第二十一話 文学少女の過去と今(3)

ケルベロス。


ギリシア神話に登場する、地獄の番犬。


黒い体毛。


頑強な体躯。


口元から伸びる、白く鋭利な牙。


何より、それら身体的特徴の全てが巨大であることが、空想上の化け物であることを表しています。


目の前に現れたのは、そんな怪物でした。


「……は?!まだいるんだよ!」


最初、声を上げたのは竹名君。


「あ、あいつはもう死んだ筈だろ?!」


彼は一年前と同じく、本気で予想外の事態に驚いているようでした。


かくいう私も、彼と同じ気持ちで、混乱しています。


どうしてに、に、地獄の番犬は現れたのでしょう?


「そ、そうだ!ど、どうせまた、ハッタリに決めっている!」


そう。


一年前の魔法は、ハッタリでした。


種も仕掛けも存在する、魔法使いと憚る奇術師が見せてくれた手品。


私を救ってくれた、優しい嘘。
















―――――――――













「はい、今月の分」


「……どうも」


とある、私はいつものように旧校舎の体育倉庫で竹中君から薬を受け取ります。


薬の数はクラスに薬が広まれば広まるほど増えるので、彼の代わりに薬の売人をしていた私は毎月、この場所で彼と落ち合い、薬の補充をする必要があるのです。


ここはラルフと出会い、飼っていた場所です、本当はこんなことには使いたはなかったのですが、他ならぬ竹中君がこの場所と、時刻を指定してきました。


日がまだ低い早朝、人気のない旧校舎の中でもさらに薄暗く目立たないこの体育倉庫は秘密裏に薬を受け渡すのには最適だったからです。


私は彼の命令に、頷くことしか出来ない。


だからせめてもの抵抗に、ラルフだけは巻き込まないよう、竹中君たちが来る間は彼を校舎内の別の場所に匿い、倉庫からは彼を飼っている痕跡を消しています。


……いえ、彼の為ではなく、私はただ彼に薬に逃げ、罪を重ねている姿を見られたくないだけかもしれません。


本当に、自分勝手な女です。


「それじゃあ、今月もよろしくね」


「……はい」


了承を示す言葉を無気力に投げます。


もう、随分慣れたやり取りでした。


そんな無愛想な言葉にも満足したそうで、竹中君たちは倉庫から立ち去ろうとします。


―――はあ、やっと終わりました。


月に一度の、憂鬱な時間。


この時間が過ぎれば、なるべく疑いの目を向けられたくない彼等は学校内外問わず、私と関わりを持とうとはしません。


これでまた、つかの間の平穏がやって来るのです。


……違いますね、これはただ誤魔化しているだけです。


今のクラスの惨状は平穏とは程遠く、その状況を生み出したのは私。


薬に、罪に、縛られた生活を送っているだけ。


そこに自由はありません。


抜けられない地獄。


一生、私は囚われ続けるんでしょうね。


自分の先行きのあまりの救いの無さや、救いなどある訳が無いという自嘲など、躁鬱入り乱れる感情を抱きながら、その日も黙って彼らの背中を眺める。


その筈でした。










―――彼女が、現れるまでは。


「待ちたまえ!フィクサー!」


よく通る声音。


発せられた音は体育倉庫という密閉空間を隅々まで響き渡ります。


「……え?」


声の主は、いつからそこにいたのか……私のすぐ隣に立っていました。


彼女の存在に、私は勿論、竹中君も、彼の取り巻きたちも、誰もが気付くことは出来ず、彼女はまるで魔法のように、何もない場所をから突然現れたのです。


そして場外から無理矢理乱入してきた彼女は高笑いを上げながら我が物顔で倉庫の真ん中を陣取り、私達はその光景を黙って見ていることしか出来ませんでした。


頭には大きな魔法帽を被り、最早原型を留めていない改造制服を身に着けている、その姿はまるで物語に登場する魔女のよう。


本来はいる筈のない人間の出現、そしてその人間のあまりにも奇抜な服装、それらの要素が私達の頭の中を引っ掻き回し、状況を飲み込むだけでも精一杯でした。


思い返せば、これも彼女の奇術の下地の一つだったのかもしれません。


これから行う奇術……嘘を効果的に魅せる為の、演出の一つとして、彼女はこの場を混乱の渦に巻き込んだのです。


そして渦の中心である彼女は、この場をさらに、自分が思い描くものへと誘う。


「だ、誰だお前?!一体どこから?!」


竹中君のらしくない怒声。


それはこの混乱に飲み込まれまいとする、必死の抵抗だったのでしょうが、彼女は意に介さず、場の主導権を渡しません。


