雛
ずっと言えなかったことが、私にはある。
あいつは、私を善人だと言う。
私は善人なんかじゃない。ただ、臆病なだけだ。お前は大事なことを隠した卑怯者だと、後ろ指差されるのが怖かった。
だというのに、それを告げる勇気もなかった。
もういいんだよ、とあの子の無垢な魂に許されそうになるたび、私は自分を奮い立たせなければならなかった。
あの子を利用してしまったら、自分を許せなくなりそうだったから。
この十年、私はずっと、焦燥に駆られながら生きている。
この手遅れな、長い長いエピローグは、私が締めくくることにしよう。
二人をずっと見ていたくせに、自分のことに囚われるばかりで何も気づいてあげられなかった私には、丁度いい役目だ。
さあ、私たちはいい加減、後始末をつけなくちゃいけない。
それぞれが、それぞれに。
***
「今晩、日付が変わる頃に裏山のあの丘に来てくれ。来てくれさえすればいい。そうしたら、あとは僕が説得を引き受ける」
灯の家から帰ってきて、自宅でしばし放心していた時だった。
あの猫から、メールが届いた。
最近は、声さえ出ればパソコンのプログラムを起動したり文字を入力したり出来る時代だ。喋る猫ならメールくらい打てるのだろう。
科学技術の変態的な進歩に、少し頭がくらくらしたがそれも一瞬だ。
問題は、その内容なのだ。
灯の家の裏手にある山の、ときどき春には皆で花見をする丘。私がそこまで行くだけで、拓已が灯を説得してくれるという。
拓已は灯と同じ意見なのだと思っていたけど、違ったのだろうか。何にしろ、少々悔しいが、灯を説得するのにこんなに頼もしい味方はいない。
願ってもない申し出だが、しかしそんな時間に呼び出していったい何の用なんだろう?
非常識だし、いろいろ不審ではある。しかし、私にはこれを断れないだけの理由がある。
灯には、どうしてもマクベス1080の使用を了解してもらわなければいけない。これだけは、どうしても譲れないのだ。
――なぜなら。
拓已が記憶を取り戻す鍵は、マクベスが握っているのだから。
少し長くなるが、十年前のあの事件の直後に起きた「経過」を話しておこうと思う。
でないと、私がマクベスに執着する理由が分からないだろうから。
――十年前のある日。
ネットに流れた一つの動画が、世間を賑わせた。
その動画は、一人の少女が、撮影中のビデオカメラのボタンを探るようにこちらへ手を伸ばしているカットから唐突に始まっていた。
その後、少女は一歩後ろに下がって耳を澄ます。このあたりで動画の視聴者たちは、ずっと目を閉じたままのこの少女が盲目であることに気づき始めたという。耳を澄ましているのは、ビデオカメラの動作音を確認していたからだった。
綺麗な少女だった。しかし、その整った目鼻立ちよりも、目を引くことがあった。
少女の白いワンピースは、血塗れだったのだ。
やがて、少女はカメラに向かってゆっくりと手を伸ばし、静かに手のひらを開いた。そこには、植物の種子らしきものが握られていた。
そして、少女は一言だけ言葉を発したのだ。
「この種を、絶やさないで」
そこで、動画はぷつんと終わっていた。
初めは、何かのいたずらや自主制作映画の類だろうと、好奇心の強い一部の好事家しか反応していなかったが、その少女が時を同じくして起こった少年殺人事件の第一発見者だとわかると、世間の目は一変した。
誰もが、その謎のメッセージに、事件との関連性を疑った。
警察も捜査の進展を期待して、その少女にメッセージの意味を話すように勧めたが、しかしあろうことか、少女は自分の恋人を殺されたショックでそのときの記憶を失っていた。
なんとか少年が殺された瞬間の状況は聞き出せたが、盲目の少女の証言からは犯人の外見的特徴は掴めなかった。少女自身には少年を殺す動機など見あたらなかったし、部屋が荒らされ金目のものがなくなっていた状況証拠から、強盗殺人の線で捜査が始まった。
その頃、世間ではその動画が別の角度から検証されていた。なんと、動画には隠しファイルが埋め込まれていたのだ。そのファイルには、MEMORYという単語の後に何百万行に及ぶ数字の羅列が書かれていた。
それによって、メッセージのほうも別の意味を帯びてきた。
