拓已

 これは、後始末の物語。

 何かが起こる話ではない。起こってしまったあとの、今更どうすることも出来ない、ただそれぞれがそれぞれにけじめを付けるだけの、「何か」から十年後の話だ。

 そんな手遅れな物語を、あなたがもし許せるというなら、僕はそれに甘えて語り出そうと思う。

 事の起こりは、彼女からだった。



「通ったわよ!」

 呼び鈴を鳴らし、それに家人が応対する暇も与えずに、玄関をくぐるや否や彼女はそう叫んだ。

 その突然の闖入者に、僕はモラルやマナーや刑法についての話をとくと聞かせてやろうと思ったが、無駄だと思い直す。かぶりを振りながら、軽口で応じることにした。

「玄関を通過したということなら、事後報告をありがとう。だけど、我が家にそんな報告義務はないし、それより次回からは家人の了解を取ってから通ってもらえるとよりベターだな」

 すると彼女は、自分の興奮に水を差されて目に見えて不機嫌になりながら、こちらを睨みつけてくる。

「そんな報告するか! 通った、って言ったら何のことか分かるでしょうよ!」

 その勢いを、僕はうんうんと頷きながら受け流す。

「そうだな、僕とひなっちの仲だしな」

「ひなっち言うな!」

 僕の親しみを込めた愛称は、彼女にぴしゃりと却下された。

 この彼女、名を久遠和地雛という。姓をくおわぢ、名をすうと読む。

 名前の「雛」を訓読みして「ひな」とするコンバートは、彼女の友人たちの間では一般的で、僕もそれに倣ってみたわけだが、何故だか僕の場合は受け入れて貰えない。そこに込められているのが、愛敬ではなく皮肉だとばれてしまっているのだからしようがない。

 僕は、これ見よがしにため息をつき、肩をすくめながら会話を再開した。

「まあ、通っていないと心身にとって不健康だし、何よりじゃないか。でも、嫁入り前の娘さんが、そういうことを人前で言いふらすのはあまり感心しないな」

 雛は、表情に疑問符を浮かべる。

「何の話よ?」

 僕は、ここぞとばかりに口の端をつり上げた。

「何って、便通」

「……死ね! この毛玉!」

 そう、雛は顔を赤くしながら叫んで、足下の黒猫にローキックを放ったのだった。

 ――ここで一つ、言い忘れていたことを注釈しなければいけない。

 ええと、そう。吾が輩は猫である。名前は既得だ。

 しかし、厳密にはそれは、僕の生前の名前と言うべきだろう。お察しの通り、生前というからには僕は死んでいる。

 僕の名は、足吏拓已と言う。たり・たくみ、と発音する。

 その名をもし大手検索エンジンで検索にかけたとすると、十年ほど前に世間を賑わせた一つの事件にたどり着くだろう。齢十五にして、殺人事件の被害者として惜しまれながらこの世を去った、一人の少年に関する事件だ。

 被害者がまだ十代の少年であったことも十分衝撃的ではあったのだろうが、この事件が世間を賑わせたのは事件そのものというよりもその後の経過のほうだ。それはともかく、この事件の犯人はいまだ捕まっておらず、真相は迷宮入りである。

 もし僕が、僕ではない他の誰かであったら、僕の名前は痛ましい記憶として人々の心の中で風化していき、電子の網の片隅に引っかかる程度の藻屑となり果てていたことだろう。

 しかし、幸か不幸か僕は僕なのであって、僕の名前はまだ呼吸を続けている。

 ――その担い手は、猫になってしまったけれど。

「痛いよ、ひなっち。生類をもっと哀れもうよ」

 なかなか鋭いのを尻にもらった僕は、雛を見上げながら抗議した。

「……生類はセクハラをしない。しかしあんたの半分はセクハラで出来ている。よってあんたを哀れむべき生類とは認めない」

 見事な三段論法だった。雛は論理と黄金の右足を武器に、文字通り僕を一蹴する。

 それならば、と僕は食い下がってみた。

「ならば、僕をセクハラの担い手たる人間と認めるわけだね。哀れにも生類の中に封じ込められてしまった、悲しき宿命を背負う人間、それが僕だと」

 搦め手から同情を誘う作戦。しかし、雛はそれをものともしなかった。

「塵は塵に、灰は灰に。そしてケダモノはケダモノにってね。そもそもあんたみたいな畜生レベルの魂が、人間様の皮を被っていたのが間違いだったのよ。元の鞘に納まった感じ?」

