第23話 お気に入りの水平線

 「また、見ているの?」

 女は、浜辺に座り込んだまま石のように動かず、水平線の向こうを眺めている男に声をかけた。あきれたような口調だが、その底には隠しきれない深い愛情が込められている。

 「ああ」

 男は答えた。その場に座り込んだまま、水平線の向こうを見つめたまま。

 こうして、暇さえあれば浜辺に座り込み、お気に入りの水平線を、その遙か向こうを眺めている。それが男の日課。その顔は少年のように高揚している。

 いつものことなので女もなにも言わない。ただ黙って男の側に立ち、一緒になって水平線を見つめていた。

 「なあ」

 男が言った。

 「なに?」

 「水平線の向こうにはなにがあると思う?」

 「わからないわよ、そんなの。行ってみなくちゃ」

 「『行ってみなくちゃ』か。そうか。そうだよな」

 男は女の言葉に立ちあがった。大きく両腕をかざして伸びをした。その顔には底抜けに晴れやかな笑みが浮いていた。

 「よし、行こう!」

 「えっ?」

 「水平線の向こうに行こう! その先になにがあるか、この目で確かめるんだ」

 「正気なの?」

 「本気だ」


 そして、男は旅立った。大きな丸太をくりぬいて作った丸木舟に乗って。女とふたり、海に乗りだしたのだ。

 つらい旅だった。

 潮に流され、強風に吹かれ、ちっぽけな丸木舟はどこに行くともわからず流されつづける。

 容赦なく照りつける日照り。

 乾いた潮風。

 ジリジリと日の光に灼かれ、汗が間断なく流れる。肌はボロボロになり、髪はチリチリ。

 喉が渇く。

 ヒリヒリする。

 突然の雨。喜び、はしゃぎ、思いきり口を開けて雨を受けとめ、喉を潤した。それもつかの間。降りつづける雨に体が冷える。凍える。丸木舟に雨水が溜まり、沈没しそうになる。ふたりとも、必死になって水をかき出さなければならなかった。

 そして、食べるものと言えば事前に用意しておいた干し肉と干し魚だけ。海にはいくらでも魚がいるとはいえ、こんなちっぽけな丸木舟に乗ったまま捕まえられるものではない。ほどなくしてこれらの食糧もなくなり、ふたりは飢えにも苦しめられることになるだろう。

 そんな船旅を何日つづけただろう。ふたりとも体はカラカラに渇き、干からび、やせ衰えていた。もう何日か海の旅がつづけばまちがいなく死ぬ。

 そこまで追い詰められていた。

 そんな矢先――。

 女が最後の力を振りしぼるかのようにして叫んだ。

 「陸よ、陸が見えるわ!」

 男は立ちあがった。

 女の指さす方を見た。

 そこにはたしかに陸があった。水平線の向こうにぼんやりと、しかし、たしかに陸があったのだ。

 ふたりは、その陸に上陸した。そこは木々が生い茂り、無数のゾウの群れが闊歩する楽園だった。

 「なんてこと。水平線の向こうにこんな場所があったなんて」

 「ああ。ここは素晴らしい場所だ。決めだぞ。おれたちは今日からここに住もう。ここに、おれたちの新しい世界を作りあげるんだ」

 「ええ」

 ふたりは力強くうなずいた。


 それは、歴史上はじめて、のちに『日本列島』と呼ばれることになる大地に人類が到達した瞬間だった。

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