あの日から、私の時間は止まっている。

 毎朝、目が覚めると、私の貝のように閉じた目が、心が、涙を流している。

 そして、気づくのだ。その涙の理由に。自分が喪ったものの大きさに。

 呼吸が止まりそうになって、反動で過呼吸になって、全身が汗でぐっしょりになって――そこで私はやっと、頬を撫でるざらざらした感触に気づいて我に返る。

 拓已はここにいる。猫の姿で、私の隣にいてくれる。

 そんな朝を、繰り返している。

 ――それでも、私は幸せ者だ。


 ここから先は、私が語り手を務めようと思う。

 自分の親友のことは、自分の口で語りたいから。彼女がいかに強く、また優しい女性で、私がどれだけその強さに惹かれ、そして優しさに甘えてきたかを語らなければいけない。

 そして、語ろう。いまだ拓已を喪ったまま朝を迎える、優しすぎるひとの話を。


   ***


「……やめようよ。もういいんだよ」

 私は、拓已の喉を撫でる指を、再び動かしながら言った。

 ――マクベス1080テン・エイティ。それは警察庁の管轄にあるスパコンの名前だ。

 主に、プロファイリングや現場再現、そして暗号の解読に秀でたコンピュータだと聞かされている。

 その名前の由来は、シェイクスピアの著作「マクベス」に特定の規則を与えることで、何らかの意味のあるメッセージを総当たりで1080通りも見つけ出すことができる、という暗号でないものまで「解読」してしまうその能力から来ている。

 そんなモンスターマシンを、利用申請したひなちゃんの目的は――

 私は、見えてはいない親友の視線を避けるかのようにうつむいていた。

「……どうして?」

 静かに、ひなちゃんが聞き返す。

 その声は、さっきまでとは違って笑っていない。どこか、例えようのない必死さを堪えているのが、私の耳には分かる。

 実は、このやりとりは初めてじゃなかった。この十年の間、何度も何度も繰り返してきたことだった。

「もう、いいんだよ。ひなちゃんは、もっと自分のために生きるべきなんだ。私たちの過去に縛られていて欲しくない」

 そう、ひなちゃんは私たちのためにマクベスを使おうとしていた。

 十年前、私たちは一度マクベスのお世話になった。でも、マクベスはエラーを吐き出してしまって、歴史上初めて事件の解決に何の貢献もできなかった。それが、この事件が迷宮入りになった事情の一つだった。

 それでも、ひなちゃんは諦めなかった。優しい彼女は、諦めてはくれなかった。

 再度マクベスを利用できるようにひなちゃんは何度もはたらきかけて、その申請を出す権利があるのが警察関係者だけであることが分かったら、彼女は周囲の反対を押し切って警察学校に入り、ついには殺人課の刑事になってしまった。

 ――私たちのせいで、久遠和地雛の十年を歪めてしまった。

 積年の万感を胸に、私はただうつむいているだけの、卑怯者だ。

 ひなちゃんは、静かに私の言葉を聞いていた。その息づかいから、彼女がまだ興奮状態なのには気づいていたけれど。実際、ひなちゃんの強い視線を、私は視覚以外のすべてでずっと感じていた。

 話がいつもの平行線に向かうのを感じたのか、ひなちゃんは近づいてきて屈み込んだ私に合わせて腰を落とした。そして、私の肩にそっと手を置く。きっと今、私たちは互いに向き合う格好になっている。そして、閉じられた私の瞳を、熱いまなざしで容赦なく見つめているのだろう。

 その距離感で、ひなちゃんは一つ一つ、言葉を届け始めた。

「私は、諦めない。あなたを諦めないし、あなたの幼なじみのことだって諦めないよ。過去に縛られているんじゃない、ただ、負けたくないだけなんだ。これは、私が自分で選んだ道よ。ただ私だけが責任を負うべき私の人生。だから、それをあなたの言い訳にはさせない」

 凛と、彼女の声が静寂に染みていく。

 指が触れている、拓已の身体は震えていた。それは私も同じだから、気持ちはよく分かる。

 だって、仕方ない。こんな気高い言葉が、胸を打たないわけがない。心が震えないわけがない。それでも、彼女に報いることのできない私たちに、いったい何を言うことが出来るだろう。

 ひなちゃんは、一度大きく深呼吸をする。

 そして、打って変わって静かな響きで、疑問を口にした。

「……それとも、あなたは記憶を取り戻したくないの? あれからの十年も、私と一緒にいる今も、あなたにとって取り戻す価値のないもの、なのかな?」

 私の身体が、一度だけ、びくっと痙攣するように跳ねた。


 ――少しだけ、私のことを語ろう。

 十年前の事件で変わったのは、拓已とひなちゃんだけじゃなかった。

 何せ、私も当事者だったのだから。

 拓已は、私の目の前で殺された。そのときの記憶は曖昧で、でも、苦しみながら倒れる拓已のうめき声と、嘘のように暖かかった彼の血液の温度だけが、やたら鮮明に思い出せる。

 私の理性は、彼の死を受け入れられなかった。だんだん冷たくなっていく彼の身体を抱きしめながら、私は彼を喪うまいと手を尽くしたけれど、彼の命の灯が小さくなっていくことだけはどうしようもなかった。その圧倒的な喪失感に打ちのめされて、私は気を失った。そして、次に目覚めたとき、私の脳は記憶の記銘を放棄してしまっていた。

 心因性の前向性全健忘。私は、一日以上記憶を保っていることが出来なくなってしまった。毎日毎日、その日にあったことを忘れていく。

 この十年、私はずっと記憶をこぼし続けている。

 私の持つ最後の記憶は、拓已を喪う瞬間だ。私は毎朝、そこからやり直さなければいけない。

 朝が来る度、私の心は拓已を喪ったあの日に巻き戻る。そして、パニックになった私を、頬を伝う涙を優しく舐める猫のざらざらした舌が正気に戻してくれる。

 記憶がなくても、私にはそれが拓已だとわかる。なぜなら、例えいくつ年を取ったとしても、拓已を喪った私が考えることなど同じだから。私は結局、拓已なしには生きられないままだった。

