第3話 祈祷後の供物

 それからも何度かプタハ神殿には足を運んだけれど、イエンウィアの姿は見えませんでした。それもそうよね。外側で働いている方々は下級の神官が殆どで、あの方は最高司祭の補佐役として、奥で業務に励んでいたのだもの。

 イエンウィアを下級神官の一人だと思い込んでいた私は、神殿に行くたびにあのとした長身と、草色のショールを探しました。

 再会できたところで、何を話そうなんて、ちっとも考えていなかったのだけれど。

 

 会話をする機会は、意外な所からやってきました。

 いつものようにお供物を供えて帰ろうとしていた時、どこからか、子供がひょっこり供物台の傍にやってきたの。

 親はいないようでした。とても痩せていて、見るからに栄養失調でした。髪も洗えていないのかボサボサで、路上で生活している孤児の一人だと分りました。

 上手く警備の目をかいくぐって来たのね。もしかしたら、動物が使っている穴から入って来たのかもしれません。あの子の小ささなら、それもできたかもしれないわ。

 

 とにかくその子は、供物台に乗せられた沢山の食べ物の中にある、葡萄に手を伸ばしました。

 本当なら、やめさせるべきだったのでしょう。でもあまりに痩せていたから、葡萄くらいいいんじゃないかしら、なんて、むしろその子の盗みの成功を望む気持ちまでありました。

 まあ結局、その子の盗みは未遂に終わりましたの。神官の一人が、葡萄に触れる前にその子の腕を掴んだのよ。


「やめておきなさい」


 子供の腕を掴んだのは、背の高い、せすじが一本綺麗に通った、草色のショールを纏った若い神官でした。

 すぐにイエンウィアだと分ったけれど、私は再会できた嬉しさよりも、お腹をすかせて痩せ細った子供が食べ物を欲しているのに分け与えようとしない、彼のその態度に腹が立ちました。

 私は貴族娘にはあるまじき大股で、ずんずんと突進するように歩いて行くと、子供とイエンウィアの間に割って入ったのです。


「動物にはご飯をあげるのに、飢えた子どもには葡萄の一粒すら与えないの!?」

 

 ぐいと顎をあげ、背の高いイエンウィアを睨み上げたわ。

 イエンウィアはぽかんと私を見ていたけれど、やがて何かを思い出したかのようにぱっと眼を開きました。

 初めて会った時よりも随分表情が豊かだわ、と思った記憶があります。


「ああ、あなたは以前、奥庭で会った」


 奥庭で彼を『慇懃無礼』だと罵った女の顔を思い出したイエンウィアに、私は重ねて無礼な態度を取りました。別に、わざとではなかったのですけれど。負けん気がまたひょっこり出てしまったのよね。


「レクミラよ」


 私は腕を組んで鼻息荒く、自己紹介をしました。

 イエンウィアはその時、お返しに名乗ってはくれませんでした。でもその代わり、こう言ったのです。


「ではレクミラ。理由が知りたければ、その子を連れてこちらへ」


 私は子供の手を引いて、イエンウィアに導かれるまま、神殿内部に初めて足を踏み入れました。

 参拝者用の区画も見事な装飾だけれど、内部も素晴らしいレリーフが沢山あって、私はきょろきょろ辺りを見渡しながらイエンウィアの背中を追いかけたわ。


 イエンウィアが通してくれたのは、多分、倉庫のような場所だったと思います。

 そこでは沢山の神官さんや書記の方が供物の整理をしていました。部屋の端には先程の供物台にあった量に負けないくらい、沢山の食べ物が置いてありました。


 イエンウィアは私達を敷き物が敷かれている一角に座らせると、記録係――多分、書記さんだと思うのですけれど、その方に何やらひと声かけて、パンと葡萄が入ったお皿を手に取り、こちらに戻ってきました。


「さっき君が手をつけようとしていたのは、祈祷前の供物だ。神がお召し上がりになる前の。それには誰も手をつけてはいけない決まりになっている。――そしてこれが、祈祷後の供物だ」


 そう言ってイエンウィアは、子供にパンと葡萄が入った皿を渡しました。


 子供は手渡された食べ物に視線を落として、ごくりと唾を飲み込みました。けれど、すぐには食べ物を手に取らず、その子はイエンウィアを仰ぎ見ました。さっき手を掴まれて制されたのに、今度は器ごと渡された事で、混乱していたのでしょう。


