第2話 北の地で、喋る兎に会う
あれから七日。俺は草を枕に夜空を見上げていた。
明け方に近いがまだ昏く、夜露に濡れた春の花の香りが心地よい。
帝国行きの快速船に飛び乗って四日、最北の港ムルマクから商都イリイチまでが半日。さらに北の街ノルデントまでは乗合馬車で二日。
そこから北は小さな村が点在している程度の僻地。乗合馬車はないのかと聞いたら、なんであんな所に行きたいんだと聞き返された。
商人がどこかに行く理由なんて売るためか買うためかに決まってる。
茉莉花茶の少女から聞いたところ、あの冬空の端切れは夜空絹という超高級品だ。
帝国北方の特産品というだけで具体的な場所は分からないし、高級品となると手持ちの資金で仕入れられるかも怪しい。それでも来てしまったのは、儲け話への期待もあるが、何か運命じみたものをあの冴えた星空に感じたせいだろう。
「あの辺が見栄えがするかな」
両手の指で四角を作り、夜空を切り取る。
冬の空の澄んだ感じこそ無いが、春の夜空も趣がある。月が大分痩せてきているから、星も見やすい。
昔、母に教え込まれた星座を思い出す。たしか、あの三角が白兎座。
結婚を機に放浪を止めて定住を選んだ母とは、もう十年ほど会っていない。見た目はともかく実年齢は俺より若い人間の義父と上手くやれる気もしないし。
そんなことを考えていると、近くの茂みがガサリと鳴った。
本物の兎だ。
夜になって閉じたタンポポの花をかじっている。
兎は嫌いじゃない。
エルフは長い耳のせいで人間から時々兎と呼ばれるから親近感がある。
それに農村では害獣扱いだし、数が多いから専業猟師と取り合いになる事もない。味も良いから、旅人がちょっと狩って腹を満たすには最適なのだ。
早速、俺は投石紐を取り出した。
『兎を狩ってはいけない時が三つある』
ふと、母の教えが頭をよぎる。星座の事なんて思い出していたせいか。
『一つ目は、リボンや首輪をしている場合』
農村では害獣だが、一部の金持ちが兎をペットにする事もある。ペットを狩ってしまうと後々面倒だが、その様子はない。
石を投石紐のポケットに据え、音をたてないようにそっと回し始める。
『二つ目は、前歯が妙に鋭い時』
首狩りと言われる兎型の魔獣はかなりの強敵だ。前歯が刃物になっているので、見分けるのは簡単。
この兎の歯はごく普通だ。
だが、兎はゆっくりとこちらに振り向こうとしている。
気づかれる前に石を放とうとしたのだが――
『三つ目は、その兎の瞳が月の色をしている場合』
まさに、そうだった。
ほとんどが黒いが、左下に少し青みがかった黄色がある瞳。空の月と全く同じ欠け具合。
「ほ、これは望外。アイリスの子ではないか」
兎に話しかけられ、俺は投石紐を回すのをやめた。
兎が人の言葉を話したことに驚いたのか、母の名が出たことに驚いたのかは分からない。
回転をやめた紐は力なく垂れ、石が足元に転がり落ちる。
「アイリスの子よ。名はなんという」
「俺は」
一瞬、言葉が切れる。
相手に聞く前に自分が名乗れよとか、そんな思いを飲み込んで答える。
「レオンだ」
「レオンか。真の名はどうした」
兎のくせに、一発で偽名を見抜いてくるとは。
少し驚きはしたが、母に押し付けられた本名を名乗る気はない。
「名前ってのは、自分と他人が認識してれば十分なんだよ」
俺がレオンと名乗り、相手が俺をレオンと呼ぶなら、それは名前として機能する。
本名は、会ったことも無い親父に因んだらしいが、大の男に似合わない名だ。
兎は不満げに足を三度踏み鳴らしたが、何も言わずに話題を変えてきた。
「レオンよ、ワシを手伝え」
「なんでだよ」
「月の瞳の兎に出会ったら、大人しく言う事を聞けってママに教わらなかったかの?」
「うるせぇ。夜空絹を仕入れに行くのに忙しいので謹んでご辞退申し上げます」
妙な言い回しになりつつもきっぱり断ったのに、兎はめげるどころか笑い出す。
「夜空絹、夜空絹だと! だったらやはりワシについてくるしかないの」
何がおかしいのか、タンポポの上を転がりまわりながら言葉を続ける。
「あれは、単に金を出せば買えるものではない。じゃが、ワシの頼みを聞いたなら、二,三枚譲ってもらえるよう話をつけてやろう」
話としては美味しい。美味しすぎる。
兎の言う事なんか信頼できるのか、なんて言い出したらそもそも兎と話していること自体がバカバカしい。
こういう妙な事態にはそれなりに慣れているのだ。それが嫌で母とも離れたのだが。
嫌な予感と夜空絹を天秤にかけ、僅差で夜空絹が勝った。
「タダなんだろうな」
「労働への報酬じゃよ」
気に食わない兎だが、今は言う事を聞くしかないようだ。
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