幕間

幕間×雪国×鬼

 大陸を東西に分断する霧の深い山脈の北側に広がる雪国の名猟師の娘として、ヒアモリはこの世に生を受けた。

 彼女は父が大好きだった。

 真剣なまなざしで作業台に付き、一発一発、自らが使う猟銃の弾丸を作り上げていく手さばきを見るのが楽しみだった。


「銃口から硝煙が上がり、獣の命を奪う。そうして俺たちは生計を立てる。だから銃弾一発一発には、命の重みが込められていることを、忘れてはいけない」


 ヒアモリの父は猟をするときに、決してスコープを使わなかった。

 銃口を向け、引き金を引くときは、自分自身の目で相手を見て目をそらさない。

 それが猟師としての、彼の矜持だった。


「命も、未来も、この弾丸が奪う。だから、忘れてはいけない。そのために、ひとつひとつ、精魂込めて作り上げるんだ」


 弾丸を構成する薬莢やっきょう真鍮しんちゅうの匂いと、そこに込められた炸薬の匂い。

 雷管を叩かれなければただの小さな筒。

 ちっぽけなそれが奪う命の重みを、ヒアモリはまだ知らなかった。


 それを知るようになったのは、彼女自身が、それを背負うようになってからのこと。


 ――扉が重いものに叩かれたように跳ねて、重い音を響かせた。


 びくりと身を震えさせた。

 父の動きは滑らかで、迷いは一切なかった。


「誰だ」


 丁寧に手入れされた猟銃を掴み上げると、彼は弾丸を込め、後ろにヒアモリを庇って、扉へと近づいた。

 扉からは何の声も帰ってこない。


 代わりに、濃厚な、鉄の匂いがする。

 死をまとったその香りが何か、ヒアモリは知っていた。

 血だ。


「誰だと言っている」


 先ほどより緊張を声に含ませて、父は改めて扉へと近づいた。


 今度は、返事が返ってきた。

 ただし人語ではなく、やはり扉を、重たいもので叩くようにして、だ。


 会話が成り立つ相手ではないらしい。

 だが、言葉が通じない相手でもないらしい。


「ここにいろ」


 ヒアモリの父はいざという時のために彼女を作業棚の陰に隠すと、ドアノブへと手を掛けた。


 それから、一息で扉を開けると、すぐさま銃口を扉の向こうにいる何かへと向けた。


 そして目を見開いた。


 扉の向こうにいた何かは血だらけで、扉にもたれかかっていたようで、戸を開いたと同時にぐったりとその場に倒れ込んだからだ。


「お、おい、なにがあったんだ⁉」


 ヒアモリが恐怖に瞳孔を細めながら作業棚越しに入口へと視線を向ける。

 血なまぐさい鉄の匂いを放つ男はヒアモリの父の猟師仲間だった。

 だが、彼には昨日まであって、いまは無いものがあった。


 右腕だ。

 彼の右側に生えていたはずの腕が、肩から、跡形もなく消滅している。

 鉄臭い血の匂いはそれが原因だった。


「……ぁ」

「なんだ、何を伝えている」


 男は残った左腕でヒアモリの父の襟をつかむと、力なく引き寄せた。

 かすれた声を放つ口元へ向けて、ヒアモリの父も耳を近づける。


 二人のやり取りは、彼女に聞こえなかった。

 ただわかったのは、それが男の遺言であり、最期の言葉だったこと。

 それから、言い切った彼が、満足したように眠りについて、二度と目覚めることが無かったことだけだ。


「な、なにがあったの?」


 人が死ぬ瞬間というのは、もっと、劇的なものだと思っていた。

 だから、あまりにもあっさりした終わりに、ヒアモリの心は追いつかなかった。


「鬼が出た」


 彼女の父は言った。


「鬼? 鬼って何?」

「人を殺す物の怪だ」


 外套を取り、長靴を取り出す父が、狩りに向かうのだと、父のことが好きなヒアモリにはわかった。


「待って、行かないでよ。猟は明日だから、今日は一緒にいてくれるって言ったじゃん!」

「すまんヒアモリ。鬼を放っておけば、より多くの人が死ぬやもしれん。だから」

「お父さん、死んじゃうよ! やだよ!」


 必死に縋るヒアモリの頭に、手が乗せられた。

 ごつごつと分厚い皮で、心が温かくなる手だ。


「必ず帰る。お前を置いて死にやしないさ」

「……本当?」

