第23話 未来の話

「——永遠さん」


 お風呂上がりの永遠とわさんを俺は正座で迎える。


「話があるんだ」

「お話……なんでしょうか」


 ホカホカの蒸気を纏った寝巻姿の永遠さんは俺の改まったようすに合わせて静かに腰を下ろす。


「えっと……」


 緊張していた。

 簡単な言葉のはずなのに、それは喉の奥につっかえたように出てこない。


 言うに言えず、沈黙が生まれてしまった。


「わかりました、伊月さん」


 やがて永遠さんは先手を打つように破顔して頷く。


 そして近くの収納へと手を伸ばすと、クリアファイルの中から一枚の用紙を取り出した。


「婚姻届ですね。もちろん用意しています」

「は?」


 いやいやいやいや、なんの話!?


「伊月さんがとても緊張したようすでしたので、婚約についてのお話かと思ったのですが…………それとも、もしや家族計画のご相談でしょうか。大切ですもんね。私もお話したいと思っていました」


「い、いや、その…………」


 なんだか話がどんどんおかしな方向へ進んでいる。


「…………違いましたか?」


 永遠さんは婚姻届から顔をちらりと覗かせて、俺に伺いを立てるかのように控えめに囁く。

 

「ち、違いません」


 あまりにも可愛かったのでこの選択に後悔はない。



「えっと、どこを書けばいいのかな。ごめん俺、ぜんぜんわからなくて……」


 急遽成り行きで始まってしまった、婚姻届の書き入れ。


 真新しいテーブルの上に置かれた一枚の用紙に俺は圧倒されていた。


「私も初めてですので拙いかもしれませんが、知識としては持ち合わせています。レクチャーしますね」


「う、うん。ありがとう」


 そういえば永遠さんは元々用紙の準備を済ませていたんだよな。俺よりずっとずっと先のことを、本気で考えて。


「ふたりで一緒に、作っていきましょう」


 隣に座った永遠さんは身体が触れ合うほどに密着して天使のように優しく微笑む。お風呂上がりの火照りが伝わり、シャンプーの香りが漂ってきた。


 ああ、俺、今からこの人と結婚するための用紙を書くんだ……。


「ではまずこちら、”夫になる人”という欄に伊月さんのお名前を——」


 永遠さんに教わりながら、空白だらけの用紙を一つずつ埋めていく。


「そしてこちらは、”妻になる人”。つまりは、私ですね」


 少しずつ、少しずつ、俺たちの未来が形作られていく。


 それを意識するたびに心が燃えるような熱さを宿した。今が幸せだと思う心地以上に、隣の女性を幸せにしなければいけないと感じた。


「……よし」


 これで残りの空白はあと、1枠。


「こちらは証人となる2人の方に署名していただく必要があります」

「証人?」

「私たちに結婚の意志があることを証明してくれる人、ということです」

「なるほど……」


 となると、誰に書いて貰えばいいのだろう。


 永遠さん周りの人間関係を俺はよく知らない。知っているのは家族も友人もないということくらいだ。


「伊月さんのご両親、お2人共にお願いすることは可能でしょうか」


「え?」


「一般的にはお互いの関係者それぞれから署名いただくことが理想なのでしょうが……私にはそう言った人がいませんので」


 永遠さんの瞳がわずかに伏せる。

 何でもないことのように振る舞っているが、寂しくないはずがない。むしろその感情を人より強く感じてしまうのが彼女なのだ。


「わかった。そうしよう」

「ありがとうございます、伊月さん」


 丁寧にお辞儀する永遠さん。


「それでは、近々ご挨拶に伺わなければなりませんね」

「うっ、そ、そうだね……」


 証人になってもらうということは、婚姻届を出すということは、つまりはそういうことだ。決して逃げられないイベントである。


 一瞬狼狽えてしまったが、密かに覚悟を決める。


「早い方がいいかな?」

「いえ、急ぎません。婚約は魅力的ですが、今の恋人という関係をもう少し楽しむのも、とても素敵だと思います……♪」


「それはたしかに言えてるね」


 俺たちは恋人になって日が浅い。

 今すぐステップアップするというのは、寂しい気もした。


 しかし、今のこの昂る気持ちをいつまでも野放しにはできないだろう。


「年末年始でどうかな」


 およそ2ヶ月先に迫った大学の冬休み期間を俺は提案する。

 こんな理由でもなければ帰省なんてしないと思っていたが、いい機会だ。


「俺の家族に、会ってくれますか?」


「はい、喜んで」


 婚姻届の提出は両親への挨拶を終え、年を超えてから。


 今はまだ、恋人の日々を楽しもう——


「と、いうことで……」


 話を戻したい。


「……? 伊月さん?」


 永遠さんは銀髪を揺らして首を傾げる。


 ええい、もう緊張なんてしていられるか。


 俺たちは今、もっともっと重大な未来の話を済ませたところなのだ。


「永遠さん」


 俺はふぅっと息を吸って、腹に力を込めて告げる。


「今度の週末、デートに行きませんか?」 


 それは俺から愛しい恋人へ向けた初めての、正式なデートのお誘いだった。

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