第8話

そのマンションの階段を上がっていくと三階の中央にあるところが依那よなの自宅だった。先程言われたとおりに彼女は部屋を片付けた後僕を中に通して上がらせてくれた。


一見して築五十年の建物とは別に室内は小綺麗な白い壁が張り渡り、クローゼットの隣にもハンガーチェストに衣服がたくさん掛かっていて、テレビやローテーブルに二人掛けのソファ、その隣の居間にベッドが置いてある一LDK弱の狭い間取りだった。

ソファに座って待っていて欲しいと告げると彼女は台所へ行きやかんの湯を沸かしていた。

やがて紅茶か何かの良い香りがしてきて僕の前にローズヒップのハーブティを差し出してくれた。


「結構狭いでしょ?なんかこういう所見せてしまってがっかりさせてしまいましたよね……」

「本音を言うともっとタワマンとかに住んでいそうな感じがしていたよ」

「今、まだ貯金しているからなかなか引っ越しとかできなくて。あともう少し我慢しないと……」

「頑張っているんだね。何事も努力家って感じでさ、倉木さんのそのたくましさが憧れるよ」

「見かけが強そうってよく言われます。なんか女の人ってメイクとかして強気で構えているけど、本当はもっと優しくいたいって思っている人の方が多いし」

「妻もそんな感じかな……」

凪悠なゆさんってそんなに強気って程でもないですよね?どちらかというと気さくっていうか、近寄りやすいから話していても気が楽な感じもするし」

「まあそうだな。分けへだてなく仲良しになるとずっと長く関係も続いていけるところもあるしな」

「良い奥さんじゃないですか」

「そうか?そうかな……」

「実際問題、冷めているとか?」

「結婚して八年経つんだ。確かに当初よりかはお互い冷静さの方が強い傾向にあるかな」

「セックスとかは?」

「えっ?」

「だって自然な事ですよね?夫婦なら最低でも月に一、二回はしているんですよね?私の友達も何人か結婚していますがセックスって大事だよってみんな言っている。浅利さんはどうなんですか?」

「随分ストレートに聞いてくるね。まあ……それがさ、ここ数年の間あまりしていなくてね」

「それってヤバくないですか?子どもとか考えていないんですか?」

「僕らの場合は仕事中心の生活をメインにしていこうってことで作らないことに決めてあるんだよ」

「そうなんだ。まあそういう人も中にいっぱいいますしね」

「その頻度が減ったとしても夫婦仲は変わらないし、僕らはそれで良いんだって割り切っているよ」

「やっぱり余裕ある大人って感じがする」

「話を変えるんだけど……以前倉木さんが風俗で働いでいたって話なんだけどさ、あれ何でやめたの?」

「ああ。当時の付き合っていた彼氏にやっているのバレて猛反対されて強制的にやめさせられたんです。まあちょうど納得のいく貯金もできてきましたしやめてよかったです」

「変な聞き方するけど、風俗で働くメリットって何だった?」

「色んな男の人の話しとか聞ける事が楽しかったかな。それなりの性格も生活も個性があって接客の勉強にもなりましたよ」

「ただそれって当時の彼氏しか知らずに働いていたっていう事だったんだよね。他の人に話せなくて辛くなかった?」

「もう忘れましたよ。お金を稼ぐ事が第一だったし、店長から人気があるからやめないでくれって言われたけど、きっぱり潔くやめてよかったですしね」

「人気かぁ。たしかに、ありそうだよな……」

「あのね、もう終わった事ですからそれ以上変な妄想なんてしないでくださいね」

「し、していないよ。今となってはデパートで働いている倉木さんの方が素敵だし。今の方が……僕は好きだな」

「好き?」

「うん。好きだよ。活き活きしているし一緒にいて楽しい」


依那は膝を抱えて少し俯いた。僕はそっと彼女の片手を握りしめて意をもって語りかけた。


「前からずっと倉木さんの事気になっていたんだ。なんていうか……女性として見たいなって惹かれていったんだ」

「もしかして……私の事…知りたくなった?」

「ああ、知りたい。今以上に知りたいんだ」

「二股かけても知りたい?」


僕は返答をせずに彼女を後ろから腕を伸ばして包み込むように抱きしめた。彼女は僕の名前を呼ぶが無言で少し強く抱きしめる。


「凪悠さん構ってくれないんですか?」

「先月一回だけしたよ。向こうはイッたみたいだけど、僕は何も感じなかった。その分余計に気持ちの段差を感じる」

「……一旦離れてください」


依那は僕の腕を掴み身体を離して僕の正面を向き正座をした。


「凪悠さんも、気づいていると思います。本当は二人でイキたいって……」


その事くらいは僕もそうしたかったのに、セックス抜きで暮らしていきたいと言ってきたのは凪悠の方なのだから、僕も自制してずっと我慢してきていた。その本来の在り方が何なのかが地割れするかのように築いてきた地層が傾きずれていくのをやめないのだ。


「私を抱きたくて今日ここに来たかったんですよね?」

「……そうだよ。同窓会の時からずっと気になっていて、自分の気持ちが抑えられなくなった。君という人間がどんな人か知りたい。たゆまないその奥にある信念が、何でできているのか知りたいよ。いや、なんか……明らかに、間違えているよな……」

「浅利さん、こっち見て」


依那は僕の眼鏡を取り外しテーブルの上に置いて、頬に片手を添えて、唇に指でなぞり始めた。


「何時間一緒にいたいですか?」

「二時間……くらいはいたいかな」

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