「瞬間移動の魔法だよ」


「……は?」


「なあに、私は―――ただの通りすがりの魔法使い。それだけのことってわけさ」


「な?!」


竹中君はそれ以上言葉を続けることは出来ません。


彼が言葉を失うのも仕方がないでしょう、それだけ彼女の答えは、常識では辿り着くことの出来ないものだったのです。


彼は確かに聡い人間ですが、彼の口にするどんな理屈や正論も、言葉が通じない相手にとっては、ただの雑音にしかなりません。


論理の外側から来る妄言には、どのような理論武装も意味をなさず、冷静に対処しようとしても出来るわけが無いのです。


「さて―――」


仕切り直しと言わんばかりに、彼女はくるりと一回転し、ローブのような改造制服を翻します。


倉庫内において、唯一彼女に歯向かえる可能性があった竹中君の沈黙―――それによって、彼女は完全にこの場を支配することになりました。


端役ですらなかった漆城羽火が、一瞬にして主役になったのです。


「我が仮の名は漆城羽火!そして、真名は、ウルティマ・サテナ・クロウリー!魔法結社TMC団の団長であり、現代に降り立った、由緒正しき魔法使いの一人!」


そう名乗りを上げる彼女。


……頭おかしいんじゃないのかな、この人。


「蝿の王よ!」


彼女は私を指差し、真っ直ぐな目で私を見ます。


「……私、ですか?」


蝿の王。


確か蝿の悪魔の名前でしたか?


成る程、彼女がどこまで私のことを知っているのかは分かりませんが、的を得た呼称ではありますね。


他人に群がって、悪影響しか及ぼさない、蝿。


今の私にはぴったりです。


「私はお前を倒しに来た」


「倒す?」


彼女と私には接点が無いので、どこまで私のことを知っているのかは分かりませんが、少なくとも敵意や反抗心を向けていなければ「倒す」なんて表現はしないでしょう。


つまり、私が敵意を向けるに値する、愚かな罪人であることを、彼女は知っているのです。


私が薬の売人であること。


私がクラスを崩壊に導いたこと。


私がクラスメイトの人生を無茶苦茶にしたこと。


私の―――罪。


それを、彼女は知っているのです。


「いと尊き学舎にまさかそのようなものが流されているとは、魔法使いの一人として見過ごすことは出来まい」


やっぱりです。


ということは、現行犯で捕まえる為に、わざわざ早朝に現場を押さえに来たということですか。


「他クラスの事情にも関わらず、随分と正義感の強い人ですね」


「私は正義の魔法使いの一人だからね」


彼女は誇らしげに胸を張る。


魔法使いに正義も悪もあるのでしょうか?


……まあ、私を捕まえてくれるというのなら、正義でも悪でも、魔法使いでも警察でも構いません。


「では、言い逃れは出来ませんね」


私は持っていた薬の入ったケースを、これ見よがしに見せつけます。


横目にチラリと竹中君の方を見て、彼は何も言わずに頷きました。


「そうです。私がクラスの混乱の元凶ですよ。竹中君達は―――薬を渡す為にここに来て貰いました。つまりは被害者ということでね。それで、どうしますか?学校側に突き出しますか?それとも直接警察にでも行きますか?」


少し庇っているのがあからさま過ぎますかね?しかし彼女も薬を持っている私の言葉を無下には出来ないでしょう―――私の言葉を疑うに足る証拠もないでしょう。


私は彼に疑いの目が向かないようにする、スケープゴート。


よってここでは、クラスで起きた騒動の主犯としてこの魔法使いに捕まることが私の役割です。


勿論、捕まった後も彼については一言も喋ってはならず、嘘八百であること無いこと並べ立てて彼を擁護しなければなりません。


一応目配せをして確認したので、まあ彼の機嫌を損ねるようなことはないでしょう。


私は醜い蝿、餌付けをする主人に従うことしか出来ない、意地汚い虫。


だから、これが正解。


そう自分に言い聞かせます。


「どちらにせよ、このような閉塞した場所にいつまでも居続けるのは、貴女も本意ではないでしょう?一先ずはここを出ましょう」


尋問するにしても拘束するにしても、もっと良い場所はいくらでもあります。


その事実を尤もらしい理由として、彼女が掌握し、膠着してしまっているこの状況から脱出―――今この場での、これ以上の彼女の追求を避けます。


見たところ彼女以外に仲間はいないようなので、彼女が拘束出来たり警戒を回せたりするのは精々が一人でしょう、その一人に私がなれば竹中君達への追求は一時的に躱せ、彼等が私との関係を有耶無耶にして逃げられる時間も作れます。


