第二十二話 文学少女の過去と今(4)

「おい、何してる!早く開けろ!」


閉めきった倉庫内では煙は直ぐに充満し、倉庫内の人間の視界を奪います。


彼に怒鳴られた取り巻きの一人は倉庫の扉を急いで開けました。


大きな逃げ道を見つけた煙は入り口上げるから一気に流れ出ます。


密閉空間だったから倉庫内の気圧も上がっていたのでしょうか?風の流れも助けになり、奪われた視界はたちまち元に戻っていきました。


けれど、倉庫の奥―――まだ煙が明けきっていない場所に、さっきまではなかった巨大な影が現れました。


黒い体毛。


人間大の体躯。


そして―――現実では存在し得ない三つ首。


まるで、神話に出てくる地獄の番犬、ケルベロスが倉庫の奥から唸り声を上げて、近づいてきたのです。


「な、何だ!?何なんだよこいつ!?」


「ケルベロスだよ」


「はあ?!」


「知らないかい?三つ首を持つ、地獄の番犬さ。私が召還した」


煙の中から今度は小柄な影―――いや、今ではその身体も大きく写って、魔法使いが姿を現した。


「な、そんなの、作り物じゃねえか。どうせこれもハッタリ……」


彼は気丈に振る舞おうとするが、ケルベロスはそれを許さなかった。


ケルベロスは彼に向かって、種族を越えても伝わるくらいの敵意を露にして、大きく吠えた。


音による空気の震えを肌に感じる。


何より、この番犬は竹中君の声に反応して、威嚇をしたのだ。


それは目の前のケルベロスが、疑う余地のない、実在する生物であることを示唆している。


ケルベロスはゆっくりとしかし着実に、敵意を剥き出しにしながら竹中君の方へと近づいて来ました。


その目は獲物を捉えるもの。


その牙は、間違いなく獲物を刈り取るもの。


「は……や……」


彼はぶつぶつと、言葉にならない声を出します。


目の前の現実に、恐怖に、彼の脳は遂に現実を見ることを拒否しました。


「あ、ああああああ!!!」


そして彼が最後に選んだのは、逃避でした。


本校舎の方向へ、全速力で駆けていく彼はおぼつかない足取りから何度か躓き、転び、地面に身体を打ちつけます。


けれど足を引きずりながら、こちらを振り返ることなく、必死に逃げていきました。


影から全てを操っていた彼の最後は、とても無様で、滑稽で、子供っぽいものでした。


私は、こんな人に怯え、従っていたのかと、今までのことが何だかバカらしくなります。


彼の取り巻きたちも彼に続き、その場に残ったのは私と魔法使い、そして魔法使いが召還したケルベロスの、二人と一匹だけです。


ケルベロスは私の方に近づいて来て、その距離が短くなっていく毎にどんどんその身体も小さくなっていきます。


そして化け物の身体は最終的に、普通の大型犬とそれほど変わらないくらいの大きさまで縮みました。


いえ、決してこの子の身体が変化した訳ではなく、私の脳が、やっと現実を捉えてくれるようになったという、ただそれだけです。


錯覚から目を覚ましただけです。


たとえ小さくなっても、目の前の獣が現実離れした禍々しい造形であることには変わりがありません。


しかし私は一切の恐怖をこの子には抱きませんでした。


―――ずっと、見てきたのですから、見間違う筈がないのです。


「助けてくれて、ありがとう」


私に飛びつき、頬を舐めてきました。


くすぐたっくて、懐かしくって、思わず涙が零れました。


「……ラルフ」


そう愛犬の名前を口にし、抱きしめます。


「どうしたの?その恰好?」


ラルフは黒の毛深い着ぐるみのようなものを着ていました。


それに付けられいる三つ首も精巧に作られてはいますが、近くで見ると偽物であることはすぐに分かります。


私は窮屈そうにしていたラルフから、それらを丁寧に脱がしてあげます。


ラルフ一匹じゃこんなものを用意することも、着ることも出来ません。


「貴女がやったんですか?」


私は着ぐるみから解放されて気持ちよさそうに伸びをするラルフを撫でながら、漆城さんの方を見ます。


「……素敵な魔法、ですね」


「皮肉かい?」


ネタが思いのほか早くバレたことを気にしてか、彼女はバツが悪そうにそっぽを向きます。


「苦労して用意したのだがね。もう少し驚いてくれても良いじゃないか」


「驚いてはいますよ。ラルフのこと、知っていたんですね」


「君とフィクサーたちがこの場所で取引をしていたのは知った時に、一度下見に来たんだよ。その時、彼に出会った。随分主人のことを心配していたようだったからね、折角ならご協力頂こうかと思った次第、という訳さ」


