第5話 純文学は技術ではなく魂で書く?


 Twitterだか、どっかしらで見かけたことが文言である。純文学は技術ではなく魂で書く。確か分類の話だったような・・純文学の定義ってなに?という話。


 学術的には明確な判断基準があるのかもしれないが、私は純文学かどうかの判断は個人の感覚に基づいて決まると思っている。読んだ人がどう思うか、ああこれは純文学だなあ、ああこれはエンタメ小説だなあと。

 私は芥川賞を獲った作品は純文学だなあと勝手に思ったりしている。最近はブックカフェが広まって、新刊を買う経済力がなくとも賞を獲った作品を読めて嬉しい。


 さて、魂で書かれた純文学を読んでいると思うことがある。魂とは人の感情の荒波や恐ろしい場の空気の流れ、美しさだとして。それって本来言葉では表せないものである。それを書いてみせるものに、技術が必要ないわけがないだろう。


 私も本当は魂を書きたい。しかし、始めから終わりまでまるっと書き上げようとすると、結局魂は欠片だけそっと登場するだけで、ストーリー展開に隠れてしまう。熱い気持ちだけが先行して、人に読ませるものとして成立しているか?と段々物語全体が勢いだけでは成立しなくなって歪んでいく。そして頓挫する。


 最近の試みは、オチや展開の正しさに意識を向けない小説の書きかたである。これがいわゆる、技術を用いないという話なのかもしれない。卵を落としたら殻が割れる、昇った太陽は必ず沈む。そんな風に物語が始まって終わってしまっていいではないかと思ったのだ。


 先日不眠の夜明けに芥川龍之介の『羅生門』を読んだ。気まぐれで買った短編集の先頭が羅生門だったのだ。国語の授業以来初めて真剣に読んだ。わははは、怖くてスタイリッシュで面白い。「物語る」感覚を得られれば、魂を書くことができる気がしてきた。

 所詮空想なのだ、何がどう変化しても、それを文章で説明して読み手が理解できれば良い。もっともっと自由になろう。

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