あざなえる縄

月井 忠

第1話

「やっぱりか」

 俺は受験票を握ったまま膝から崩れ落ちた。


 今までの努力を考えると立ち上がる気力も残されていない。


「そうか」

 田崎が後ろで残念そうな声を出す。


「お前は?」

 振り返って聞くと、田崎はバツの悪そうな顔をした。


 膝を起こして、なんとか立ち上がる。


「おめでとう」

 そんな気分ではないが、田崎の肩に手を添えた。


「ありがとう」

 田崎の表情はなんとも微妙なものだった。


 顔の右半分で自身の合格を喜び、左半分で俺のことを気遣う、そんな顔だった。


 田崎とは国内トップクラスの大学に行こうと互いに競い合っていた。


 受験の日、俺はそんな大事な日に体調を崩した。

 試験は受けたが、朦朧とする意識の中、答案用紙の半分も埋めることができなかった。


 田崎が勝ち、俺が負けた。


 浪人して田崎の後輩になるという選択肢はなかった。




 俺は滑り止めで合格していた大学に通うことになる。

 ランクは間違いなく落ちた。


 しかし、これは俺にとって幸運だったのかもしれない。

 大学の友達は俺のことを秀才と呼んでもてはやした。


 もちろん、皮肉が込められていただろうが、心地よい気分もあった。

 だからこそ、俺は田崎との関係を続けた。


 負けを意識し、上には上がいることを実感するために。


 田崎は嫌な奴だった。


 一緒に飲むときには決まって大学の講義の内容を話した。

 時折、見下すような目も向ける。


 それでも、俺は田崎との関係を続けた。




 俺は結婚し家庭を築き、幸せな日々を送っていた。

 そんな時、田崎から連絡があった。


 どうしても話しておきたいことがあるとのことだった。


 飲み屋で落ち合い、一杯目を傾けるなり田崎は頭を下げた。


「すまない」

「何だ、急に」


「その……受験のことだ」


 ぽつりぽつりと田崎は話し始める。


 なんでも田崎は受験の日、俺に一服盛ったということだった。

 あの目眩は薬のせいだったということだ。


「すまない」

「……ああ」


 俺は曖昧に答えた。

 正直、そんな昔のことは田崎に言われるまで忘れていた。


 そして、田崎が後生大事にその悪事を後悔していたのも驚きだった。


 いや、違うな。

 この男は謝罪することで、自分の優位を確認したかったのだろう。


 田崎は大学卒業後、官庁に就職した。


 大学でもそうだっただろうが、勤め先では更に優秀な人材が集まってくる。

 この男は自分の上に、もっと優秀な人間がいることを知って、下を見たくなったのだろう。


 自分が貶め、人生を狂わせてしまった相手の悲惨な人生を見て、自分の優位を確認する。


 頭を下げたままの田崎からは、そんな匂いがした。


「頭を上げろよ」

 俺はあえて朗らかに言う。


「許してくれるか」

「ああ」


 面倒なので適当に合わせる。




 飲み屋を出て田崎と別れた。


 後ろ姿が見えなくなったところでスマホを取り出し、田崎のアドレスを消す。

 もう会うことはないだろう。


 そもそも勝ち負けってなんだ?


 俺は負けていたのか?


 少なくとも田崎のように、上とか下にこだわると不幸だろうということはわかった。


 では俺は幸福か?


 そこにこだわっても上か下かと大差ない。


 俺は考えるのが面倒になった。


 とりあえず、明日のことを考えよう。

 田崎と飲むことと引き換えに、明日の家事は全て俺がやることになった。


 この飲み会にそんな価値はなかった。


 今は妻の機嫌をどうやって取るかが問題だ。

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あざなえる縄 月井 忠 @TKTDS

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