第2話

 目が覚める。気分がどんよりと沈む。背中がびっしょりと濡れている。汗をかいたようだ。ブロンを飲んだ後はいつもこうなる。起き上がろうと身体を起こすと、あちこちが痛い。キッチンの床にそのまま寝ていたようだった。痛みが走る腰をかばい、ゆっくり歩いてリビングへ行く。

 翔はヘッドセットをつけて、パソコンへ向かって喋っていた。画面を覗く。オンライン会議をしているようだった。東海地方での売上が落ち込んでいて、翔は経理部長の阿部へ原因を分析するよう指示を飛ばしていた。その横で莉久は、その横でブルーのロングウイッグを丁寧にブラシで梳かしていた。ウィッグスタンドの脇に、ボロボロの文庫本が転がっている。

「莉久、それってなんの本?」

「ん? 太宰の『惜別』。久しぶりに小説を読んでるの。仙台が舞台なんだよ?」

「へー、そうなんだ。そういや、お前、昔から太宰が好きだったよなあ。文芸部にいたときもずっと読んでいた気がする」

「……よく覚えてたじゃん。見直した。なんか、嬉しい」

 莉久の声が、妙に弾んで聞こえた。

 すると突然、翔がヘッドセットを外しながら会話に割り込んできた。

「お前、太宰なんて読むのかよ。バカじゃねえの」

 翔はベルトを外して、莉久を押し倒しながら言った。

「え、やだ、やめて。明日から会津で撮影があるんだけど。忙しいの」

 莉久は本気で嫌がっていた。莉久は東北大学理学部を中退後、コスプレイヤーとして活動して人気を得ていて、Twitterのアカウント「RIKU」のフォロワー数は優に十万を超えている。だが、翔は莉久がコスプレイヤーとして活動するのが気に食わないらしく、株式会社『スガワラ王国』として黙認。莉久も、「RIKU」名義で活動するときはスガワラ王国について一言も触れない。

「嫌ならキャンセルすれば? 撮影前にメンヘラを起こして、いっつもドタキャンするくせに、なにいまさら真面目ぶってるの?」

 翔が嫌味ったらしく言った。

「あんた、うるさい。わたしの邪魔をしないで」

 莉久ははっきり言ったが、いつの間にか上半身を裸にした翔は無視して、長くて骨太な指を莉久の小さな口へ突っ込んだ。

 翔がこちらをじっと見る。その瞳はどす黒く、底が見えない。ふと、鳥肌が立った。

 翔が指をねじこみながら、莉久へ笑いかける。莉久を嘲笑っているようだが、ろれつが回っていない。目が異様にギラギラと輝いていた。

 翔が妬ましい。地元から一歩も出ないくせに、人生がうまくいっている。許せない。

 心の中で翔を侮蔑し、リビングを出て、寝室へ入る。デスク脇の壁に、貼り付けた大学の学位記。本棚の隅には卒業論文と、学術誌へ投稿するはずだった書きかけの論文。みんな、過去の栄光。

 本当は、古典文学の研究者になりたかった。高校卒業後に上京して、古典文学の研究で有名な國學院大學に入り、必死に努力した。ゼミの指導教官に認められ、「教授になって跡を継いでくれ」と言われたときは本当に嬉しかった。なのに、大学院へ進学した途端、両親が突然、交通事故で死んで、精神的におかしくなった。あの頃は、ほとんど記憶がない。薬に手を出したのもその頃だった。研究がまともにできなくなり、休学してそのまま退学。地元に帰って、学校の非常勤講師や家庭教師をして食いつないでいたが、給料が低い。翔に誘われ、社長室の仕事をかけもちでやっているが、実態は翔のかばん持ち。

 こんなはずじゃなかった。悔しい。

 家庭教師は不安定だ。明日の収入も雇用も約束されない。到底食べていけない。翔の会社の給料に頼らないと、まともに生活できない。自分が翔へ経済的に依存しいることぐらい、わかっている。

「おい、奏太。どうした」

 翔が呼びかけてきた。そのまま、寝室へ入ってきやがった。

「うるせえ。黙れ」

 強がって返事した。翔の顔は少し驚いているようだった。

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