「それにしても、よくこんなことを想いつきましたね」


彼女の魔法―――彼女の奇術は人間の錯覚を利用したものでした。


彼女は体育倉庫の奥に小さい物を、そして手前の私たちの周りには大きい物を、配置し、更に奥のものと手前の物とでなるべく同じ大きさに見えるように工夫したのです。


例えばハードルなら、高さを調整して手前の物は短く、奥の物長くする、また大小様々な種類のあるマット類なら、同じデザインで大きいものを手前に、小さいものを奥に目立つように置く、といった具合です。


その工夫により、実際は大きさが異なるにも拘らず、私たちには奥と手前で同じ物が置かれているように錯覚するのです。


ここまでが彼女の仕込み。


そして仕上げに、煙幕と共に予め倉庫内で待機させていたラルフを、奥の方から登場させました。


遠目で見る私たちは、ラルフの大きさを周りに置いてある備品との比較によって推測します。


しかしその備品たちは実際よりも大きいと私たちは錯覚しているので、それに合わせてラルフのことも実際より大きい体だと錯覚してしまいます。


「エビングハウス錯視、でしたっけ」


周りに小さい物を配置されていることで、中心にある物体を相対的に大きく見える錯覚。


彼女が利用したものは正にそれでした。


「ああ、それも応用してある。だがそれだけではないよ。他にも倉庫内にはいくつか量感を誤認させる錯視を仕込ませてもらってる」


自分より大きい生物は、それだけで人間にとって本能的に恐怖の対象になります。


さらにラルフには精巧で禍々しい質感の着ぐるみを着せて、また日の上がりきっていない暗がりの倉庫という状況も合わさってより恐怖感を煽りました。


錯覚と、そういった演出も含めて、現実ではあり得ないケルベロスという幻想を、恐怖を、彼女は私たちに体験させたのです。


「凄いですけど、どうしてこんな回りくどいことを?」


「私が魔法使いだからさ。召喚魔法とか、それっぽいだろう?」


彼女は小さい体で胸を張る。


確かに。


使い魔を使役するのは魔法使いの鉄板とも言えるかもしれません。


「……というのは理由の半分だ」


「半分ではあるんですね」


魔法使いという設定は、彼女も気に入っているのかもしれません。


「相手は少なくとも五人だ。翻ってこっちは一人と一匹。実力行使に出られればどうやったて敵わない」


彼女は自身の細い腕をヒラヒラと見せつけて来ます。


確かに、一対一でも敵わなそうです。


あの仰々しい仕掛けの数々は、数の暴力に対抗するためのハッタリだったのです。


「それに、このやり方なら彼も活躍してくれるだろう?その方が、君にとっては良かった筈だ」


「……そう、ですね」


私は腕の中に収まっているラルフの頭を撫でました。


「何から何まで、貴女に助けられました」


深々と、頭を下げます。


「ありがとうございます」


「……だが十全とは言い難い。フィクサーは取り逃がしてしまったし、証拠も持ち去られてしまった。私ではこの程度が関の山だった……」


彼女の表情には悔しさと、諦めの色が伺えました。


「しかし、最も重要な目的は達したのだから、良しとするよ」


「重要な目的、ですか?」


「私は、蠅の王を打倒しに来た」


何度目か、彼女はそう宣言しました。


「ちゃんと倒せただろ?」


そう言って私の方を指さします。


目的を達せた、という割には彼女の言葉には疑問符が付いていました。


いえ、反語でしょうか?