情報配信の技術にP2Pというものがある。ユーザーがそれぞれ情報の一部を所有して、それを要求にあわせてアップロードすることを見返りに、ユーザーが情報を手に入れることができるサービスだ。そのユーザーが所有する情報のことをとあるプログラムでは「シード」、つまり種と呼ぶのだ。
この動画もP2Pによって配信されていた。
この種を絶やさないで。そのメッセージは、手に持った実際の種の話ではなく、この動画を配信し続けて、という意味なのではないか。
そう考えると、動画に隠された数字の羅列が重要そうに見える。少女が、実は天才的脳科学者であり、被害者の少年の人格も保存されていたという事実から、もしかしたらその数字は少年の記憶のデータなのではないか、との推測がなされた。
そこで、この数列の意味を解読するために、マクベス1080が使用されたのだった。
「暗号でないものでさえ解読する」と謳われる、謎に対する最終兵器。
しかし、自信満々だったマクベスの開発チームが見たものは、初めて返されたエラーコードだった。
ERROR 001:NO MEANING
マクベスは、この数列には何の意味もない、と結論した。
このときから、拓已の記憶は、電脳の中に置き去りになっていた。
「やあ。待っていたよ、ひなっち」
なんだかそわそわして、約束の時間より早めに到着したつもりだったが、私が着くなり足下から突然声をかけられた。
驚いて、少し飛び上がってしまう。黒猫は、夜の色にとけ込んでしまっていて、目玉だけが光って浮かんでいるように見えた。
「ひ、ひなっち言うな」
反論する声も、少し引きつってしまう。
「まあ、そう言うなって。なんだか、このくだりをやらないと落ち着かなくってさ」
「いよいよ病的だわね」
そう言って、私は溜息をついた。
それなりに緊張して来た自分がちょっと馬鹿みたいだ。拓已が相変わらずなのだから、こちらもいつも通りでいいのだと思う。
「それより……ほら、ちゃんと来たわよ。何の用なの?」
「何の用って。おいおい、若い男女がこんな暗がりですることっつったら限られてるだろ?」
暗闇の中でも、拓已の口角がつり上がっているのが手に取るように分かる。
「任意同行求めるわよ」
私が職権を濫用してみると、
「逮捕状持って出直しな。猫用があればだけど」
拓已も流れに乗っかってきた。
「あ、猫なら人権無かったわね。法的には器物だし、ちょっと損壊しちゃおうかしら」
「……平和的にいこうぜ、刑事さん」
拓已が、降参だと言うように前足を広げて腹を見せる。
哺乳動物特有の敗北宣言を受諾し、私は屈み込んで、ちょっと毛むくじゃらの腹を撫でてやった。
すると拓已は、くすぐったそうに身をよじってみせてから言う。
「……ちょっと背徳的な気分」
「いいから用件を言え!」
私はそのまま、黒猫の腹に抉るように拳を沈めた。
拓已は、人間の嗚咽と猫の鳴き声が混ざったような声を上げてしばし悶絶していたが、やがて落ち着くと、前足を伸ばして後ろに身を反らしながらとぼけた声で言った。
「用件ならもう伝えただろ? 僕が説得するって」
私は、狐に抓まれたような気分で言い返す。
「それは聞いたけど。あんたが灯を説得してくれるって。だから来たんじゃない。それで、見返りに私に何をさせたいの?」
拓已は、伸びをしたままで静かに答えた。
「誰が、灯を説得するって言った?」
私は、ぽかんと黒猫の細められた目を見つめた。
拓已は、そっと目をあけると、ばちっと洒脱なウインクをして寄越した。猫のくせに。
「……まさか」
「そのまさかさ」
やられた。確かにメールには説得という語の目的語は書かれていなかった。
しかし、それならすべて理屈が通る。
拓已はやはり灯と同じ意見であり、私を説得したいのだから私を呼び出すのも当然と言えば当然だ。
私は、失望を隠せずに溜息をつく。
「……帰る」
「待てよ。もうすぐ来る頃だから、さ」
見ると、拓已は猫らしく身繕いなどしながら話していた。
それには苛々したが、しかし聞き咎めたこともある。
「来るって、誰が?」
「灯が、だよハニー」
誰がハニーだ、というツッコミが喉元まで出掛かった。
しかしそれより、灯がここに来るということが不可解で、思わず黙り込む。
灯に聞かれたくないから、時間を変えて呼び出したんじゃないの?