勿論、その後は彼等は私に一切関わらず、私も彼等について知らぬ存ぜぬを決め込みす……うん、囮としてはこのくらいが妥当な仕事でしょうか?


まあそれでも問題点はいくつかあります。


この薬を調べられれば、それを道筋にして彼と……彼の父の会社にも辿り着かれる恐れがあるので、どこかで薬は処分する必要がありますね。


今薬を見せつけたのは、確たる物理的な証拠があると彼女に示すことで、私がこの騒動の主犯であり、かつ言い逃れが出来ない状況であると思わせて、彼女を油断させる為です。


……さて、ここまでは良いとして、安心しきった彼女の隙をついてどこでこれを処分しましょう?


と、私は既に捕まった後のことに思考を巡らせ、自分の身の安全なんてまるで考えてはいませんでした。


我ながら奴隷根性が逞しいですね。


「まあ待ちたまえよ、蝿の王」


その呼び方で固定らしいです。


……あまりいい気はしませんね。


「何ですか?」


「君はそれでいいのかな?」


「……何が言いたいのですか?」


「私は君を捕まえただけで解決した気になる、役所仕事めいた偽善行為は望まないということだよ。そんなことをしたら、正義の魔法使いの名が泣くだろう?」


一体彼女はどこまで知っている―――いや、どこまで見ていたのでしょう?


「何を言ってるんだい、漆城さん?僕達はただ巻き込まれただけさ、そうだろ?」


竹中君の言葉に、彼の取り巻きは一斉に頷きます。


「茶番はやめたまえよ、フィクサー」


フィクサー、竹中君のことですか。


影で暗躍する、権力者。


それも彼には相応しい言葉かもしれません。


「私は見ていたのだよ、君が蝿の王に薬を渡している場面を。それに、彼女が主犯で無いのは証人から確認済みさ」


「……でも彼女が薬をクラスに広めていたのは事実だ。彼女が大きくクラスを混乱させ、学級崩壊に追い込んだ事実は変わらないだろう?」


彼は薬の受け渡しが見られていたことを知ったら直ぐに、自身の罪を少しでも軽くしようと言葉を尽くします。


事件でも最も幅を利かせたのは誰か?一番多くの人間を不幸にしたのは誰か?そういった観点から、最も注意すべき人間が誰かを示すのです。


「なら君が薬を渡していたのも事実さ。君は、彼女を利用した。その事実は変わらないし、たとえ君より実害を出した人間がいたとしても、君の罪が無くなることはない。況してや、薬と脅迫で彼女を従えていた君が、無実であることは道理に合わないのではないかね?」


「……僕が脅迫?それは言い掛かりだよ。確かに僕らは過ちを犯したさ。反省している。でも、そこから犯人扱いまでされるのは納得できないな」


彼は軽薄に、思ってもない反省の言葉を口にします。


「ここに来てまだしらを切る気とは、見上げた面の皮の厚さだぞ、フィクサー」


「しらを切る?何が?君の妄想には付き合ってられないな。僕らは帰らせて貰うよ」


ひどい言い掛かりに腹を立てたという体裁を盾に、彼らは一刻も早くこの場から離れようとします。


普段の彼にしては随分強引な論法ですが、それだけ彼も切羽詰まっていることを示しています。


「待ちたまえよ」


踵を返そうとする彼らを、彼女は再度制止させます。


竹中君は苛立った様子で振り返ると、節々に怒気を孕ませながら言葉を捲し立てました。


「……じゃあさ、たとえ君の言ったことが真実だったとして、それをだれが信じるっていうんだ?見たことをそのまま伝えるつもりなら、無駄だよ。口だけならいくらでも言えるし、嘘をつくことだって容易だ。決定的な証拠にはならない。ちゃんとした証拠を見つけてから僕らを問い詰めるんだね」