つまり彼女にとっては、目的が果たせたかどうかは完璧な確信に至ってはいないということです。


その判断には、彼女の裁量が伴っていないということです。


私に、その判定が委ねられているということです。


―――ああ、そういうことですか。


そこで、私は彼女の目的―――蠅の王とは何のことだったのかを、理解することが出来ました。


「はい。倒せましたよ―――私の中の、醜い虫は」


罪から逃げていた私。


罪に甘えていた私。


そんな私は、確かに彼女によって倒されました。


でも、それでどう変われるかは私次第です。


「ちゃんと向き合って、償わなくては、なりませんね」


「……別に君一人で背負い込むことでもないさ。君は間違ったかもしれないけど、君のクラスメイトも、フィクサーたちも、同様に間違った。わざわざ自首紛いなことをする必要はない」


「でも……」


「しでかしまったことに向き合うというのは、何も全ての泥を被るという意味ではない。君がすべき唯一のことは、二度と同じことを繰り返さないこと、それだけだ。クラスメイト達も含めて、ね。今回の事件は誰もが加害者で、被害者だ。そして公表もされないのだから、個人の反省の範疇に留めてもバチは当たらないさ」


証拠が無いから、公表しない―――いえ、この人は最初からこの事件について公にするつもりは無かったのではないでしょうか?


彼女が押さえようとしていた証拠も、竹中君たちにこれ以上好き勝手やらせない為の脅しの道具として使おうとしていただけで、法的措置を取るために必要としていた訳ではないのかもしれません。


そうでなければ、一人でこんな危険な場所には来ませんし、あのような詭弁を弄することもしないでしょう。


この事件に関わった一人一人がその人だけの問題で済むように―――ただそれだけの為に、彼女は行動したのです。


「腑に落ちない、という顔だね?けれど私は別に君に楽な道を提示したわけではない。同じこと繰り返さない。それは簡単なようで、意外と難しい。特に、一度道を踏み外してしまった人間は、ね」


「……貴女も、なのですか?」


私の疑問に、彼女は困ったような笑みを浮かべましたが、答えることはありませんでした。


「ある意味怪我の功名とでも言うべきなのか……私の御粗末な仕事によって、フィクサーたちが君やクラスメイトに関わってくることは無いだろう。彼等は恐ろし不可思議な経験をしたし、リスクを嫌う彼等がどれだけ物理的な証拠がないと言っても、これ以上私の前で早々犯罪の尻尾を掴ませることもない。少なくとも、私がいなくなったりしない限りは、元の日常に戻るだろう」


つまり、崩壊したクラスは、その元凶ともいうべき彼等を失い、あとは私達の身の振り方次第でいくらでもその姿を変え得るということです。


このまま堕ちたままになるか、もとの姿に戻れるか、それは私達次第なのです。


―――私次第で、他の誰でもない、私の問題です。


「……ありがとう、ごさいました」


もう一度、私は彼女に頭を下げました。


今度は「どういたしまして」と彼女も応じてくれました。


そして、「さて」と彼女は魔改造したら制服を翻して私に背を向けます。


「私は先に戻っておくよ。フィクサー達が何かしでかしていないか、一応確認しておく必要があるからね。ちなみに、これは私個人の反省、という奴だ」


自虐的に、彼女は別れの言葉を口にします。


「―――まあ、理想通りでないことには目を瞑るさ。所詮紛い物である私には、この程度が限界ということだ」


紛い物。


それは、人に対しての形容としては、決して良い意味で使われるものではないでしょう。


しかし、そう自称する彼女の言葉からは、負の感情は一切感じられませんでした。


寧ろ、強い憧憬の色が、彼女にはありました


「まるで、本物がいるような言い方ですね」


彼女の憧れが何処から生まれたものなのか、何処へ向かうものなのか、暗にそのことについて問い掛けます。


「いるよ」


彼女は力強く、答えました。


「私のような偽物じゃない、本当の魔法使いが、この学校にはいるんだ」


「嘘じゃないよ?」と彼女は半信半疑であった私に、そう念押します。


「だから、私がもしいなくなって、君の身が脅かされることがあっても、心配は要らない。その時は、きっと―――本物の魔法使いが、君の力になってくれる筈さ」


魔法使いがいる。


偽物であり、私を救ってくれた魔法使いは、そう言って私の前から去りました。


最後の一言は荒唐無稽なようでいて、彼女は確信を持っていたように、私には感じました。


その一言は彼女が亡くなった後も、私の頭に残り続けたのです。

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