分かれている。東キャンパスはリハビリテーション学部があり、西キャンパスは、経済学部、地域環境学部、付属高校が建つ。学生は、希望も目標もなく、ただ人生を生きているようなタイプが多い。

 西キャンパスのメイン通りを歩く。経済学部の建物が目に入る。翔はここの経済学部を出ている。母校の高校からこの大学に進学する人間は、十年に一度のひどい落ちこぼれだ。しかも、翔は推薦入学すらできなかったから、この大学に裏口入学した。翔の父が東北大学医学部の教授で、リハビリテーション学部に人脈があったから、温情で入れてもらったのだ。

 地域環境学部の校舎に着く。狭くて小さい職員通用口から入ってしばらく進むと、小さなドアがある。黄色でところどころ欠けたテプラで「非常勤講師室」と貼ってある。ここが、居室だ。

 ドアを開ける。暗い部屋がいくつものパーテーションに仕切られていて、講師たちの机が置かれていた。ふと、愛宕山のキノコ部屋に似ていると思った。

 机には、小学生、中学生、高校生向けの教材が山のように積んである。

 脇にある小さな給湯室の洗い場で手を洗った後、部屋の奥へ進みながら、講師たちを横目で見る。みな、うつむきながら、神経質そうに黙々とノートに書きこんでいたり、教科書へ付箋を貼りつけたりしていた。

 奥の席について、荷物を下ろす。ここが、自分の席だ。ここで働いて二年半、一番の古参。コミュニケーション学科の運営にも参加し、学生の就活指導の補助もしている。

 手前の空席は、もともと佐藤という四十代の英語講師がいた。二番目に古参だったが、先週クビになった。教え方がうまく、学生に人気だったが「学校の経営戦略の都合」という曖昧な理由で解雇された。本当の理由は、まったく知らされていない。クビにする理由は、必ずごまかされる。自分も、いつクビになるか、わからない。この非常勤講師室は、不安が常に充ちている。

 空席の椅子の下に、名刺が一枚落ちていた。拾い上げると、佐藤の名前の上に、「スガワラ王国 王立大学 文学部教授」と書かれていた。王立大学の教授の肩書を買った人だけが買える名刺。一〇〇枚で五〇〇〇円だ。スガワラ王国のなかだけでも、学者になりたかったのかもしれない。そっと椅子の下に名刺を戻した。

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