第8話「兄弟」「金」「タブー」

 きんの鍵。

 きんの卵。

 きんの精神。

 どいつもこいつもきんきんきん

 そんなにきんがいいのか、ぎんじゃダメだって言うのか⁉

 ……いや、わかっているさ。

 そうさ。世間でチヤホヤされるのは一位だけなんだ。一位でなければ尊敬されない。二位じゃダメなんだ。だったら――。

 二位にしかなれないおれはどうすればいい?


 陸上100m走のトラック。

 間もなくゴールを切るというおれの一歩前、いや、半歩前。そこにはまたひとつの背中があった。おれの前にはいつだってひとつの背中がある。

 たかだかひとつの背中、だけど、ひとつの背中。

 そのたったひとつの背中がある限り、おれは一位にはなれない。

 おれがゴールを切る寸前、おれの半歩前にいた背中が先にゴールを切った。

 おれはまたも二位だった。一位にはなれなかった。

 レースのあと、メディアに囲まれるのは一位になったあいつ。

 ファンの歓声が集まるのもあいつ。

 そして――。

 彼女。

 彼女が側にいるのもあいつ。

 すべては一位がもっていく。二位のおれのもとには誰も来ない。ただ、一位がチヤホヤされるのを指をくわえて見ていることしか出来ない。

 あいつはおれの双子の兄弟。

 子供の頃からずっと一緒に陸上をつづけてきた。

 別に、いつだってあいつが勝っていたわけじゃない。おれが勝ったことだって何度もある。いや、勝った回数で言えばおれの方が多い。あいつは一位にもなるが、大敗することも多いからな。

 一位が三点。

 二位が二点

 三位が一点。

 そうやって数えれば、いつも二位になるおれの方がポイントでは勝っている。だけど、あいつは大敗することもあるかわりに、一位になることもある。おれは決して大敗しないけど、一位には決してなれない。世間が注目し、チヤホヤするのは万年二位のおれじゃなく、『ときには一位にもなる』あいつだった。

 そして、彼女。

 高校時代、一緒に告白してからずっと取り合ってきた彼女も結局、万年二位ではなく『ときには一位』を選んだ。

 おれはこのまま二位で終わるのか。

 一生、一位にはなれないままなのか。

 本当に――。

 そうなのか?


 オリンピック選考会が近づいたある日。

 おれのスマホに一通のメールが届いた。なんの心当たりもない相手。普段なら警戒して即刻、削除するところだ。しかし、このときばかりは魔が差したのだろうか。つい警戒するのを忘れて開いてしまった。

 ――しまった。

 そう思ったときにはもう遅かった。メールが開かれ、文章が表示されていた。そこにあったものは――。

 ――ドーピングの誘い。


 絶対に検査で引っかかることのない新しいドーピングが開発されました。あなたの場合、この方法を用いることによって0.5秒近くタイムを縮めることが出来るはずです。興味があおりなら以下のアドレスに……。


 なるほど。おれが万年二位であることを知ってわざわざ連絡してきたわけか。

 もちろん、タダというわけじゃない。けっこうな一位がかかる。しかし、払えないほどの額じゃない。なにより、0.5秒タイムを縮めることが出来ればおれは一位になれる。もう万年二位なんかじゃない。常に一位になれる。そうなればプロに転進していくらでも稼ぐことが出来る。

 それに彼女。

 例の彼女も奪えるかも知れない。あのふたりだってまだただの恋人。結婚しているわけでもなければ、婚約すらしていない。いまならまだ……。

 それを思えば安い買い物。

 もちろん、競技者にとってドーピングは絶対のタブー。しかし、それは建前。世界の有力アスリートの多くがドーピングをしているのは公然の秘密。

 ドーピングしなければ一位にはなれない。

 いまやそれが競技会の常識。そう言ってもいい。それだったら……。


 そして、やってきたオリンピック選考会。

 もう間もなくゴールを切るおれの手前。そこには――。

 いつも通り、たったひとつの背中があった。

 またしてもおれを二位に追いやり、選考会で一位をつかんだのはあいつ、おれの分身とも言うべき双子の兄弟。レース後、あいつは記者に囲まれ、フラッシュに包まれていた。

 それだけじゃない。

 あの野郎、その場に彼女を呼び寄せ、堂々と婚約を発表しやがった。

 ――やってくれる。

 おれは心のなかで呟き、控え室に戻った。たったひとりで。二位のおれには――。

 誰も来ない。


 控え室の椅子に座り込みながら、おれはじっとスマホの画面を見つめていた。ドーピングの誘いをかけてくる文章を。

 「……ふん。自力ではない一位など最下位にも劣る」

 おれはそのメールを削除した。

 「おれの誇りは自力で手に入れた二位だ」

                 完

 

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