 自分の身体の大きさと、もはや子猫ではなくなった拓已の成長具合で、私は今が十年前ではないことを知る。そして、枕元に日記帳代わりに置いてあるボイスレコーダーで、最近の出来事を聞き返すのだ。

 この十年の私の記憶は、このボイスレコーダーに吹き込まれていることがすべて。このちいさな機械が壊れたら、それは簡単に失われてしまう。

 だけど、私はそれでいいと思っていた。

 実際、対症療法ではあるが、本当は私の記憶を取り戻す手段はそれとは別にあるのだ。失う前に、それをデータ化して保存すればいい。その技術はあるのだが、ただ、私はそれを拒否している。

 なぜなら、拓已が記憶を失っているのは、私のせいだから。

 拓已の記憶を移植せずに、あろうことか電子の風にばらまいてしまった愚か者は、私だから。それを、後悔しているから。

 だから、拓已を差し置いて記憶を取り戻すつもりはない。そのことを知っているから、ひなちゃんはマクベスを使って拓已の記憶を取り戻そうとしてくれているのだと思う。

 ――だけど、これは償いなんだ。

 あの日までの記憶を失った拓已への、ささやかな代償だ。

 私たちは、記憶を分け持って生きていこう。あの日までを私が、あの日からを拓已が、それぞれ互いに覚えていればいい。

 拓已が、引け目を感じることなく私に依存できるように。私も、堂々と拓已に依存する。そう、決めた。

 だから、私たちにはもう、マクベスは必要ないのだ。


 肩に置かれた、ひなちゃんの手は震えていた。

 きっと、彼女も怖いのだ。聞いてしまったことが、私たちにとってどれほど決定的なことで、その結果何かが変わってしまうことも、何も変えられないことも、どちらも同じくらい怖ろしいのだろう。

 私は、肩の上のひなちゃんの手に、自分の手を重ねる。

 二人分の震えが、重なっていく。

「……記憶は、大事だよ。そこには私の大切な友達がいるから。私があなたにどれほど支えられてきたか。私があなたにどれほど感謝しているか。私があなたをどれほど大好きか。それがたくさん、本当にたくさん刻まれているはずだから」

 ゆっくりと、私は頭で言葉を選ばずに、心のままに言葉を届ける。

 ひなちゃんは、少しほっとしたように息をついた。

「だったら……」

 その言葉をさえぎって、私は続ける。

「でも。それほど大事なものを、私は手放すんだ。私がどこでどんなふうに生きて、誰を好きでいて、何を選んだか、そのすべてを拓已が知っていてくれるから。そう、信頼しているから。その代わり、私は拓已と生きた過去の日々を決して忘れない」

「そんなの、おかしいよ!」

 ひなちゃんが叫ぶ。

 彼女の怖れは痛いほど伝わっているけど、私は言葉を続ける。

「おかしくても、これが私たちなんだ。これが、私たちの絆なんだ」

 それを聞いて、いやいやをするようにひなちゃんが頭を振るのが分かった。

 私は、今度は自分の手をひなちゃんの肩に置いて、彼女を落ち着かせようとする。二人の額をくっつけて、ささやくような距離感で肩を抱き合った。

 ひなちゃんが、そっとつぶやく。

「じゃあ、私はどうなるの? 私との絆と、拓已との絆と、その二つを天秤に掛けて、拓已を選ぶってことなの? じゃあ、私のことはもうどうでもいいってこと?」

 私は、首を横に振る。

「違うよ」

「どう違うの!?」

 感情のまま、ひなちゃんは叫んでいた。

 私は、ここを間違えてはいけない、と感じていた。

 この答えを間違えれば、きっと、私たちは今のままではいられなくなる。

 だから、何も偽らずに、どんな思いもどんな矛盾も、正直に告げようと思った。

 私は、口を開く。

「私はね、拓已のことも、あなたのことも諦めない。確かに、この十年私はずっとあなたのことが大好きだった。でも、過去のどの私よりも、今の私の方が、絶対にあなたのことを大好きだわ! 過去の私なんて見ないで、今の私のことだけ見ていて。だって、記憶のない私にとって、過去の自分なんか他人も同然だもの。私の前で、他の女の話なんかしないでよ」

 それを聞くと、え、とつぶやいて、そのままひなちゃんはしばらく無言だった。

 ぽかんとしていたらしい。

 そして、しばしの放心の後に、ひなちゃんは声を上げて笑い出した。

 釣られて、私も笑い出す。足下では、やれやれというように、拓已が後ろ足で耳の後ろを掻いているようだった。

 笑いすぎか、それとも安心からか、少し涙声になりながらひなちゃんは言う。

「あなたって、わがままで、強欲だわ」

「知ってる。よく言われるよ」

 当然のように、私は笑みを返した。

 そして、私たちはお互いの身体に腕を回して、どちらからともなく抱きしめ合う。ひなちゃんの鼓動が、どきどきと音を立てていて、それがなんだか無性に愛しかった。

「大好き」

「私もよ」

 そんな睦まじい言葉が行き交う。

 そのまま、二人はしばらくそうしていた。拓已も、このときだけは茶化さずに、すっとぼけて寝たふりをしていた。

 時間は今、きっとどの主観から観測しても、穏やかだった。


 ――だから。

 聞こえてきたこんな言葉は、たぶん気のせいだ。


「でもね。このままだと、私にとってあいつはずっと死んだままなのよ」

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