 僕の状態を、ここまで酷評できるのは彼女くらいのものだろう。

 ただ、雛は間違ったことを言ってはいない。

 ――十年前。僕が命を落としたその日。

 僕という存在は、猫に移された。

 人の魂は、側頭葉に宿る。それが僕の幼なじみの少女の持論だった。

 側頭葉、さらに言えば主に情動判断を司る扁桃体に蓄積する価値判断に関するデータ、それこそが人間を個に峻別するもの、いわゆる個性を形成する、とかなんとか。その価値評価データベースを、彼女が猫の側頭葉にインストールしたのだ。

 もちろん、このときの猫はただの猫ではなく、遺伝子操作で人工的に脳を発達・肥大化させられた個体だった。その猫も、彼女が開発に関わっていた。

 ――僕の幼なじみは天才だった。わずか八歳のときに書いた「作文」が、海外の科学雑誌で「論文」として紹介され、それがきっかけで米国の某大学の研究室から声がかかり、そこで残したいくつかの功績は脳科学の革命とまで呼ばれ、この分野でのビジネスチャンスを開拓してしまった。

 その中で最も実用化が早かったものが、「あなたの個性、保存します」をキャッチコピーにした人格データベース化サービスであり、「あなたの愛犬は、まだ喋らないんですか?」と問いかけるCMでお馴染みの、人語を操るスーパーペットである。

 ただ、この二つの技術を組み合わせることで、僕のような脳科学的フランケンシュタインを生み出してしまえることに、当時は誰も思い至らなかったのだが。

 沈着後価値評価の選択的肥大化大脳畜獣への意図的遷移。

 ざっくばらんに言えば、僕と同じ好き嫌いをする猫を作った、ということだ。

 紛らわしいのだが、あくまで性格をコピーしただけで、記憶は移植されていない。だから、僕の持っている記憶はこの十年間のものだけであり、それ以前の出来事の知識はみんな伝聞やネットサーフィンで得たものである。

 人の性格は、過去の記憶によって形成されるのではないか?

 その問いには、人の記憶には、個人の性格のバイアスがかかっているのではないか? という問いで返そう。卵が先か鶏が先か、というのは進化論者の好きな言葉遊びだが、即物的な僕の幼なじみに言わせれば、チキンが食べたいときに卵を渡されたら黙って懐で暖め始めるのか、ということらしい。よく分からないが、そういうことで納得して欲しい。

 この十年間の、人権保護団体、倫理学会、動物愛護団体、人間本位な宗教団体、その他大小さまざまな思想の団体との折衝は割愛しよう。

 とにかく、僕は、非常識なまでに天才な幼なじみのおかげで、今ここにいる。

「まあ、魂はケダモノさんのもので、僕は客人にすぎないんだけどね」

 雛の罵詈雑言を受け流しながら、僕は肩をすくめる。

 昔から彼女の口は悪かったが……しかしまあ、僕は知っているのだ。

 雛は、違うのだ。僕の境遇を知ってから、口先では慰めの言葉を吐きながらも、猫畜生の姿をした僕を敬遠し始めた他の友人たちとは違う。口先では毒を飛ばしながらも、僕と今までと変わらない距離感で接してくれている、心根の優しい女性なのだ。

 実際、彼女ほどの善人を僕は知らない。悪いのは、口だけなのだ。

 そんな彼女の優しさには気づかない振りをして、僕はいつも軽口で応じている。それを、雛も望んでいるから。

「それにしても言いたい放題言ってくれたな。だが……いいのか?」 

「な、何よ」

 突然強気な態度に出た僕に、雛は少したじろぐ。

 それを見逃さずに僕は、勢いに乗ってまくし立てた。

「貴様は猫の愛らしさを舐めている。冷静さを装ってはいるが、僕には分かる。貴様も内心はこの僕の毛並みを、思うさまもふもふしたくて辛抱堪らないはずだ。ほらぁ、猫撫で声で哀願すれば僕を愛玩させてやらぬこともないぞぉ?」

 そう言って、僕は上目遣いになり、全身で彼女に媚び始めた。

 雛は、何を馬鹿なことを、と鼻で笑おうと僕を見下ろして、そこで硬直する。次第に、次第に表情が緩み、ゆっくりとかがみ込む。そして、思わず手を伸ばそうとして、はっと我に返りぶるぶると頭を振る。

