第10話 イエンウィアの夢

 気配を悟られぬようゆっくり顔を近づけると、ふいに、イエンウィアが目を開けました。寝込みを襲おうとしていたのですから、これはさすがに激怒されると思って、私もビクリとしたわ。


 でもイエンウィアは私の顔をぼんやりとした目で見ると、ふんわり微笑んできたのです。


「……ああ、レクミラ。今日は遅くなるので先に寝ていてくれ」


 あらまあ。と私、とても驚きました。


 イエンウィアは寝ぼけて夢と現実が混ざっているようでしたけれど、その夢というのが、まさか私と夫婦になっている夢だったとは。


 私と同じような夢を見てくれた事がとても嬉しかったけれど、私、それ以上に可笑しくて。笑いだしそうになるのを必死に堪えましたわ。そして私は、イエンウィアに微笑み、妻らしく答えました。


「承知しましたわ。旦那様」


 そしてわたしは妻らしく――そうよ、あくまで妻らしくね。堂々とイエンウィアの首に腕を回して、深く口づけしました。


 寝ぼけてくれていたのが幸いして、イエンウィアは私が口づけても拒みませんでした。それどころか、首や顎に手を添えて歓迎してくれたのよ。いつもはあんなに嫌がっていたくせにね、おかしな人でしょ。

 イエンウィアがつけている乳香の爽やかな香りがしたのは、忘れられないわ。


 さて、夫婦ごっこのキスを楽しみたいのは山々だったのですけれど、私には、イエンウィアが寝ぼけてくれているうちに、やらなければならない最重要事項がありました。イエンウィアが食べた昼食を探るという課題です。


 子供みたいに食べっぱなしでいてくれてたらもっと分りやすかったのかもしれませんけれど、イエンウィアは水できちんと口をすすいだようで、なかなか味の判定には難しいものがありました。

 けれど先に申し上げた通り、私、料理上手なものですから、味覚もするどいのです。注意してよく味わえば、判別できないほどではありませんでした。


 まず全体に僅かな塩気。次にバターの香りがしました。それから卵。タイムの香りも少しあったかしら。口角近くは、蜂蜜の味がしました。上唇の上の方で、イチジクの味も微かに感じました。それからビールの風味の奥に、何かこってりと甘い味と深い香りがしたのです。その甘味がなかなか特定できなくて、少し困りました。

 その上、寝ぼけて積極的になっているイエンウィアが唇と舌でしきりに私の舌を捕まえようとしてきていたもので。余計に難しかったのです。



「はい」


 突然、ジェトが手を上げた。

 レクミラはきょとんとしたが、話を中断させられた事に気分を害した様子はなく、「どうぞ」と発言を許可する。


「普通に聞けば、よかったんじゃないでしょうか」

 

 だよなあ、そうだよな!


 数名が目を見開いて、的確な意見をしたジェトを称賛の気持ちを込めて指さした。

 レクミラの行動に全員が強い違和感を覚えてはいたものの、レクミラの話し方があまりに自然だったので、うっかりそのまま流しかけていたのである。


 レクミラは「う~ん」と口元に指を添えて熟考した後、


「まあそこは、きちんと真偽のほどを確認するためにも? どうしても必要な? 必須作業? であったと思いますのよ」


 と、釈明した。

 だが、言葉尻の音調イントネーションが、所々おかしい。


「その疑問符は故意犯の証拠として判断していいんだな」


 いけしゃあしゃあとはいかなかったレクミラの釈明に、ジェトは”不可”の印を押した。

 レクミラは年下の少年の生意気な態度にも怒ることなく、楽しげに笑った。


「まああなた、皮肉の感性センスがイエンウィアと似ていて面白いこと」


「おい、センセイに似てるとさ。よかったじゃねえか」


 ジェトは先の魔物戦で、イエンウィアに人生相談のようなものをしていた。それをきっかに、ジェトとカカルはカエムワセトの従者になったのである。そして、ジェトがそのエピソードを戦争終結後にアーデスに話した事で、アーデスはジェトの前でイエンウィアを『先生』と呼ぶようになった。勿論、からかいである。


 イエンウィアに似ていると言われて悪い気はしないが、レクミラにそれを言われると感じ方はまた変わってくる。 


「素直に喜べねえわ」


 どうか自分はレクミラの様な女に出会いませんように、とジェトは心の中で祈った。



――そう。ええと、謎の甘味の正体でしたわね。


 最後に感じた甘味の正体が分らず、私は口をもぐもぐさせながら一生懸命その正体を探っていたのですけれど、もうイエンウィアの唇のどこにも味がしなくなってしまって。困っていたのです。

 

 なかなか舌を捕まえさせない私に、イエンウィアが吐息混じりの声で焦れったそうに私の名を呼んでくれたのですが――残念ながら、そこで彼も完全に目が覚めてしまったようで。時間切れ。


 ぴたりとキスをやめた彼は当然、私をひっぺがそうとしてきました。掌を返す如くね。

 でもどうしても最後の味の判別をしたかった私は、イエンウィアの顔を掴んで離されまいとしましたの。


「駄目よ! じっとして!」


 必死だったので思わず、弟を叱る時のように強い口調で言ってしまいましたわ。


 まさか叱られるとは思ってなかったのでしょうね。イエンウィアはただならぬ私の様子に、押しのけるのをぴたりとやめ、私の真剣な眼差しを正面から見据えました。

 そうね……毒蜘蛛や蜂が頭にたかっているから動くな、と言われた時のような……そんな感じの表情だったかしら。


「もう少しで全部分りそうなの」


 言った私に、イエンウィアは「はぁ?」と、素っ頓狂な声をあげました。まあ、すぐにまた私に口を塞がれて、何も喋れなくなったのだけど。

 先程の情熱的な口づけを返してくれた人と同一人物とは思えない嫌がりようでしたわ。

 でもなんとか、イエンウィアの前歯の裏に正解の味を見つけましたの。

 私は唇を離して歓喜しました。


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