証言。


それもたった一人のものでは、その信憑性はたかが知れています。


もっと客観的な証拠―――写真でも撮っていたなら別でしょうが、薄暗い倉庫内ではフラッシュを出さなければはっきりと写った写真は撮れないでしょうし、仮にフラッシュを出したのであれば、流石に誰かは気付く筈です。


録音という手もあるでしょうが、先程までの会話の中で彼は意図して確信的なことなは触れていないので、それも証拠にはなり得ない。


よって、彼女が世間に訴えたところで実行犯である私はともかくとして、竹中君たちまで捕まることはないのです。


「君の尺度で語られては困るなあ。そんな考えは何も意味を持たないよ。なんせ私は、魔法使いだからね。この場にも瞬間移動の魔法で現れた、正真正銘の正義の魔法使いさ。君達の想像もしない手段で秘密を暴き、証拠を押さえることなど造作もない」


嘘です。


彼女は瞬間移動の魔法だと言ってましたが、そんなファンタジーが現実に有るわけがなく、彼女がやったのは一種の奇術です。


改めて周りを見れば、倉庫内の物の配置が若干変わっていました。


私達がいた入り口の近くには大きい物を、奥には小さいものが配置され、入り口付近にはいくつも人一人隠れられるくらいの死角が存在しているのです。


さらに色が派手な備品が何個か目立つように前面に出しており、その大きさも相まって一層その備品に目を引かれ、その周囲の変化には注意散漫になってしまいます。


私と彼等のやり取りを見ていたということから、恐らく彼女も私達と同様にそのいくつもある死角の内のどこかで息を潜めていて、それからタイミング良く私達に姿を見せれば、あたかも急に人が現れたように見える奇術の完成です。


魔法なんかじゃなく、種も仕掛けもある小賢しい嘘。


だから彼女の言葉も嘘―――ハッタリに他なりません。


「……埒が明かないな。君には、言葉が通じそうにない」


心底呆れたように、彼はそう溢しました。


相手は年甲斐もない中二病を発症している自称魔法使い。


まともに取り合うことは出来ず、その必要もないでしょう。


言葉とは、誰にでも扱えて一発逆転の可能性がある有効なジョーカーであると同時に、上手く扱えなければ紙くず同然にもなりえる代物。


彼女の言葉は、語れば語る程にその信憑性は薄れ、私達への影響力もまた、薄れて行くのです。


「嘘ではないよ」


ですが道化になっても尚、彼女は語ります。


「フィクサー。君のしでかしたこと、精算すべき罪。それを裏付ける者も、信じる者もいる。知っている者が少なくとも一人、ね」


彼女は私に視線を合わせ、そう言い切りました。


「そんな奴、いる訳ないだろ」


「いるさ」


彼女は真っすぐ、曇り一つない眼で見つめて来ます。


「……?」


その言葉は彼に対してのものでしたが、これではまるで、私への問いかけです。


いえ、最早「問い」と呼べるような、返答を期待する不確実なものなどでもなく、既知の答えを確かめているような、そんな確認作業にも似たやり取りを彼女はしていつもりなのだと、私は感じました。


ある人物が、必ず竹中君たちの罪を暴くと、彼女は確信しているのです。


それは一体誰なのか。


―――まさかその人物こそが私だとでも、この魔法使いは言うつもりなのでしょうか?


いやいや、ありえないでしょう。


確かに私は竹中君の裏の顔、目的、罪を知っています。


ですがそれはあくまで共犯者として、なのです。


私と彼は同じ罪を持つ者同士―――いえ、そんな運命共同体のような美しいものではなく、罪を被る隠れ蓑として、私は彼に使われているだけ。


逆らうことは出来ず、どころか逆らうことをしようともせず、無責任に主体性なく、私は罪を重ねてきました。


そんな私が、今更内部告発のようなことをすると、彼女は本気で思っているのでしょうか?


