第7話

 死ぬ。


 その言葉がごく自然と頭をよぎるほどに、凄まじい威圧感だ。

 

 意識のすべてが目の前の龍へと強制的に向けさせられている。たった一体の、馬ほどの大きさの生物が……今この瞬間、今まで見てきた何よりも莫大な存在感を放っているのだ。



『う……あ……』



 威厳、神聖さ、恐怖、不安、危機感。様々な要素が一体となり、私の中に畏怖という形で根を張る。一度圧倒されてしまうと、もはや自分の意思では体が動かない。体は強固だが、精神は人間のままなのだ。さながら蛇に睨まれた蛙の如く、硬直してしまっている。



 ≪コード4-4-1 “コルムトニトラム”発動 対象:コルムトニトラムの鎮静化または自身の撤退行動の支援を開始します ……“跳躍”≫



 瞬間、私は背後へと引っ張られる感覚と共に、龍から引き離された。数瞬の間を置き、それがコトさんによって強制的に発動させられた跳躍だと理解する。



 ≪退避してください 現在の装備ではあれに勝つことは不可能です≫


『あ、ああ!』



 彼女にしては声を張った、叱咤の言を受けてようやく体が動き出す。距離が離れたおかげか、先程よりは多少威圧感がましだ。私は龍から目を離し、脱兎のごとく全力疾走の逃避を始めた。勿論ダッシュに並行して跳躍を使うことも忘れない。



(探査機能はどうした!? 熱源探知も動体探知も魔力探知だって起動してた! なのに、あれだけ近づかれるまで全く気付かなかったぞ……!?)



 赤毛大熊などこれまでの生物に対しては確かに機能していたはずが、アレに対しては一切働かなかった。


 ……いや、違う。働きはしているのだ。なぜならば、現在進行形で私たちの背後で反応が大きくなっていっている。大きく、大きく、莫大なエネルギーを湛えていく。ヤバい。


 反応が大きすぎて気付けなかったのだ。



 全力を込めた疾走により、草木は一切の躊躇なく蹴り飛ばされ地面のアスファルト質な舗装が一歩ごとに砕かれ陥没していく。どうせここにはもう人なんていないんだ。景観への被害なんて知ったことじゃない。生態系もこの程度じゃ乱れない。


 遭遇から30秒が経過。都市部を抜け森林地帯に至るところまでに来た。2,300メートル近く距離を離したはずだが、しかし一切安心できない。この程度の距離では全く足りない。



 ぴしゃん



 そうだ。足りないのだ。


 私たちをはるかに上回る速度で、龍は再び私たちの前に現れた。私のようなテクノロジーによる瞬間移動じゃない。ただ純粋な、生物としての身体能力による雷のような圧倒的高速移動だ。



『っくそ!!』



 眼前にいる黄金の龍、その常軌を逸した速度につい悪態をついてしまう。私はすぐさま踵を返し、今までの道を逆走し始める。しかし、このまま馬鹿正直にまっすぐ進んでも再び追いつかれるだけだ。故に。



(速度でダメなら……複雑さで!)



 私は走る最中、自身の右方、入り組んだ路地へと意識を向けた。そしてそのまま、体の角度を変えることなく真横に“跳躍”を行う。慣性のベクトルが直角に折れ曲がり、私は速度を維持したまま路地の中へと突入した。


 客観視できないため実際のところどのように見えるかは不明だが、傍から見たら私がいきなり消えたように見えると思う。跳躍は音も光もないため実にシンプルなのだ。



(まぁこの程度で撒けるようなら……苦労はしないさ)



 私が跳躍を行った地点まで、認識すら難しい速度で巨大なエネルギー反応が移動してきた。しかもこちらへ向き直ったような動きさえ見て取れる。これはもう完全に気付かれているな。



(まだまだ……! こんなもんじゃないぞ…!!)



 私は自身の身体能力をフル活用し、地面のみならず建築の外壁や突き出た木々を利用して路地裏を強引に、複雑に移動していく。目的地は……上だ。



 上へ、上へ!!



 外壁を三角跳びの要領で蹴り、浮いた身体を反対側の外壁へ降着させ、再び蹴り上がる。勿論“跳躍”も怠らず、一つのビル間に留まることなく移動し続ける。何か私の中でスイッチが入ったかのように、経験したことのない速度で移動していく。


 そして周囲にビルがなくなれば、時には爪、あるいは腕そのものをビルの壁を打ち壊すがごとく強引にたたきつけ、その場に食い込ませることでとっかかりを作ってはさらに上へ向かった。普段よりも一段と体が良く動く。これが火事場の馬鹿力というものだろうか。



 数十秒の間に、私は遥か地上を見下ろすまでに高所へと至る。

 逆三角の上面、イェルマスの屋上へと。



『ははは……! こんなことになるんなら最初からこうして上った方がよかったなぁ!!』


 ≪……≫



 これまでよりもはるかに激しく動いたためだろうか、少し体が熱いように感じる。いや、それだけじゃないな。私は興奮している。精神が昂ぶり、歯を剥き出し口角が上がるような感覚を覚えている。視界が少し赤いように見えるのも、この気のせいだろうか。



(基本的に生物は短時間で激しく高低差のある移動を得意としない。運動能力もそうだが、物理法則や視野などがによっても阻害が起きる。あの龍は平地ではすさまじい速度で追いついてきたが、高低差ならどうだ? これで追ってくるようならば、その間に私は地上へ降りてまた攪乱を……)



