ネームレス・センスレス

野村絽麻子

恋(仮)

 風に乗って聴こえてくる笑い声の塊の中からでも、先輩の声を聞き分けることができる、ような気持ちだった。東棟二階の教室の窓からは渡り廊下が見渡せて、そこを久保先輩が歩いているのが見えた。数人のクラスメイトの人達と何かを言い合ってふざけながら、賑やかに通り過ぎる。右手には烏龍茶のペットボトルをぶら下げて、左手は軽くポケットに入れたままの、いつもながらの怠そうなポージング。吹いてきた風が猫背の背中をさらって長めの黒髪をかきあげた。

 少し目を細めた久保先輩は、誰かの言葉に軽く噴き出したあと、口を開けて楽しそうに笑った。


 こうやって私が久保先輩を目で追ってしまうようになってから、たぶん、一年くらいは経っている。片想いと言えば聞こえは良いが、実際の所そうはっきりと明言できる感情なのかもわからず、さりとて、ではお近づきになってみようなどと思うほどの行動力や勢いも持たない。ファン心理というのが一番近いのかも知れない。

 きっかけはフラフープだった。あの、プラスチックでできた、丸い輪っかの玩具だ。

 入学したばかりの昼休みだった。慣れない校舎内をうろうろと、確か、地学準備室というマニアックな部屋を探し歩いていた。特別教室棟の廊下から中庭の様子が見えていて、日の当たらない廊下から見るその場所は光であふれ、思わず足を止める。背の低い椿の生垣越しの空間では、数名の男子生徒がきゃあきゃあと歓声をあげながら何かに興じていた。よく見れば、どうやらフラフープで遊んでいるようだ。誰かがフラフープを回し、誰かが時間を計り、誰かが回転数をカウントする。

 そうして回転数を競い合っているのだと気付くと同時に、一団からすこしだけ離れたところに座っている男子生徒が目に留まった。自動販売機の隣に設置された、雨ざらしで色の変わったベンチ。背もたれに体重を預けて気だるげに斜めに腰かけた彼の手には烏龍茶のペットボトルがにぎられていて、渋いなぁ、とそんなふうに思った。


 何人目かの生徒のチャレンジのあと、順番が彼まで廻る。呼ばれて面倒そうに烏龍茶を置いて立ち上がり、上着を脱いでその横に置く。白いシャツ。だらりとした姿勢のまま歩き、フラフープを受け取る。

 それから二、三言葉を交わすとカウントに合わせてフラフープを回し始めた。え、うまい。何というか、すごく安定している。

 切れ長の目をした彼は、余裕を湛えた薄い笑顔のままで一度も落とすことなく、それでいて一生懸命という感じでもなく、後半などはピースサインまで出しつつフラフープを回し続けてみせた。結果は彼の圧勝だ。

 どよめく一同を、まぁまぁ、という素振りで宥めるものの収まらずハイタッチの流れになり、それからとても晴れやかに、とても幸せそうに、声をあげて笑う。そうしてその一団はまるで仔犬たちが戯れ合うようにグダグダになっていく。


 いいなぁ。

 薄暗い廊下を通り過ぎながら、耳から拾った彼の名前を記憶した。


 *


 効果音をつけるならば、ひょいひょい、だろうか。ひょこひょこ、ではない。いっそ飄々が良いかも知れない。そんなことを考えながら昼時の廊下を歩く。偶然にも、私の目の前には久保先輩の背中があった。少し肌寒いせいかブレザーの代わりにフード付きのトレーナーを着込んでいて、ちょうど目線の高さにフードが下がっている。校内の食堂へ向かう途中、連なる生徒たちの後に続くうちに自然と辿り着いてしまった。なんたる幸運。猫背で怠そうないつもの背中には、うっそりと怠慢が漂っていて、それだけで私はとてもワクワクする。

 久保先輩は男子の中ではそんなに背が高くない。間近で聴いた声はわりとハスキー。お友達には揶揄うように煽るように、戯れ付くような喋り方をする。食堂のおばちゃんにはきちんと敬語で話す。

「ご飯大盛りでお願いします」

 やっぱ肉だろなどと言いながら、先輩はお友達と座席を探しに列を離れる。真似して選んだ生姜焼き定食にどこか後ろめたさを感じつつ、私も友人達の待つテーブルに向かう。すると彼女らが確保した座席は久保先輩達のお隣のテーブルだったので、崩れ落ちそうになるのを耐えたあと、テーブルの中でも少し遠めの対角になる座席を選ぶ。あんまり近いと溶けるかも知れないので。


 久保先輩のひとくちは大きい。箸でたっぷりと取り分けた生姜焼きを口にしてから、さらにたっぷりとお米を頬張る。好みの味付けだったらしく、目元を綻ばせながらもぐもぐしている姿はさながらハムスターのように愛らしくて、私は感嘆のため息を味噌汁ごと飲み込む。

