第6話 卑猥な書物の真似をして

 その日、拝謁の間に入ったのは午前中の事でした。イエンウィアと昼過ぎに会うのは殆ど日課になっていたし、それまで少し時間があったから、私は気分転換を兼ねて、少し街をぶらつくことにしましたの。

 

 イエンウィアと出会ってからは、街の片隅で吟遊詩人が歌っている恋の歌をとても美しく感じたものだけれど、その時は流石に少しくすんで聞こえましたわ。

 

 歩いていると、たまたま露店で書物が売られているのを見つけました。

 その頃、テーベで話題になっている恋愛歌の書物があって、私も話に聞いて読んでみたいと思っていたので、露天商に、「テーベで話題の恋愛歌はありますか?」と訊ねました。そうしたら露天商は「その書物は先程売れてしまいました」って残念そうに首を振りました。

 諦めて去ろうとしたら、露天商がね、「でも、これもオススメですよ」ってパピルスを一枚渡して来たのです。「お嬢さんくらいのお年頃なら、こういったものも楽しいでしょう?」って。

 その時の露天商の顔と言ったら。かなりいかがわしかったわねぇ。

 

 パピルスを購入して、神殿の奥庭のいつもの場所に行った私は、階段に座ってさっそくそれを広げてみました。

 それは、売春宿を舞台にした風刺漫画でした。風俗宿で繰り広げられるドタバタ劇でしたけれど、内容はまあ、上品なものとは言えなかったわね。露天商がいかがわしい顔で勧めてきた理由が分りました。

 

 面白かったか面白くなかったか、と問われれば……面白かったわねぇ。だって、後ろにイエンウィアが立っていた事に気付かなかったくらい、夢中になっていたのですもの。


「神殿内ではこういった書物はお控えください」


 後ろから声をかけられて顔をあげると、イエンウィアがしかめ面で私を見下ろしていました。

 下品な書物を読んでいる所を見られてしまって内心焦っていたのですけれど、私、意外と面の皮が厚いといいますか、演技力には自信がありますの。


「誰もいないし、別に構わないじゃないの」


 平気な顔をして言い返した私に、イエンウィアは「まったく、図太いお人だ」とため息をつきました。


 いつの間にか、目の前に犬猫達がわらわらと集まっていました。イエンウィアはいつものように、残飯を乗せた皿を、犬や猫が後ろ足で立って待ちわびている中にそっと降ろしました。


 イエンウィアは、拝謁の間でのやり取りを話す気はなさそうでした。私もそれでいいと思いました。


 私にとってもイエンウィアにとっても、奥庭での時間は、冗談を言い合いながら世間話に興じるものになっていたので、あまり暗い気分になっちゃうような話題はちょっと……。勿論、本音も口にするし腹を割って話もするのだけど、いつでもどこでも自分の奥底をさらけだしてしまえるほど、私達の関係は熟れていなかったのだと思います。

 私も奥庭では強気に、そしてワガママになれました。イエンウィアも肩の力を抜いているようでしたし、あえて謁見の間で話したような、心を苦しくするやり取りはしたくなかったのです。


「神官さんもこういったものは見るでしょう?」


 いつものふざけた調子で、私はイエンウィアに語りかけました。

 男性神官は女性神官と違って、恋愛が禁止されてるわけではないでしょう? 一人に限ってですが、妻を持つことも可能だし。

 それに、これは私、後で知ることになるのですけれど、神殿内の性交渉を禁ずること。それから、性交渉後には沐浴を済ませてから神殿に入ること。といった開けっぴろげな決まりすらあるじゃないですか。


 とにかく、神官だといっても、禁欲的な生活をしているわけでないのは、私も存じていたのです。


「他の同僚が手にしているのは目にしたことがあるが、それは物語ではなくただの絵だったよ。物語調を好むのは、女性が多いのでは?」


 皿を並べ終えた彼は隣に座ると、私の手の中のパピルスを覗きこんで言いました。


「なんだ、お仲間のもしっかり見てるんじゃないの」

 

 硬派そうで意外にムッツリなところがあるのね、と可笑しくなりました。


 偶然見えただけだ、とイエンウィアはバツが悪そうな顔で言い訳したわ。

 そして彼は、こう続けたのです。


「私の上司は非常に手のかかるお人なもので、毎日の仕事だけで性も根も尽き果てるんだ」


 それから、


「他の事に労力を使う余裕はないのでね」


 とも。

 