そんなことを考えていると、足下から、声を潜めた拓已の鋭い声が響いた。
「……静かに。隠れて」
言われるままに息を潜め、拓已の視線の先を追いかける。
――そこには、灯がいた。
灯が、盲人用の杖を前に投げ出しながら、一人きりで月光の下を歩いていた。なだらかな丘とは言え、ごつごつした剥き出しの地面を、灯は介助もなしに歩いていく。
「ちょっと、危ないんじゃない?」
「灯なら大丈夫だ。これは日課だからね、身体が覚えているんだろう」
拓已は、心配げな様子もなく、ただじっと灯の様子を見守っている。
見ると、確かに灯は危なげない足取りで進んでいるので、私も黙ってそれを見守ることにした。灯は、桜の木が何本か並んでいる一角へ、真っ直ぐに向かっている。
季節は早春。そろそろ桜も満開になるだろう。
秒速五十センチメートルほどのゆっくりした足取りの灯に、その十分の一ほどの速さで舞い散る花びらが、ひらひらとかすめていく。
それを、息を詰めて見ていた。
銀色の月の光を浴びながら、世界は灯を受け入れて、静かに詩になっていく。
……やっぱり、灯は綺麗だな。
分かっていたことを再確認しただけなのに、私の心はどういうわけか、ちくりと痛んだ。
やがて、灯は一本の若い桜の前に立つと、足を止めてその根元を掘り返し始める。しばらく見ていると、何か掘り当てたのか、灯は足下の穴の中から何かを取り出した。
「……箱?」
「クッキーの缶だよ」
灯は、その缶の中にポケットの中身を入れると、再び元通りに埋め直し始めた。
「何を、してるの?」
「……タイムカプセルだってさ。灯はそう言ってた」
そして、缶を完全に埋め直してしまうと、少し地面の状態を確認した後、灯はもと来た道を引き返して行った。
「行こうか」
灯が見えなくなるのを待って、拓已が身を起こす。
さっきまで灯のいた桜の木のほうへ歩き出す拓已を、私は何も言わずに追いかけた。
知らなかった灯の一面も、それを見せた拓已の意図も、私はとりあえず判断を保留して、あとはただの好奇心に突き動かされている。だから、何も言えずに拓已についていった。
そして、例の木の根元まで着くと、拓已はおもむろに地面を掘り返し始めた。
「ちょっと、そんなことしていいの?」
拓已は、何も言わない。
私は、落ち着かない気分で、しかし止めることもなくそれを眺めていた。
やがて、拓已が目的のものを掘り当てる。すると、拓已は前足で缶を指し示しながら、あごをしゃくって私を促した。
開けろ、というのだろうか。確かに、拓已の前足では難しそうだが、猫にあごで使われるのは万物の霊長としてちょっと釈然としない。
しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかず、私は結局促されるままに缶のふたに手をかけ、それを開けた。
「これは……」
中には、プラスチック製の小さな板のようなものが大量に入っていた。
ひとつ抓み上げてみると、それはメモリカードだった。大容量のメモリが、ラベルも貼られず無造作に入れられていた。
「記憶だよ。灯のね」
拓已がぼそっと告げた言葉に、私は思わず抓みあげたメモリを取り落とした。
***
「そんなことって……。第一、灯は、記憶の保存を拒否してるんでしょ?」
まだ混乱する頭で、私は疑問を口にする。
しかし、次に拓已の発した言葉は、私をもっと混乱させるものだった。
「僕はさ、灯の健忘症はもう、治ってるんじゃないかと思ってる」
拓已は、金色の目で月の銀色をにらみながら、はっきりと言い切った。
私の動揺をよそに、拓已は言葉を続ける。
「医者に聞いたんだ。心因性の健忘は、そう長く続くものじゃないって。それが十年だ。むしろ、治っていないことのほうが異常なんだ」
とんでもないことを言っているのに、拓已の語り口には躊躇がない。
それでも、私にはまだまだ理解が追いついて来なかった。それで、感情が最初にすくい取った言葉を、そのまま私は口にした。
「じゃあ、灯が嘘をついてるって言うの?」
拓已は、それには首を横に振って言う。
「それは違う。いや、灯は過去に一度だけ、自分自身に嘘をついたんだ」
謎掛けのような、謎解きの言葉。
……自分自身に、嘘を?