 お友達の話に相槌を打ちながら、時には突っ込みを入れながら、偶にくしゃりと笑顔になりながら、小柄な体のどこにあんなに入るのかと思えるほど気持ち良く生姜焼き定食が食べ進められていく。付け合わせのポテトサラダはひとくちで、千切りキャベツも生姜焼きの甘辛いタレごとぱくりと、小鉢の浅漬けも小気味良い音を立てて咀嚼し、お友達がくれたカップ入りのプリンも嬉しそうに遠慮なく頂く。箸遣いもきれいで、食べ終えたお皿もちゃんときれい。ほれぼれする食欲だ。

 ご飯を食べている時の久保先輩は普段見かける時の倍くらい活き活きして見えるので、きっとご飯が好きなんだろうと思う。たくさん食べて健やかにいてほしい。


 食後のお茶を飲んでいるときに事件が起きた。先輩のテーブルでお菓子を開封しようとした誰かが失敗したのだ。勢いよく飛び跳ねたお菓子はテーブルのあちらこちらに景気よく散らかり、皆であわあわと拾い集める。

 その時、私は見てしまったのだ。久保先輩のパーカーのフードに、お菓子がひとつ、飛び込んでしまった所を。どうしよう。

 指摘しようか、でもそうしたら見ていたのがバレてしまう。私の他にも誰か見てたかも知れない、としばらく誰かが指摘するのを待ったけれど誰も何も言い出すこともなく、それぞれが再び席に着く。先輩! 久保先輩! 気付いて! 背中の! フードに! お菓子が! 入っていま……あ。

 あんまりにも見過ぎてしまったせいか久保先輩がこちらに視線を向けて、ぱっちりと目線が合ってしまった。初めて直視された私はたちまち動きが止まり、言葉が出てこないどころか呼吸すら怪しくなる。目が合ったままの先輩が瞬きして、それからわずかに首を傾げた。大変なことが起きている。大変だ。とても。何度かぱくぱくと開け閉めしたあと、観念して口を開く。

「あ、あのく、久保先輩の」

 しまった名前を知っていることがうっかり漏れてしまった。今の聞こえてないといいな。

「背中のフード、に、おんっ、お菓子が」

 入りました、は既に言葉にならなくて「はひぇま……」みたいな変な音になって食堂の喧騒に紛れて、それでも「おぉ」と納得してくれた久保先輩の理解力の高さに救われる。後ろ手でフードの中を探った先輩が飛び込んだお菓子を無事に探し出して、それから何故か、椅子から立ち上がってこちらに来る。

「はい」

「……え?」

「ありがと」

「……あの、……?」

 お菓子を差し出したまま少しの間があって、ふはっ、とめちゃくちゃ楽しそうに噴き出した先輩が私の目の前にそれを置いて、肩の所でひらひらと手を振って背中を向ける。あ、好きな背中だ。じゃなくて、これ、は。あの。目の前に置き去りにされた個包装のゼリー菓子を恐る恐る手に取ってみる。赤色の透明な塊は、苺の形を模している。頭の中に先ほどの先輩の笑顔がリピートされる。笑ってた。久保先輩が。だって白い歯が見えていたもんなぁ。

「おま、なに勝手に」

「え、だって俺にくれるつもりだったっしょ? じゃ、同じでしょ」

 そうしていつものように戯れあいながら、先輩達の声が遠ざかっていく。私はそれを情報として受け止めながらも、頭の中での置き場に困り果てて、しばらくゼリーから視線を動かすことができなかった。


 その後、ふと我に帰ると友人達がニヤニヤとしながらこちらを覗き込んでいて、「違うの違うのこれはそういうアレとかじゃなくて!」などと高速詠唱するのだった。



 久保先輩はとても格好良いので、私のように先輩に憧れていたり、はたまた好きだと思っている女子はきっとたくさんいる。私はそんな女の子たちをかき分けてまで久保先輩とどうにかなりたいとも思っていないし、私を特別扱いして欲しいとかも思っていないし、もし久保先輩に恋人が出来ても、きっと彼女のことを含めて嬉しく眺めてしまうだろう。

 それを友達に言ったら「枯れてるね」の一言と溜息が降ってきた訳だけど、でもだからってどうしろと言うのだ。


 学期末、保健室にひっそりと配置された石油ストーブが室内をとろとろと暖める。薄っすらと結露した窓の外には寒空が広がり、ストーブの上に置かれた薬缶からは眠たげな湯気が部屋の空気に溶けこみ続ける。私は小声で最近お気に入りの曲を歌いながらノートにレ点を付けていく。昼休みの当番がてら行われる薬品棚の備品チェックは保健委員の中でも割と好きな業務で、特に、こんな寒い日にストーブにあたれる所なんかは最高と言っても良い。

 ひとしきりチェックを終えると、持参したミルクココアの粉を自前のマグに入れて、薬缶のお湯をすこし貰って注ぐ。ここから先は保健医不在中の待機が主な業務になる。とはいえ、学期末の保健室の利用者は少ないため、どちらかと言えば単なる休憩に近い。