 ちょろい、と僕は思った。

 しかし、これは仕方のないことだ。なにせ、猫の愛らしさに抵抗の出来る人類など皆無に等しい。そして、僕は黙っていれば黒猫そのものの外見なのであり、三段論法による論理的帰結から言って、僕は超愛くるしいのである。

「あー、ひなちゃんだ」

 そこへ、BPM60くらいのスローテンポで、呑気な声がかけられた。

 僕が振り向くと、そこにはまだ寝起きで、可愛いピンクのパジャマ姿の女性の姿があった。

「ともちん、会いたかった!」

 すると、僕の魅力の前でただうずくまっていたはずの雛が弾けるように立ち上がり、響いてきた声のほうへ駆け寄った挙げ句に僕の尻尾を踏んでいった。

 僕は、しばし悶絶しながら、睦まやかに抱き合う二人の女性を見上げることしかできない。

「ともちん、あなたに会えない日々は、一日が千秋的な感じだったわ!」

「うん、私も会いたかったよ」

 そう言いながら、雛の首筋に鼻を埋めるパジャマの彼女は、気持ちよさそうに目を閉じている。

 いや、彼女が瞳を開かないのは、生まれつきだった。

 この女性、雌面灯は盲目だ。

 ともちんと呼ばれていたのは、彼女の名前にそのまま由来する。姓をめめん、名をともりと読む。

 実はこの灯が、前述した僕の幼なじみである。

 人間は、障がいなどで感覚が閉ざされると、その感覚を司っていた脳のリソースが解放されて別の才能に秀でる、という話を聞いたことがあるかもしれない。

 生まれつき光を閉ざした瞳で生まれてきた彼女は、成長するにつれて、天才的な数学的思考能力を発現させていった。

 時代も彼女に味方した。アクセシビリティの技術の発展によって、インターネットブラウザは情報を読み上げ、コンピュータプログラムはタッチタイピングのみで完全に操ることが出来た。技術は、彼女から教育の機会を奪わず、灯は十代で世界的な脳科学の権威と呼ばれるまでになった。

 雛は、その頃からの灯と僕の共通の友人だ。

 灯と雛は、性格も生い立ちも全然違う二人だったが、どういうわけか不思議と馬が合っていたようだ。速さの違う歯車のような二人は、その間で尊敬や愛情や憧憬を噛み合わせながら、互いの関係を加速させていた。

 少々、行き過ぎなくらいに。

「ひなちゃんの匂い、なんだか落ち着くな」

 視覚で相手を確認できない灯が、かわりに嗅覚で雛を確かめ始める。

 それをくすぐったそうな笑顔で受け入れながら、雛は一層強く灯を抱きしめた。

「ちょっと痛いよ、ひなちゃん」

「だめ、離してあげない。今、灯分を補給中だから。しばらく会えなかったんだもん、私の身体がともちんを求めているんだよ」

 灯分はともりぶんと発音する。雛いわく、灯分は灯に含有されているふんわりして甘い成分だそうだ。主な摂取方法は抱擁である。

「よく分からないけど、分かった。頑張って分泌するね」

 抱きしめられたまま、灯がむーんむーんとうなり始める。その行為によって化学的にはたいした変化は起きなかったが、僕と雛は確かに場が和んでいくのを感じ取っていた。出てる、確実に出てるよ灯分。

「あーもう! 可愛いな畜生! なんだこのかわいい生物は!」

 雛も辛抱堪らなくなったようだ。

 その後も、「私の方が会いたかった」「えー私の方がもっとだよー」などと僕の前でイチャイチャしてやがったので、そろそろ邪魔をしてやることにする。

「はいはい、御馳走様」

 声をかけて、僕は二人の脚の間に身体を割り込ませる。

 僕に気づいた灯は、おはよう、と言いながら屈み込んで僕のあごを優しくなで始めた。雛もしぶしぶ灯から離れ、少し僕から距離をとる。

「それで、今日はどうしたんだ?」

 灯の指が気持ちよくて、こればっかりは猫としての肉体を持つ性であることだなあ、などと僕は上機嫌に喉をごろごろ言わせながら、思い出したように雛に本日の用向きを訊ねた。

 あんたがそれを言うのか、というふうに雛が僕を睨んできたが、それには気づかない振りをする。はぁ、と雛は溜め息をついたが、すぐに真剣な面持ちで顔を上げた。

「通ったの、やっと。十年もかかったけど」

 灯の動きが止まる。僕の喉に手を添えたまま。

「それって……」

 灯の問いかけに、雛は強く頷きを返した。


「そう。再利用申請よ。マクベス1080のね」

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