第8話 バス

 長崎にいる頃はあまり気にしていなかったが、バス路線網が優秀な方であったように思う。

 主要路線であったという点を差し引いても、夜の十時半過ぎに帰ることのできる便があったというのは大きく、それを当たり前と思って引っ越し先では痛い目を見てきた。

 特に僻地とでも言うべき遠隔地にまでそれなりの本数のバスを走らせていたのは、長崎の坂の急さに対応するためであったのか。

 もしくは、自動車を運転しようにも細い道が多いため、車社会にはなりきらなかったせいか。

 いずれにせよ、列車を降りた後を路面電車とバスの二本立てで動き回れるのは、長崎の一つの強みであろう。


 近頃は人手不足も相俟って忌避される観のある路線バスだが、地方への旅に出ると、鈍行列車以上にその地の日常へと踏み込める交通手段である。

 今年の夏に山陰を旅した際、それを象徴するようなバスに二本乗ることができた。

 一本目は長門市と萩市を結ぶ路線バスであり、なかなかに凄まじい速さで山道を駆け抜けていった。

 しかし、話の中心はそこではない。

 運転手が何とも荒々しく、乗客に対して容赦なく怒号を浴びせていたのである。

 初めは男子高校生に対してでなかったかと思うが、運転席に真後ろに座った私は目を剥くと同時に降りるべきかと悩んだほどの剣幕で、前日からの疲れがその気力を奪い去ったために萩市まで付き合うこととなった。

 方言に耳を傾ければ広島から山口にかけての特徴が色濃く出ており、それで委縮することこそなかったが、流石に苦笑は隠しきれぬ。

 それでもつぶさに観察をしていくと、今までのヒトリタビでの経験と比較して、これも致し方なしかと感じてしまった。


 先述した通り、バスは異様な速さで進んでいた。

 この「異様」というのは通常、安心を抱ける範囲である場合が多いのだが、今回は少々恐怖を覚える瞬間があったように思う。

 エンジンが低い唸りを上げ続け、山道を駆け上がっていく。

 座席に掛けながらも強い重力を感じたほどであるから、立って居ようものならどうなっていたことか。

 それを単純に運転手の気性に帰すのは単純なのだろうが、バスの乗車率を見れば五割強。

 その中で市の中心部を跨ぐような路線を維持しようと思えば多分の無理が生じるのではなかろうか。

 言い換えれば、できる限り運行時間を削り、運行間隔を狭め、一人の勤務時間を利用する。

 効率化といえば聞こえはいいのかもしれないが、行き過ぎてしまえばゴムのようにはち切れてしまいかねない。

 その警鐘が老いた運転手の赤ら顔であったとすれば、帽子の下に隠された想いと日常に頭の下がる思いがした。

 まあ、乗客の老婆が呆れ顔で言い返していたから、運転手であったのかもしれぬのだが……。


 その一方で、長門市駅から仙崎駅までを繋いで下さったバスは私一人が常客で、思わず運行目的を疑う一本であった。

 長い路線ではないのかもしれないが、各地で運転手不足が叫ばれる中であまりにも効率の悪い運行は果たして帳簿を合わせられるのだろうかと心配になってしまう。

 そのような思いを他所に、車輪のためにある荷物置きには菓子パンが二つ並んでいる。

 朴訥とした運転手の穏やかな在り方が少し垣間見えるようで、それがいつまで続くのだろうかと不安になる十分強であった。


 列車もバスも乗客同士の心の距離感が近いのが特徴であるが、こうして見ていくと、一つの違いが浮かんでくる。

 列車で旅をしてきた私は、運転手の所作を眺めることはあるものの、その前後や運転中に声をかけることはめったにない。

 それこそ仕事ぶり以外に見える部分はほとんどなく、僅かに車掌との談笑や僅かな欠伸にそのの部分を垣間見る。

 これがバスになると、両替や車内で利用するカードなどを購入する際に声をかけることで、口調に輪郭にとその人となりが深く心に刻まれていく。

 もしかすると、最もヒトリタビに向いた交通手段は路線バスなのかもしれない。


網の目の ごと駆け抜けて 路線バス 街の灯火 繋ぐ人乗せ


 もう四か月が過ぎようとしているのに、未だ仙崎のに見た二つのパンが網膜に焼き付いている。

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