第9話 自転車

 旅で自転車というと、洗練の極みたるサイクルウェアに身を包み、削ぎ落された積み荷で颯爽と疾駆する姿を期待されるかもしれない。

 かく言う私もそのような旅人を見ると心の奥底から沸き立つものを否応も泣く感じてしまう。

 しかし、実際に私が旅先で自転車に乗る時には、貸し出し用のママチャリであり、荷物も多く背負い、服も使い古した安物のジーパンでしかない。

 何とも締まりのないと思うのは近頃の腹回りのせいなのかもしれないが、の方からすればナメたと言われてもおかしくない出で立ちで乗り回すのにも理由がある。

 それは、あくまでも自転車が現地での足であることに集約されよう。


 そもそもヒトリタビのは大きく分けて二つに分けられる。

 一つは現地まで行くための足であり、飛行機やフェリーがこの枠に当てはまる。

 それに対して、現地での足となるのは路面電車や路線バスなどであり、これで市や県を跨ぐのような移動は難しく、小回りで我々の旅路を助けるのが持ち味だ。

 この中間に位置するのが列車や自家用車であり、使い方によってその面構えを容易く変えてしまう。


 では、自転車はと言われれば、余程の覚悟がなければであり、長距離を移動するためのものではない。

 必ずしも長旅の主軸には成り得ないという訳ではないが、時間と体力と先立つものの体力とを考慮すれば、選択肢から外れる。

 だからこそ憧れもあり、例えば博多から熊本城を目指して自転車で駆けるなど相当に心地の良いものだろうとも思うのだが、そのためには相応の装備と時間が不可欠だ。

 それよりは、旅先の地で観光協会などに自転車を借り、街中をのんびりと往く方が性に合っている。


 自転車の現地の足てとしての立ち位置はなかなかに面白い。

 徒歩よりは早いが車や原付よりは遅く、車や原付よりも細やかに走り回れるが徒歩よりは道を制限される。

 後者についてはイメージがしづらいかもしれないが、出身の長崎の街を思えばあのような階段や坂を自転車で越えようとするのは狂気でしかない。

 見方を変えれば中途半端のようにも思えるが、私にとってはちょうどよい。

 行きたい場所や巡りたいところが十キロほど離れているときなどは、車を借りるには短すぎ、歩いて行くには時間がかかる。

 このような時に自転車を借りられれば懐に優しく、足の疲れも抑えられよう。

 そっれに加えて、車であれば流してしまいかねない景色を、その場で立ち止まって見入ることもできるのは大きい。

 車道でそのままというのは難しいが、自転車を端に寄せて写真を撮り、拙句を捻るのも自由自在というのは価値が大きいのではなかろうか。


 適度に風を感じられるのも良い。

 単純に心地が良いというのもあるが、その土地の香りを合わせて感じることができ、そこから見えてくる暮らしもある。

 草木のような爽やかなものもあれば、牛糞などの臭きのように思わず苦笑するものもあり、こればかりは写真や動画ではどうやっても感じることができない。

 今はあまりこうした匂いを感じようとしないどころか、自分にとって異質な匂いを忌避する傾向が強いようだが……。


 そして、何よりも拠点への帰りしなによさげな飲み屋を見つけた場合、距離によっては飲むことができることが大きい。

 普段とは異なる景色を堪能し、程よく汗をかいたところで赤提灯が見えようものなら、頭の中はレモンサワーやビールで蹂躙される。

 このような時、自転車でああれば押して帰れば良く、気軽に飲んで帰れるというのは頼もしい。

 原付はともかく車を押して帰る訳にはいかず、代行となれば懐が痛む。

 無論、飲んでから乗るということはしない。

 旅の恥は掻き捨てというが、飲酒運転は恥ではなく下賤な罪である。


麦秋の 茜の畦の 銀輪の 脇に添えたる 火照る呑兵衛


 近頃は各地で貸自転車が設置されているようだが、同じように考える方は意外に多いのかもしれない。

 グリーンツーリズムなどと言う横文字は知ったことではないが、名所を回るだけの旅から人々が離れていくのではないかという期待が膨らんでいる。

 ただ、時にタイヤの空気が抜けかかっていることがあるため注意されたし。



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