 仕事人間を気取っている彼を、私は「お気の毒ね」と笑いました。

 憮然とした表情で、イエンウィアは「余計なお世話ですよ」と答えました。

 

 最初の、逃げられそうになっていた頃と比べたら、随分仲良くなったと思うでしょう? 口調も砕けたものになっていたし。こういった、お互い冗談を言い合える時間が本当に楽しくて愛おしかった。

 

 それでね、調子に乗った私は、ちょっと悪ふざけをしてしまったのね。

 ちょうどそのパピルスにキスをしている絵があったものだから、私もその絵と同じように、彼の口にこう――カプっと、かしら? かみついてやったのです。

 顔もちょうどいい位置にあったもので。

 しかも私があまりに自然にそれをやったものだから、イエンウィアも一瞬、何が起きたのか分らなかったのでしょうね。身じろぎ一つしなかったわ。

 

 唇を離した時に見えた彼の顔は、真っ赤でした。そうまるで、初心な少年みたいなね。

 それで私、これが彼の初めての経験だという事に気付いたのです。


「あら、もしかして初めてだった? ごめんなさい。その――いい歳みたいだから、もう終わってるだろうと思って」


 まだイエンウィアのちゃんとした年齢を教えてもらっていなかった私は、ちょっと失礼な謝り方をしました。


 勝手にキスした挙句、オジサン扱いした失礼きわまりない私の態度に、イエンウィアは閉口していました。

 でも、それほど怒っているようには見えなかったので、内心私は安心しました。

 それで、とりあえずここは穏便に済ましてもらおうと思って、あえて明るく笑ってこう言ったの。


「軽く噛み付いた程度のものだし、舌は入れてないんだから数には入れなくていいと――」


 言い終える前に、手で口を塞がれたわ。


「貴方だって頭でっかちなだけだろう。誤解を招くような発言はやめてくれ!」


 私の言い方がまずかったのか、更に真っ赤になりながら、イエンウィアは私を叱りました。

 とても気が動転していたのでしょうに、周りに聞こえるような大声を出さなかったのが、実に彼らしかったわ。


 白状しますと、イエンウィアの言うとおり、私も初めてだったのです。だからまあ、痛み分け? ――とは違いますね。私はとても楽しかったのだから。

 とにかく、動揺していたのは彼だけだったわ。


「もう、こういった書物はやめなさい」


 下品なパピルスを私からパッと奪い取ったイエンウィアが、年長者らしい口ぶりでそう言いました。


 そこで私、やっと気付いたのです。こんな下世話なもの、お家に持って帰れないわ、と。もし父に見つかろうものなら、大目玉だもの。


「どうしましょ。家に持って帰れないわ、こんなの」


 考え込む私に、イエンウィアは、いつもはどう処理しているのか訊いてきました。

 『いつも』って、ねえ。随分下品に見られたものだわと、気分を害した事を覚えています。


「こんなの買ったの初めてよ。私、そんなにムッツリスケベじゃないわ」


 膨れて言った私に、イエンウィアは神妙な顔で


「そうだな、貴方はあけすけだ」


 と返してきました。そして、自分が捨てておくから、とそのパピルスを預かってくれたのです。


 イエンウィアが仕事に戻る時刻になったので、私も帰る事にしました。

 でもね、せっかく素敵な思い出ができたのに、そのままで帰るなんて勿体ないじゃない? だから私、去り際にイエンウィアの顔を覗きこんで、わざと意地悪く笑って言ってやったのです。


「ご馳走さまでした」


 って。



 そこまで話し終えると、レクミラは「ふう」と満足げに息をついた。


 ライラは両手で顔を覆って、絨毯の上で悶絶している。

 相当ツボに入ったらしい。


「お前も免疫ねえもんな。可哀想に」


 言いつつアーデスは、憐みの視線をライラに送った。


「若いって素敵ね」


 レクミラは目の前に並ぶ二十歳にも満たない若者達を見まわし、楽しげに笑った。それから目を閉じ、ふっと息を吐く。


「本当に、楽しい時間だったわ。永遠に続いてくれたら、どんなによかったかしら」


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