第19話 永久就職

 あれからずっと永遠とわさんとエッチしていない。キスだって部屋を借りるときの一回きり。


(先週までは永遠さんの方から誘ってくれるくらいだったはずなのに……)


 なんとなく気まずいような気持ちが消えなくて、自分からは何も言えなかった。


「伊月さん?」

「え?」

「美味しいですか?」

「あっ」


 せっかく永遠さんが夕飯を作ってくれたと言うのに何も言わず黙々と食べてしまっていた。


 今日はデミグラスハンバーグ。


 例によって


「もちろん美味いよっ」

「ふふっ、それなら私のも少しあげちゃいます」


 永遠さんは嬉しそうに笑ってハンバーグを一口切り分けると俺の皿に移してくれる。

 残り少なくなっていた俺のハンバーグが復活だ。


「いいの?」

「私は伊月さんが美味しく食べてくれるのが何より嬉しいので」

「そっか。じゃあ、ありがたく」


 一口だけだし、変に遠慮することもないかな。


「美味い! 永遠さんの料理は世界一だね!」


 感想は少し大袈裟なくらいに言うことにした。いや、俺にとってはほんとに世界一だけど。


 夕飯時が終わると、まったりお茶を飲む。


「もうすぐこのお部屋ともお別れですね」


「そうだね」


「だいぶ寂しくなってしまいました」


 せまい部屋はすっかり片付いて、隅には段ボールが積まれていた。


「永遠さんのおかげで作業がスムーズに進んだよ。ありがとう」

「いえいえ。伊月さんが大学へ行っている間、当然の仕事をしていただけですので」


 力仕事もあっただろうに、永遠さんはメイドとして謙遜もなく答える。


「ふふ。そんなに長く住んでいたわけでもないのに、ここには伊月さんとの思い出がたくさんありますね」


 儚げに部屋を見渡すその瞳は、本当にここでの日々を愛おしく思ってくれているように見えた。


「じゃ、じゃあさ、最後の思い出に——」


「そろそろ寝ましょうか、伊月さん」


「え、まだ早くない?」


「明日は忙しい1日になりますよ」


「そう、だね。そうしよっか」


 下手くそな誘いはかわされたのか、そもそも気づいてもらえなかったのか。


 メイドさんと過ごしたこのせまい部屋での日々は終わりを告げた。



 ・


 ・


 ・



「ありがとうございました〜」

「お疲れ様です」


 引越しのお兄さんさんたちにお茶を渡して労い、見送った。


 1LDKのカップル専用部屋には、いくつかの段ボールや家具たちが並ぶ。

 

「さて」


 ここからは住人の仕事だ。


「さっそく始めますね。伊月さんは——」

「俺も手伝うよ。力仕事は任せて」

「……はい。初めからそのつもりでしたよ。よろしくお願いします」


 それからひたすらに作業、作業、作業だ。


 永遠さんと家具の配置やなんかについて話し合いながら、2人で暮らす部屋を彩っていく。


 それはキツいよりも存外楽しい時間で、夢中になってこなしていたらすぐに夕暮れを迎えていた。


「こんなところかな」


 大体の荷解きが終わって、俺は汗を拭う。


 以前とは見違えるように綺麗で、そして2人で暮らすことを前提とした内装。


 ここは、同棲カップルの部屋なのだ——


「永遠さん。悪いけどあと細かいところは明日から昼間のうちに————え? 永遠さん?」


 視線を向けた先で、メイドさんは背筋をピンと伸ばして正座していた。


 大きな瞳が俺を射抜く。


 そしてゆっくりと上半身を傾けると、床に手をついて最敬礼した。



「改めて、ご挨拶申し上げます」



「え……?」



わたくし白雪永遠しらゆきとわは楠原伊月さんの元へメイドとして、そして、恋人として——永久就職させていただきます」



 これが、恋人に浮気されたこんな情け無い俺に人生のパートナーができた瞬間である。

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