いったい、拓已は何を知っているのだろう。私は、何を知らなかったのだろう。
拓已の突拍子もない言葉への疑いが、灯の謎の行動に対する不可解さによって、もやもやした心の霧のなかに埋もれていく。
拓已は、一度こちらの目を覗き込むように見上げると、噛みしめるようにひとつひとつ、論理を積み上げ始めた。
「この結論に至った最初のきっかけは、僕が、灯が眠っている間だけ動いているプログラムの存在に気付いたことだった。それはおそらく、ワイヤレスで灯の脳の記憶領域と同期するものだと思う。実際、そのプログラムによってメモリカードに書き出されたデータは、記憶を保存する形式と同じだった。最初は、灯がこっそり記憶のバックアップを取っているんだと思っていたんだけど、それにしては不審な点が多かった」
拓已は、そこで少し間を空けると、頭の中で整理しながら話しているのかゆっくりとした口調になりながら、先を続けた。
「まず、データを書き出した後、プログラムが再同期を始めること。それに、データはメモリカードに書き出されるだけで、他に保存している様子がなかったこと。それから極めつけは、灯がそのカードの存在を僕に隠しもせず、無邪気にタイムカプセルだと教えてくれたこと。その中身を、彼女が本当に知らないように見えること」
そこで一度言葉を切ると、拓已は試すようにこちらを見上げた。もう、証拠は出揃ったとでも言うように。
それでも、私が結論にたどり着けないでいるのを見ると、拓已は静かに言葉を継ぐのだった。
「僕は、こう結論した。灯の健忘症はもう治っている。でも、彼女がまだ記憶喪失だというのは嘘じゃない。なぜなら、灯は自分で記憶を消しているからね」
私は絶句する。あまりのことに、否定も反論もとっさに出てこない。
しかし拓已は、そんな私の反応は折り込み済みだったのか、反射的に浮かべた私の拒否反応を気にもせず、淡々と解説を始めていた。
「この十年間の灯の記憶は、ボイスレコーダーに記録されたことだけだ。おそらく、灯は自分の病気が治ったことを未来の自分に告げていない。そのうえで、自分の脳にブランクデータを同期して、わざと自分の記憶を消去することで人為的に健忘症を作り出しているんだ。このメモリカードのことも、これはタイムカプセルだと灯が自分で吹き込んだんだろう。これから日課として、この桜の根元に埋めることに決めたってね」
拓已が口を閉じ、再び静寂が訪れた。
彼が語ったのは、今まで私が信じてきた世界を揺るがす、にわかには受け入れがたいものだった。
しかし、ここまで来ても、私はまだ反論を出来ずにいた。拓已の結論は、冷徹なくらいに論理的だったから。
だとしても、頭では否定できなくても、感情の部分がまだ納得していなかった。
だって、灯がそんな行動を取る理由が、私には思いつかなかったから。
「どうして、そんなことを……」
だから、抱いていた疑問を私はそのまま口にした。
拓已はそれを聞くと、おもむろに桜の木のほうを振り返る。
そして、その若い枝振りを見上げながら、なぜかとても優しい声になって言うのだった。
「……ここに記憶を埋めることに、意味があったんじゃないかな」
再び語られた謎掛けのような言葉に、私は黙るしかない。
そのまま、私は拓已の次の言葉を待った。しかし、桜の方を身体ごと向いたまま頭だけ振り返った彼は、唐突にこんなことを聞いてきた。
「この桜、品種はなんだと思う?」
質問の意図も意義も分からず、私は、少し苛立ちながら投げやりに答える。
「そんなの知らないわよ。ソメイヨシノじゃないの?」
「いや、似ているけど違う。ソメイヨシノは挿し木じゃないと殖やせない。あれは一種のクローンだからね」