 ……いやまて、奴は今何をしている? そもそも追ってきているのか……? 確認するべきじゃ……



 ≪警告 高圧縮魔力が私たちへ向けられています 退避を≫


『……くそ』



 興奮冷めやらぬ中、私は龍の反応を確認して舌打ちをした。

 魔力の反応が小さくなっている。それだけならいい。問題はその密度だ。魔力の量はそのままに、その規模だけが小さくなっている。そしてそれは今まさに私たちへと向けられているのだ。


 コトさんが警告と発した辺りで既に私の足は動き出していた。できるだけこの場から距離をとろうと。しかし、視界の端に映る魔力の塊は今にも解き放たれるだろう。“跳躍”は間に合わない。そう判断するや否や、飛び込むように私はその場に転がった。



 瞬間、天へ向けて光の柱が立つ。



 閃光と共に、イェルマスの一部が今の今まで私が居たところを含めて消し飛んだ。

 塵ひとつ残らず、完全に。あたかも今までそこに、何もなかったかのように。



『冗談じゃない…!!』



 光が消え、その場にはただ空間が残された。瞬間的に生じた虚空へ向けて空気が移動していく。危険な攻撃が来ることは察せていた。だが、まさか軌道にあるすべてを蒸発させるだなんて。



『超高強度…エネルギーキャノンか…!?龍なのに完全にSFしてやがる!!?』



 私はこれを夢だと思いたかった。……当然、それは許されなかった。



 ≪警告 極小規模のガンマ線バーストによる狙撃を確認しました 引き続き退避してください≫



 なり止まないアラートにはっとして、よたよたと立ち上がる。彼我の差は圧倒的?

 そんなものじゃない。そんな程度の話じゃない。アレは理不尽だ。



 衝撃を受け動くことすらまともに行えていない私に、運命はあざ笑うがごとく現実を叩きつけてくる。



 ふわりと浮かび上がってきた金色が、目の前に降り立ったのだ。



 余裕綽々といった風情で優雅に歩き、ごく自然に見下すような視線を向けられる。

 それはまるで、私たちを観察しているかのようで。


(いや……間違いない。私たちは……観察されているんだ)


 これだけの至近距離にいるというのに、龍は先程の狙撃のように攻撃してくるでもなく、ただただじっとこちらを見つめている。実力差は邂逅時点で既に十分以上に理解できている。勝てるわけがない。やろうと思えばこちらをすぐにも消し炭にしてしまえる……いや、消し炭すら残らないだろうと、これまで死線など経験したことのない私でさえ理解できてしまう程度には……馬鹿げた存在だ。


 そんな奴が手を出さずにこちらを見つめている……これが意味するのは一つだろう。私たちをどうするか、じっくりと見定めているのだ。



(ダメだ……逃げても無駄だし、暴力で訴えるのも児戯以下だ)



 どうする? どうすればこの事態を切り抜けられる? 



『……コトさん。私に、龍の情報を送って。できるだけ詳しく』


 ≪はい≫



 意図を察したのであろう彼女の短い返答と共に、私の中へ情報が流れてくる。以前にも味わった激流に等しい情報量だが、今は出し惜しみしている場合ではない。打てる手は多い方がよいに決まっている。



 コルムトニトラム金の角を持つ雷の聖者

 

 膨大な魔力……超常的エネルギーによって強大な電磁場を発生させ、高圧放電、高温発熱、物体浮遊、高速移動となんでもござれの多様な能力を極めて高い水準で行うことができる超高危険度生命体。この世界における全生物のヒエラルキーの頂点……。1個体しか確認されておらず、どこからやって来たのかは不明だが、少なくとも4000年以上前から出現報告がある。定住地はなく、世界のあらゆるとこに出現する可能性がある。過去には幾つもの国や都市を滅ぼした記録が残っている…。



(……災害かよ。)



 さらに流し込まれる情報を“知識”として読み取り、極小の針穴に糸を通すがごとく集中して考えを巡らせていく。奴が私たちを観察し、知ろうとするのならば……その時間を利用して私たちも奴を知り、攻略法を見つけ出すのだ。



(弱点は? ……記録なし。では行動原理は? ……記録なし。じゃあ何の記録があるんだ? データに基づくものじゃなくてもいい。伝承だってなんだっていい。なにか、何かないのか!!)



 相対して30秒。

 

 沈黙し微動だにしない私を訝しんだのか、龍は一歩こちらへ踏み出してくる。否応なしに決断の時が来た。しかし有効打は依然として見つからない。少なくとも、データ上には存在しない。



 ……ならば、アレをやるしかない。

 効果があるとは到底思えないが、もはや進退の意味のない現状、取れる行動はこれしかない。





 私は…………全身全霊を込め、土下座した。





 完全なる平身低頭である。


 自身が無害であることを全力でアピールし、攻撃しないように必死に訴えかける。プライドなどもとよりさほど持ち合わせてはいない。生き残る可能性を高める方がはるかに重要だ。


 つまりだ、その…見逃して……もらえませんかねぇ……。



 …沈黙が場を支配する。


 そしてそのまま、たっぷり数十秒の時間が過ぎたとき。



「|縺ェ縺ォ縺励※繧薙□窶ヲ縺ヲ繧√∞窶ヲ一体何してんだ??」



 えっ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る