ピロートーク
カタン、と音が鳴った。
彼は耳を澄ます。どうやら、彼女が今日の日課を終えて帰ってきたようだ。
後ろ手にドアを閉めている彼女の輪郭を捉えると、彼はそちらのほうに足音もたてずに歩いていって、いきなり自分の頭を彼女の裸足のくるぶしにこすりつけた。
「拓已、起きてたの?」
しかし、彼女はごく普通に聞き返す。耳の良い彼女には、それほど効果のあるいたずらにはならなかったようだ。
二人で同じベッドに向かいながら、彼はかぶりを振って答える。
「ああ。君の驚く声を聞きたかったけど、失敗したみたいだ」
「そっか。次は頑張ってね」
てさぐりで、ゆるゆると布団に潜り込みながら彼女は答える。
彼がその隣に陣取ると、彼女は、自分の頬を彼の頭にこすりつけた。彼も、頭をもたげてそれに応える。
背後から抱きすくめられ、やがて幽かな衣擦れの音が聞こえてくると、彼はやれやれと思いながら固唾を飲む。彼女のくせも、彼女に対して下世話に振る舞えない彼の情けなさも、いつも通りだった。
「あのね、」
ややあって、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「恋をするということ、を、死ぬことと見つけてしまった」
彼女は、ベッドの上で枕に顔を埋めながら、もごもごと呟いていた。
ベッドの周囲に広がる化学繊維の幾何学図形も、その舌足らずな哲学も、彼にはデジャブだった。
「そっか」
彼女は、この話をボイスレコーダーに吹き込まなかったのだろうか。
いぶかしく思いながら、彼は寝返りをうちつつ彼女の方を振り向く。
彼女の桜色の頬は、彼の鼻と今にも触れそうな距離で並列していて、彼はその桜色を、愛おしむように舌でちろと舐めた。
すると、彼のざらざらの舌がくすぐったかったのだろう、くすくすと笑い声を漏らしながら彼女はゆっくりと顔を上げる。
そして、彼女は甘えるように彼の鼻に自分のそれをこすりつけた。
彼は、何か言いかけた彼女の機先を制して、言う。
「それなら、僕はすでに見つけていたぜ」
彼女が息を飲むのが、彼には分かった。
「なんと。先を越されたか」
彼女は、少しおどけた調子で悔しがる。
至近距離で感じる彼女の吐息は、その芳香は、彼にとって麻薬のようだった。
彼が形而下の事情に心を惑わせていると、彼女は彼に問い返す。
「……じゃあ、その心は?」
彼は、ひとつ息を吐いた。
つい先日、友人との間で交わされた会話を、彼は思いだしていた。
だからだろうか。彼は、ずっと言うつもりのなかった二人の関係の歪さを、なぞかけの解き明かしに込めて語ってしまった。
「武士道と同じだよ。それが生き方になってしまえば、もはやそれは自分から切り離せない。恋は究極、相手と同一化したいという欲求なんだ。たとえば、君と共にいるという事は、もはや君であるということだ。僕らはすでに、お互いがいなければ不完全な存在だ。一人の人間として、独立して生きることを諦めてしまった。それでいいと、思ってしまった。恋をすると言うのは、僕を死ぬということだ。ゆるやかに自殺してゆくみたいなものさ」
彼女は、それを静かに聞いていた。
そして、静かに彼との間に距離を取ると、真剣な瞳で彼の目を覗き込んでくる。
「拓已は。もし出来るなら、拓已として生きたい?」
――その目を見て、彼は確信した。
彼女は、十年前の真相に気づいているんだ。
天才的な頭脳を持つ彼女が、断片的な情報から真実にたどり着くのに、一日あれば十分だったのだろう。
彼女は、毎朝十年前から始めて、そしてその日のうちに、少なくとも夜に床に就く頃にはすべてを突き止めてしまうのだ。自分の嘘も、彼の記憶の在処も、そして自分の親友の想いも。
そうして、すべてを理解したまま、彼女は記憶を消される眠りを受け入れているのだろう。
彼は、彼女の目をしっかりと見つめ返す。彼と彼女の後始末は、まだ終わっていなかった。
たとえ、今夜のことを彼女が明日の朝には忘れてしまうとしても。それでも、不誠実な答えで今この瞬間の彼女を悲しませることなど、彼はしたくなかった。
彼女は、静かに答えを待っている。
「僕は、君と出会ったときにもう、とっくに死んでいるよ」
そんな物騒なことを、彼は言い切った。
彼女は、小さく安堵の溜息をついて、表情を和らげる。
「死んでいましたか」
真面目くさって彼女が聞き返すから、
「いましたね」
少し笑って、彼は応えた。
そんな彼と彼女を、カーテンごしに差し込んだ月明かりが柔らかく照らし出していた。
白銀の光を受けた、その二人の影は重なっていて、もはや一つにしか見えなかった。
マキナ・エクス・デウス たけぞう @takezaux
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