そう言うと、拓已はもう一度桜に視線を戻した。
「だけど、この木は種から育てたんだ。今年で樹齢は十年になる」
こちらに背を向けているから、彼の表情は読み取れない。ただ、その声が、途端に真剣な調子に変わったことだけは分かった。
そして、その言葉が私の脳内を通り過ぎようとしたとき、一つの単語が意識の網に引っかかって、引き上げられた。
その単語は、私の記憶の水面に波紋を落とし、次第に意味ある景色を呼び覚ましていく。
「……まさか、その「種」って」
その問いに、拓已はただ小さく頷いた。
「一緒にここに植えたとき、灯はこの桜を「タクミヨシノ」と名付けていたよ。こっ恥ずかしいからやめろって、僕はそのときに言ったのを覚えてる。灯は、忘れているみたいだけどね」
十年前。「種」。拓已の名を付けられた桜。
それぞれのピースが組み合わされ、パズルのように一つの答えが導き出されていく。
私の脳内で、血で汚れたワンピースを着た盲目の少女が、結んだ手のひらをゆっくり開いていく映像が再生されていた。
「じゃあ、この桜が、そうなの?」
拓已はもう一度、静かに頷いた。
静謐な夜に、拓已の声だけが響いていく。
「ソメイヨシノは、オオシマザクラにエドヒガンサクラを受粉させて作った雑種だと言われている。灯は、同じ組み合わせの親から作った品種を、さらに遺伝子を組み替えてこの「タクミヨシノ」に作り上げたらしい。おそらく、あの事件の直前の話だ。もしかしたら、仕上げはあの動画を撮った前後だったかもしれない」
そこまで言って、拓已はようやくこちらに向き直った。
肩をすくめるような動作のあと、彼はまるで他人事のように、自らの推理を語り始める。
「たぶんお察しの通りだよ。この桜の遺伝子の塩基配列、言ってみればサクラゲノムのなかに、灯は僕の記憶を隠したんだろうね。あのメッセージの「種」っていうのは、文字通りこの桜の種子だったんだ。動画に隠されたファイルの方はたぶん、囮だよ。だって、マクベスも言っていただろ? この数列には何の意味もないってさ。マクベスが意味を見出せないなんて、それ自体が一つのメッセージだ」
こともなげに、拓已はマクベスを肯定して見せた。しかし、私はそういうわけにはいかない。
だって。私の十年は、マクベスの未熟さを証明して、汚名を返上させるためにあったのだから。
私は、つい何時間か前の、灯の姿を思い出す。その強い決意の言葉は、偽りだとは思えなかった。
だから私は、自分の十年と、灯の誇りのために反論を口にした。
「そんなはずない……だって、灯は本当に傷ついてた」
「僕も、そう思うよ」
しかし、予想に反して拓已は、その言葉に頷きを返してくる。
「だから、灯はたぶん、このことも覚えていない。彼女は、僕の記憶をばらまいてしまったことを本当に後悔しているからね。でも、僕は初めから、隠しファイルの方は本命じゃないと思っていたよ」
拓已は、そこで少し笑みを浮かべながらこう続けた。
「灯が、僕の偏在など許すはずがない。あのわがままで強欲な女が、ネット上に拡散したりして、僕を誰の手にも届くようにしておくはずがないんだ。例えそれが、保存という観点においていくら有効であってもね。灯は、自分の記憶と僕の記憶を、一緒にここに葬るように仕組んだ後、未来の自分がこのことに気づいてしまわないように、自分自身に嘘をついたんだ」
私は、めまいを感じて思わず、そばにあった桜の幹に寄りかかる。
――なんて事だろう。拓已の記憶は、こんなところにあったんだ。知らないで、のんきに花見などしていたこの丘に。
マクベスは間違ってなどいなかった。間違っていたのは、解読すべき対象のほうだった。
「なんで?」