「ああ、本当だとも。約束する」


 だけど彼は、二日たって、三日たっても帰ってこなかった。


 嘘つき。


 日が昇って、日が下りて、また昇ってくるまでの時間が、永遠に思えるほど長い。

 心が擦り切れそうだ。


 早く、帰ってきてよ。


 そんな彼女の思いが天に届いたのか。


「ヒアモリちゃん! お父さんが帰ってきたよ!」

「本当⁉」

「ああ、何があったのかを話すから、みんなを広場に集めてくれってさ! ヒアモリちゃんも行くかい?」

「うん!」


 頭はすごく眠たくて、だけど一向に眠れない夜だった。

 扉の外には雪が積もっていたので、外套を身に着け、長靴をはいて、駆けだした。


(やっぱり、嘘つきなんかじゃない! 帰ってきてくれたんだ! お父さんは、ヒーローだ!)


 背丈の低いヒアモリにはひざ丈まである雪だった。

 前を行くおばさんがかき分けてくれた跡を辿り、急いで広場へと向かった。


 銃声が響いたのは、その道中のことだった。


(なに? いまの音)


 嫌な胸騒ぎがした。


(何が起きてるの、広場で)


 銃声が鳴り響く。

 何度も、何度も、人々の叫び声を切り裂いて、深々と降り積もる雪の静寂をかき消してしまう。


 冷気で赤らむ鼻が痛い。

 吐き出す呼気がやけに白い。


 ようやくたどり着いた、街灯に照らされる広場。

 そこに、惨劇は広がっていた。


「お父、さん?」


 広場に転がる数人の死体。

 その中心に、ヒアモリのよく知る男がいた。


 いや、その表現は適切ではない。


(違う、お父さんじゃない! お父さんは、こんなことをしない!)


 彼女の父親は、命の重みを繰り返し彼女に説いていた。

 そんな人物がこんな虐殺を行うはずがない。


「ヒ、アモリ」


 苦しそうな声で、男が言う。


「逃げろ!」


 乾いた銃声が鳴り響き、鮮血が散った。

 隣に立っていたはずの叔母が、急に、雪へと倒れる。


「……え?」

「早く、俺がまた、意識を奪われてしまう前に」

「お父さん、何を言ってるの?」

「頼む、最期の、願いだから」


 最期の願い。

 その言葉を聞いたとき、ヒアモリの脳裏によみがえったのはあまりにあっけなく死んだ父の猟師仲間の顔だった。


「い、やだ」


 その願いを聞けば、父は死ぬ。

 理由は分からないが、そう思った。


「言うことを、聞き、なさい」

「いやだ! お父さんと一緒にいる!」

「来るな、来るんじゃない!」


 だけど、違った。

 願いは聞いても聞かなくても、お別れは決まっていた。


「……ごめんな、ヒアモリ」

「お父、さん?」


 解体用のナイフを取り出した父の手が首をかき切って、真っ赤な血しぶきが上がった。

 どろりと粘つく赤色が、ヒアモリの瞳に飛び散った。


 それから、ヒアモリはすべてを理解した。


(なに、これ……頭が、痛い)


 大量の情報が、暴力的にむりやり、彼女に詰め込まれた。


「う、ぁ、ぁあぁ」


 頭が割れそうな中、辛うじてわかったのは、これが父親の記憶だということ。

 いや、より正確に言えば。


(誰、誰なの)


 最初に流れ込んできた記憶が、彼女の父親の物だったことだ。


(ちが、知らない、こんなの、知らないっ!)


 何人もの人間の記憶が、幼い彼女の記憶に埋め込まれていく。

 ある、一つの感情とともに。


 その感情は耳元で彼女に囁く。


『殺せ』


 殺人衝動。

 それが、彼女に掛けられた呪いだった。


 いや、より正確に言うならば、ヒアモリの父が討伐した鬼の死に、最も深く関わった者全員にかけられる呪いだ。


 自らが死ぬ際、新たなる鬼の器に取りつく不死の鬼の名は牛鬼。


  ◇  ◇  ◇


「ん、夢か」


 人さと離れた、砂霧の深い荒野に住む少女がつぶやいた。

 彼女の名前はヒアモリ。


「最近はずっと見ていなかったのに、どうして」


 当代の、牛鬼の器である。

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