第二章 私は草色神官に恋をした

第2話 イエンウィアとの出会い

 あの方と最初にお会いしたのは、半年くらい前。シェムウ(収穫季)に入ったばかりの頃だったと思います。場所は、神殿の奥庭でした。

 元々私は、プタハ大神殿には父とよく参拝していました。

 その日、父と私は供物をささげた後、参拝者用の礼拝室でいつものようにプタハ神に祈りを捧げました。


「どうか、我が娘に良縁をお与えください」


 私の良縁をプタハ神に願う父の横で、内心では見合い結婚に反対していた私は


 恋愛結婚! 恋愛結婚! 恋愛結婚!!


 と、三回強く念じました。

 

 よくよく考えると、職人の神様であるプタハ神に良縁や恋愛結婚を願うなど、とんだ畑違いだったと思います。本来ならハトホル神殿にでも行くべきでした。


 だからかしら。結局、その願いはどちらも微妙な形で成就されてしまう事になりましたわね。プタハ神もプタハ神なりに、頑張って下さったのかしら。

 

 とにかくその日、お願いの甲斐があったのか、私はイエンウィアと出会う事になるのです。

 

 神殿の前庭に出た所で、職場の同僚と偶然出会わせた父は立ち話をしていました。私はその方に挨拶だけすると、あとは手持ち無沙汰に前庭を眺めていました。


 プタハ神殿の前庭はいつも整然としていて、感心します。けれどその時の私は、整えられた庭よりももっと面白いものを見つけましたの。


 野良犬や野良猫が草むらを揺らしては次々と現れ、神殿横の奥の庭に向かって歩いてゆくのです。その奇妙な現象に、とても興味をかきたてられました。


 父からそっと離れた私は、犬猫達が出てきた草むらを覗いたのです。そこには、子供が通れそうなくらいの小さな抜け穴がありました。多分、壊れていたけれど草の陰になって気付かれず、そのままになっていたのでしょうね。


 続けて私は、動物達がどこへ向かったのか気になりまして、立ち入り禁止とは知りながら奥庭に忍びこんだのです。

 そこにいたのが、イエンウィアでした。


 草色の肩かけショールを斜めがけにした神官が、残飯を動物達に与えていたのです。 

 その人は、餌場からあぶれている小さな猫を一匹抱えると、比較的密度の少ない皿に移動させていました。

 日除け頭巾に隠れて顔は良く見えませんでしたが、背筋せすじの美しさには好感を持てました。


 私は動物が好きなので、その時はせすじの整った神官よりも、顔にぶちが入った可愛らしい犬に気持ちを持って行かれたかしら。

 他の犬猫がその神官に撫でられていた様子から、どの子も人慣れしているように見えて、私もブチの子を撫でようと手を伸ばしました。けれど、その犬は私の手をさっと避けて、別の皿に移動してしまいました。

 元来、動物には好かれる方なので、その犬の反応は少し残念でした。


 やり場のなくなった手を戻してしょんぼりしていると、その神官が私に話しかけてきました。


「彼らは食事をしに来ているだけで、人に可愛がられる気はないんですよ」


 ブチの犬の頭を撫でながら、彼は落ちついた声で言いました。


 さっき私の手を逃れた犬が、その神官には尻尾を振って身体を撫でさせているのを見て、私は正直ムッとしました。

 だって、言っていることとやっていることがまるで違いますもの。意識的にやっているとしたら、とんだ当てつけですわ。そう思いません?


「貴方には懐いているようですが?」


 腰に手を当てて、私はその神官を睨みました。


「食事の礼を言ってくれているだけでしょう。彼らは私に媚びる気はありませんから」


 頭巾に顔が隠されたまま、彼はそう言いました。

 すると、その通りだ、と言わんばかりにブチの犬は絶妙のタイミングで神官からプイと顔を反らし、さっさと来た道を戻って壁の穴の向こうに消えて行ったのです。


「可愛げのないこと」

 

 呆れながらブチ犬を見送った私に、その神官が「ところで―」と、声をかけました。

 振り向くと、頭巾の下から繊細そうな雰囲気を持つ顔が覗いていました。その口元には、礼儀上の微笑みが浮かんでいました。明るい茶色の目は、その時は笑っていなかった事を覚えています。


「あなたも空腹なのですか?」


 何故そんな事を訊くのか分らないまま、私は彼に「いいえ?」と答えました。彼は一つ頷くと、こう言いました。


「そうですか。食べ物の匂いにつられてここまで来られたのかと思いました」


 そこで初めて私は、立ち入り禁止区域に入った事を遠回しに責められているのだと気付きました。本来ならそこで素直に謝り、立ち去るべきだったのですけど、何となく彼の物言いに反感を覚えた私は、こう言い返したのです。


「そういうのを慇懃無礼というのよ」


 今思うと、とんだワガママ娘だったと思います。引っ込みがつかなくて、つい虚勢を張ってしまったのね。

 彼はそんな私を怒るわけでもなく、「失礼しました」と頭を下げました。それから、こう言いなおしたのです。


「ここは一般の方の立ち入りは禁止です。残飯をお求めになっていないのであれば、早々にお引き取り下さい」


 更に酷い言い方で退場を求めてきた彼に、私は呆気にとられてぽかんと口を開けてしまいました。


「……どっちにしろ慇懃無礼じゃないの……」


 その顔が面白かったのか、彼は少し頬を緩めました。

 イエンウィアは、雰囲気は繊細だけれど、笑うと温かな表情になるのよね。

 不覚にもその時、私はその笑顔が可愛らしく思えてしまいましたの。


「ここは人通りが少ないですが、他の神官も来ます。特にここの最高司祭は厳しい方で、決まりを守らない方には老若男女問わず大声でお叱りになります。お気を付け下さい」


 それでは――。


 慇懃無礼な彼は、同じく無礼な私に丁寧な礼をすると、犬猫達が空にした残飯の皿を回収して行ってしまいました。

 

 遠くから私を呼ぶ声がして、私は父の元を離れて来たのをすっかり忘れていた事に気付いて、急いで前庭に戻りました。


 その時はまだ、彼と離れるのが名残惜しいとか、そういった気持ちは芽生えていませんでしたわ。

 ただ、そうですね。

 ほんの少しだけど、次からプタハ神殿に行くのが楽しみに思えたかしら。


 

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