こぼれるように、私の口から疑問が滴り落ちた。
「なんで、灯はそんなことをしたの? ねぇ、答えてよ……。なんで灯は、自分の記憶を消すような真似をしたの? なんで拓已にも記憶を戻さないの? このままじゃ、いつまでも事件は解決しないじゃない! そんなことをして、自分が傷つくことも知ってて、なんでそのことを隠したの? なんで……私にも教えてくれなかったの?」
一度こぼれ始めた言葉は、積年の思いとともに次々に溢れてくる。
止められなかった。奔流のように、感情のままに、私は拓已に疑問を投げつけ続けた。
拓已は、ただじっと黙って、私を見守っていた。
そして目を閉じて、小さく息を吐くと、そのすべての疑問にたった一言で答えるのだった。
「そんなの決まってる。犯人は、灯だからだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だんだん、意味が追いついてきて、言葉を理解していくほどに目の前の拓已の冷静な姿が理解できなくて、私は狼狽える。
「な、何を言ってるの?」
拓已は、片目を開いて、その金色の目で私を見据える。
「それ以外に考えられない。灯がもし犯人を知らなければ、一も二もなく僕の記憶を戻すだろう。僕は唯一の目撃者だからね。そして、もし犯人を知っているとしたら、たとえ君や僕が犯人だったとしても、彼女は犯人を許さないだろう。そのときも、僕の記憶を戻すことに躊躇はしない。灯が僕に記憶を戻さないことこそ、彼女が犯人であることの証拠だ」
冷たいまでの論理性で、拓已は私から反論を奪っていく。
拓已は、まるで物語を読み上げるかのように、かつて起こったはずの景色を語っていた。
「あるとき、灯の健忘症は完治したんだろう。それでも、僕に引け目を感じてそのことを言い出せなかったんだ。そして、灯のことだ、僕の記憶のことを調べるうち、この桜のことにもたどり着いただろうね。でも、そこで僕に記憶を戻すことはしなかった。たぶん、怖くなったんだ。記憶を失っている僕に、自分が犯人だと知られることを。そうしたら、僕が離れていくかもしれないから。だから、記憶の分有という絆を手放せなかった。現状を維持するために、まずは自分を騙した。きっと、そういうことだろう」
そして、拓已の目は再び閉じられた。
その瞼の裏側で、彼の瞳は何を見つめているのだろう。いつを、見つめているのだろう。
拓已の言っていることが、彼の中ではもうほとんど確信に近いことは、その口振りから分かる。
もう、過去として語ってしまえるのだということも。
それでも、私にはどうしても納得できないことがある。それが渦を巻いている。
彼が、この長い長い、灯の秘められた過去を語り始めてからずっと、私はこの感情に苛まれている。
「……どうしてよ。どうして灯が? あの子は、あなたなしじゃ生きられないのに」
私はずっと、それが引っかかっていた。
灯は、拓已なしでは生きられないのだ。そんなことは、彼女のことを知る誰が見ても明らかだった。実際、拓已の死に立ち会った彼女は、記憶を失うくらいにショックを受けてしまった。
だから、灯が拓已を殺すことなどあり得ない。そんなのは、ほとんど自殺に近い。
いくら拓已の言うことが論理に裏打ちされていたとしても、この動機の部分でどうしても私には受け容れられないのだ。
拓已は、ゆっくりと目を開く。
そして、私の目を見上げて、何もかも見透かすように覗き込んだ。
「どうして、か。僕はね、動機と呼べるような悪意は、きっと存在しなかったと思う。どこにも、誰にもね。ただ、灯には少々常識がなかった。それだけだったんだろう。だから、あのときに在ったものは、些細なきっかけだけだった」