 遠くにさざめく昼休みの喧騒を耳にしながら、お昼ご飯をここで摂ることが出来るのも何となく特別感があって嬉しいなと思う。もしこのストーブの上でシチューなんか作れたら更に素敵なんだけどと、心の中で将来やりたいことリストに項目を書き加えたりしていると、わずかに衣擦れの音がした。あれ? 確か今の時間、利用者はいないはず。まっさらな利用名簿を目にして完全に油断していたけれど、どうやら一番奥のベッドを利用している人が居たらしい。

 のそりと身を起こした人影は手を伸ばし、よろよろとカーテンをめくる。

「……ヴァッ」

 変な声が出て思わず口を抑える。カーテンをめくって姿を現したのは久保先輩で、私は腰かけたままの椅子の上で二センチくらい飛び跳ねた。手元のマグの中でココアがちゃぷんと波打つ。

 先輩は熟睡していたのか、寝ぼけ眼で髪に寝ぐせが付いていた。ぼんやりした眼差しで保健室の中を見渡している。それから、その視線を私で止めると口を開いた。

「いま何時……ですか?」

「あっ、あの、十二時三十五分、です」

 私の答えに今度は久保先輩が口元を抑えた。

「……やべぇ、昼めし食い損ねたわ」

 昼休み終了まであと十分。この時間では当然ながら食堂も終わりモード。売店もきっと品薄だろう。おまけに、保健室から売店までは距離があるため、例えたどり着いたとしても次の授業までに落ち着いて何かを食べられるとも思えない。ここで思い出す。鞄の中にビスケットが一箱入っていることを。

「あの、その、もし良ければなんですけど」

 超高速で鞄の中からビスケットの箱を探し当てて引っ張り出すと、久保先輩の瞳のトーンが一段明るく変化した。

「あ、良ければココアも、ありま」

「ありがてぇ!」

 食い気味に答えた先輩から弾けんばかりの笑顔が放たれ、その衝撃に耐えながら戸棚から備品のマグカップをひとつ取る。柄にもなく、美味しくなぁれと念じつつミルクココアを淹れていると、ベッドからのそのそ起きて来た先輩が手近な椅子を引き寄せて腰かけ、ビスケットに向かって手を合わせてから食べ始めた。横に座った先輩がビスケット一枚を二口で食べてしまうのを眺めながら、私は冷めかけたココアを飲みこむ。

 実のところ、先日あった体育祭のスナップ写真に、偶然にも久保先輩が映り込んでいる一枚があって、それは今、私の生徒手帳に挟まっている。たまに思い出した時に写真の中の先輩を眺めてきたけれど、今この瞬間に本物の久保先輩が、私の隣でビスケットを食べ、私が淹れたココアを飲んでいる。すごく、不思議な気持ちになる。

 もう少し早く起きてきたらお昼のパンを全部あげたのに。あ、でも早かったら食堂に行ってるか。そこまで考えてふと思い当たる。

「そう言えば、久保先輩は体調不良なのでは」

「そう。寝不足が、やばくて」

 なるほど。久保先輩の眠っていたベッドに受験用の参考書が置かれているのが見えて、この時期は受験生も追い込みモードなのだと思い当たる。来年の私もこんな感じになるのだろうか。

「……ん、それだ」

 ココアを飲んでいた先輩が急にそう言って、私を見てニッと笑った。音がしそうなほど鮮やかで、いつもの怠そうな先輩とは違ってて、とても人懐っこい笑み。

「パーカーのフードにお菓子が入った時の人だ」

「あっ…………はい、そう、です」

 うわぁ、認識されてしまった。当たった、と嬉しそうに言った先輩がまた一枚ビスケットを摘んで、私は照れ隠しがてらココアの最後の一口を飲み干そうとマグを傾けて。そのタイミングでそのままふと動きを止めて、こちらを見た。

「それで、何で俺の名前知ってるんだっけ? 何かで一緒だった?」

「ゴフッ!」

 突然のクリティカルな問いに私は見事にむせ返り、そのまま何度か苦しい咳を立て続けにすることになり、先輩は何故だかウケていて、若干のけぞるくらいまで笑っていたからそれはそれで嬉しくなってしまって。その流れで昼休み終了の予鈴が鳴ったので慌ただしくその場を片付ける事になる。


 手早くマグカップを洗いながら、私が久保先輩の名前を知っている理由を考えてみる。

 あの日、中庭の光の中で見た先輩の姿がとても素敵だったから。先輩の声が良いと思ってもっと聴きたくなったから。先輩が元気よく美味しそうにご飯を食べる姿が、見ていてとても気持ち良いから。それらひとつひとつが私にとっては他と変えようの無い要素で、とても大切に胸にしまっておきたくて、今だってどこか甘やかな気持ちでいて、今日のことをいつまでも覚えておきたいと思っている。

「久保先輩、あの」

 片付けを済ませて参考書を手にした先輩がこちらを振り返る。いつかのように目線が合わさり、瞬きをして、少し首を傾げてみせる。その仕草のひとつひとつを大事に取って置きたくなる、この気持ちの名前は。名前を付けるとしたら。

 ひとつ、息を吐く。それから私は次に言うべき言葉を頭の中で組み立てる。


 受験が落ち着いた頃にお話したいことがあるんです。聞いてもらえますか?

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