「食べなさい」


 イエンウィアに促されてやっと、その子は葡萄を一粒千切って、口にしました。

 お腹が空いていたのでしょうに、とても行儀の良い子だと思ったわ。


 私が「美味しい?」と訊ねると、その子は葡萄を頬張りながら何度も頷きました。つい弟の小さい頃を思い出して、スカートの裾でその子の汚れた口元を拭いてあげたら、恥ずかしそうにしていたのがとても可愛かった。

 

 イエンウィアは、子供が食べ始めたのを見届けると、水差しとカップを二つ持って戻ってきました。自分も敷物に腰を落ち着けると、カップに水を注ぎながら言いました。


「お腹がすいて我慢できない時は、神官に言いなさい。何人かに声をかければ、今のように食事をくれる者がいるだろう」


 たっぷり水が入ったカップを子供に渡しながら、「だから供物を盗んではいけない。分ったか?」とイエンウィアは念押ししました。


 子供はイエンウィアの目を見て頷くと、水を受け取り飲み干しました。

 イエンウィアはもう一つのカップにも水を入れて、それを私にくれました。そして今度は、子供に言い聞かせた時ときよりも少し硬質な声で、私にも説いたのです。


「あなたが優しい方なのは分りました。ですが、決まりは守って頂かなければなりません。あのままこの子の行動を止めなければ、この子は盗みの罪で、腕を切り落とされていたかもしれない」


 同じ大人として、教えてくれているのだと分りましたわ。

 私、その時ほど、無知を恥じた事はありませんでした。

 ただ正義感に任せて彼につっかかっていた自分を、とても情けなく感じたのです。


 けれど私、強情張りな性格なもので。素直に謝れず、俯いてしまいましたの。イエンウィアはそれを責めようとせず、放っておいてくれました。

 彼は、子供に名前を聞きました。その子は「キキ」と名乗りました。


「ではキキ。もし、誰も食事を与えてくれない時は、私を呼びなさい。フイ最高司祭補佐役のイエンウィアだ」


「「イエンウィア……」」


 その子と私は、同時に彼の名を呟きました。


 役職を聞いて驚いたけれど、それ以上に、彼の名を知れてとても嬉しかった。

 それからね、何だか無性にワクワクして。胸がドキドキして。とても素敵な事が始まりそうな、そんな予感がしたのよ。

 ああ私、この人に恋をしたのね、ってすぐに気付いたわ。



 そこまで話すとレクミラは、昔話の最中にカカルから手渡された茶を一口飲んで、小休憩をとった。


「素敵ですね……」


 ライラが目をキラキラさせて、ほう、とため息をつく。

 無理もない。職場があれ(エジプト軍)である。

 汗臭い筋肉達磨達にまみれ、武器話と筋肉談議と下ネタには事欠かないかもしれないが、女同士でするような恋話などは夢のまた夢である。そんなライラにとって、レクミラの話はさぞかし乙女心を刺激するに違いない。


 だが、その恋話のオチが、目の前のコレ(恋愛相手を押し倒した揚句、妊娠した事を黙って別の男と結婚したが結局発覚して離婚)である。それが分っているだけに、うっかりするとトキメキも失せかねないのが悲しいところでもあった。


 今のところ、レクミラの話で床を汚す者は出ていない。

 貴族のお嬢様の、普通の恋愛話だ。

 カエムワセト達は、ひとまず安堵した。


 ジェトが、隣で腕組をして聞いていたアーデスに耳打ちする。


「話の流れでは、イエンウィアにはまだ相手にされてねえ感じだな」


「アホか。もし相手にされたら最終手段で押し倒したりせんだろ」


 ごもっともである。ジェトは黙った。


「何か仰って?」

 

 レクミラが怒気を孕んだ笑顔で、恋愛話に水をさす無粋な男二人に問いかける。

 アーデスとジェトは二人揃って「なんでもございません」と返した。

 レクミラには、ライラとはまた違った凄みがあるのだ。


 でもね……

 

 と、レクミラがそこで初めて瞳を曇らせた。


「自分の恋に気付けてとても嬉しかったけれど、焦りも有ったのよ。よしんばイエンウィアと心が通じたとしても、果たして父が神官との恋愛を許してくれるかしら、ってね。父は家を大きくするために貴族同士の、しかも高官との縁組を望んで探していたから」


 イエンウィアは役職としては高い地位にいた。しかし幼い頃に、現在の最高司祭であるフイに路上で拾われた身の上の彼は、血筋は全く不明だったのだ。

 

 当時のレクミラには、目の前の硬派そうな神官を落とす事よりも、野心家の父を説き伏せる方が難題だったのである。


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