それから拓已は、何げない調子で続けた。
「――あの日、君は僕に告白したんじゃないかな?」
ずっと言えなかったことが、私にはある。
あの日。あんな事件が起こる前。
私は拓已に、想いを告げたのだった。出会った頃から好きだった、と。何も言わずに、ただ私を選んで欲しいと。
もちろん私は、灯の気持ちも知っていた。それどころか、拓已なしでは彼女が生きていけないだろうことも分かっていた。
それを知っていて、それでもなお私は彼に告白したのだ。
私はまだ若かった。恋とは、もっと甘いものだと錯覚していた。人を愛することは素晴らしいことで、恋のためならどんなに卑怯で狡猾であっても許されると思っていた。
――その日のうちに、彼が殺されるまでは。
彼は死んで、灯は記憶を失い、私はそんなぼろぼろの二人を見ていることしか出来なかった。
私は臆病だった。お前は大事なことを隠した卑怯者だと、後ろ指差されるのが怖かった。
だというのに、それを告げる勇気もなかった。
必死に生きている二人を支えることだけが、自分の浅ましいままに終わってしまった行為を贖えるものだと信じて、私はただそう生きてきた。
もういいんだよ、とあの子の無垢な魂に許されそうになるたび、私は自分を奮い立たせなければならなかった。
何も知らないあの子を利用してしまったら、自分を許せなくなりそうだったから。
この十年、私はずっと、焦燥に駆られながら生きている。
「……間違っていたら許してくれ。おそらく君は、灯を出し抜いて、僕を手に入れようとしたんだ」
拓已は、いつものように明るい調子で、私の過去を暴いていく。
「君は、美しくて聡明で、とても魅力的だ。少なくとも僕はそう評していただろうし、それを灯にも隠さなかっただろう。彼女が、僕を失うという危機感を感じるとしたら、君以外にあり得ない」
誰にも話したことのない過去を、彼はまるで見てきたかのように話している。
どうして彼は、そんなにいつも通りなんだろう。どうして、私を責めないんだろう。
怖かったのに。私は、拓已に知られて、軽蔑されることをずっと怖れてきたのに。
それでも、これほど無関心に語られることのほうが、私には辛かった。
「自分で言うのもなんだけどさ。いや、今なら過去のことだから言ってしまうけど、僕の外見は良い方だった。当時は結構モテていたし、これはある程度客観的評価なんじゃないかな。そして、それは君が想いを寄せてくれたこととも、まったく無関係ではなかっただろうと思う。でも、盲目の灯にとって、僕の外見はあまり意味を持たなかった。盲目の彼女にとって、美醜は視覚的な感動ではなく、触覚的な事実でしかなかったんだ」
そして、拓已はついに、この十年の間ずっと謎だった、犯人の動機を告げる。
「灯は、僕の外見の持つ機能を妬んだ。僕も、彼女を苦しめるそれを疎んだ。利害は一致した。だから彼女はそれを廃棄することを提案して、僕はそれを受け容れたんだろう」
なんて些細な、と私は思う。
これが殺人の動機なのだろうか。こんな、悪意の欠片もない、ましてや憎悪も殺意も激情もない、痴話喧嘩レベルの鞘当てが。
外見を廃棄する。そんな言葉のあやみたいなことが、灯には出来てしまった。その、灯の非常識なまでの才覚が、事をここまで大きくしてしまったのだ。
拓已も拓已だ。いくら想い人が嫉妬するからといって、あっさり殺されて猫になるなんて。
まったく、どれだけ彼は馬鹿なのだろう。
どれだけ、彼は灯を愛していたのだろう。
――それに気づいてしまって、このときにきっと、答えも得られないまま続いた私の長い長い片思いは、やっと終わりを告げた。
すべての終わりに、拓已は自分の殺し方についての考察を語って、この推理劇の幕を閉じる。
「強盗に見せかけて、僕らは僕を殺した。指紋を残さず、防犯カメラの死角を突いて、証拠を残さないように気を遣うだけで、僕らへの疑いは後を引かなかった。なにせ、動機を考えれば、僕らには有利なことばかりだったから。ただ、僕の記憶はこれ以上ない証拠だから、記憶の隠し場所だけは気を使っただろうけど。それでも、灯には実行犯の荷は重かったのかもしれない。自分で殺しておきながら、一時的にでも僕を喪うことに耐えられなかったみたいだからね。そのストレスで健忘症になってるんだから世話がないな。そのことが、僕らにとって唯一の誤算だっただろうね。それで、僕らの関係は必要以上に歪んでしまった」
そうして拓已は、語り疲れたと言わんばかりに、身体を思い切り伸ばして伸びをした。
猫の探偵なら三毛猫と相場が決まっているが、黒猫の推理もなかなかのものだった。まるで、彼が記憶を取り戻したのではないかと錯覚するほどだ。
しかし、拓已の記憶は、今もミクロの世界に刻まれたまま私の目の前で花を咲かせているのであって、彼はそれを愛でるだけだった。
そして、私は気づいていた。
彼が名探偵になれたのは、犯人が灯だったからだ。彼の推理はすべて、灯をよく知っているがゆえに組み立てられたものだった。
やっぱり敵わないな、と私は思う。
そして私は、すべてを聞き終わった感想を、たった一言だけ漏らした。
「……私は、あなたの笑顔が大好きだったのよ」
それを聞いて、拓已は今日初めて、申し訳なさそうに目線を下げた。
「そっか。ごめんな、棄ててしまって」
私には、その言葉だけで十分だった。
拓已は、目線を下げたまま、静かに私に選択を委ねた。
「もし君が、今の僕のことをかつての僕だと認められないなら。あの日に起きたのは確かに殺人だったんだろう。僕という人間が終わってしまったのだから。でも、もし僕を僕だと思ってくれるなら、あれは整形手術みたいなものだったと思って欲しい。ずいぶん、愛くるしくなってしまったけれどね」
そう言って、拓已は小さく笑った。
「そういう言い方は……ずるいわ」
私は、小さく溜息をつく。
「違いないな」
拓已は肩をすくめて、もう一度視線を下げた。
私は、忸怩たる思いで、そんな彼を見ていた。
彼には、そんな顔は似合わないと思う。だとしたら、私のすべきことは一つだろう。
私は、にやっと不敵に笑いながら、いつもの調子で言い放った。
「いつも言ってるでしょ? あんたみたいなセクハラの権化を、生類とは認めないって。あんたは、昔も今も、畜生レベルとはいえ人間の端くれよ」
拓已は、顔を上げて真っ直ぐに私を見つめる。
そして、安心したように息を吐くと、口の端をつり上げて軽薄に言い返した。
「なら、期待に応えなきゃな。せっかく美女と暗がりで二人きりなんだから」
それから、二人してお互いの顔を見比べると、どちらからともなく笑い出した。
馬鹿みたいに、この十年分の思いを込めて、私たちはただひたすらに笑い続けた。
――これが、「何か」から十年後の、私と拓已の後始末の顛末であり、私は見事に彼に説得されて終わったのだった。
付け加えると、別れ際に拓已は、こんなことを言い捨てて言った。
はっきり言って、この後もずっとお互いに親友であり続けた私たちの誰にとっても、そんな言葉は蛇足でしかなかったのだけど。
「長い間苦しませてごめん。僕のことは許さなくてもいい。それでも、灯のことは許してやってくれないか。僕を殺した彼女は死んだ。そして、今も死に続けている」
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