出来る訳がないでしょう。


私は逆らえないのです。


私は逆らわないのです。


群がるだけの害虫なんです。


―――それに、彼女は最初に言ったではありませんか。


「貴女は、私を倒しに来たと、そう言っていました。私は貴女の敵で、捕まえるべき存在で、裁く対象の筈です。そのような私が、貴女に協力する訳ないでしょう?」


「え……」


彼女はふいを突かれたように、キョトンとしました。


「どうして?」


そして、心底分からない、とでも言いたげに彼女は首をかしげます。


「……本当に私を当てにしていたんですか?」


「そう……だよ?」


はあ?と言いたくなりましたが、その気持ちをグッと堪えます。


そして平静を保とうとして―――


「だって、君なら出来るだろ?」


「……は?」


―――その態度が、その言葉が、私の神経を逆撫でします。


必死に抑えていたものが、溢れ出してしまう。


―――私の何を知って、こんな荒唐無稽の言葉を吐いているのでしょう?


―――私のことなんて、何も知らないくせに、どうして知った口が利けるのか?


―――呑気に中二病を拗らせている貴女に、私の気持ちも、不安も、焦燥も、分かる訳が無いでしょう?


決壊したダム水のように、彼女に対する負の感情が湧き出て、それが脳内を駆け巡って、いっぱいになって――――――


「やれる訳ないでしょう!」


気付いたら、私は声を荒げていました。


「そんなこと!出来るならとっくの昔にやってるんですよ!脅されて!諦めて!陥れて!……燻って、這い蹲って、媚びて、生き延びて、それが今の私なんです」


私は高尚な理念も、正義感も、決断力も、何一つ持ち合わせてはいない。


自分では一歩も動こうとしなかった、臆病者。


卑怯者。


空っぽの人間。


腰巾着。


蝙蝠女。


それが私です。


そんな私を当てにするなんて、お門違いも甚だしと、嗤えてきます。


嗤えるくらい、腹立たしいです。


怒りを訴え、ぶつけるように、私は彼女の胸ぐらを乱暴に掴む。


「出来ないから、こんなことをしてるんですよ!?貴方の言う通りなんですよ!私は……」


私は、何を怒っているんでしょう?


どうして……涙を流しているのでしょう?


そんな資格、私にはないでしょうに。


誰を差し置いて、私が感情を吐き出せるというのです?


この状況も、全部自分の責任ではないですか。


自分の身を守る為、自身の罪から目を背け続けた人間の末路、滑稽でしかありません。


釈明の余地なく、残当な結末です。


被害者意識なんて私は持っちゃいけない、私は加害者です。


「私は……醜い蠅だから……」


だから、涙は流してはいけません。


罪人として、加害者として、涙で同情なんて誘っちゃいけないのです。


止まれ。


止まれ。


止まれ。


そう強く念じるのに、涙は止まってくれない。


ああ、醜いなあ……本当に嫌になる。


勝手に傷ついて、腹を立てて、乱暴して、なんて醜い人間なのでしょうか。


「私は、蝿の王を倒しに来た」


そう言って私の掴んでいた手を、優しく包み込みます。


こんな私に、彼女は同じ言葉を―――今度は落ち着いた声色で―――掛けてくれました。


「君の罪は消えない。けれど、だけが君の全てじゃない」


彼女は自身の手を私の後ろに回し、抱擁する。


私より小さい身体からは温かさと、安らぎを感じた。


「君は間違いもするだろう。取り返しのつかないことだって、やってしまった。その責任は取るべきさ。でも、一つの過ちや欠点だけで君の全ては決まらない。君のやさしさ。強さ。それらも確かに、君が持っているものなんだよ?」


「……私の何を知って―――」


「知ってるよ。勿論全部分かってるなんて思ってはいない。それは傲慢だ。あくまでも知り得ているのは、ほんの一部分に過ぎない。けれど、それも立派な君の一部だ。一人ぼっちで野垂れ死にそうになっていたを助け、何年もかけて対話を重ね、育てた。そのやさしさ、芯の強さは誰にも否定できない、君だけのものだ」


「……!」


彼女は私の全てを肯定するわけではありません。


仮にされてしまったら、私は彼女の言葉を気に留めることも無かったでしょう。


ただの薄っぺらな自己陶酔交じりの偽善的な言葉として、処理した筈です。


けれど彼女は、私が悪いと言ってくれた。


その上で、私を肯定してくれた。


私の今のくそったれな自分を否定しても、過去の輝かしい思い出は肯定してくれる。


―――素直に、嬉しい、と思ってしまう。


満たされてしまいます。


けれど、何故彼女はそこまで私のことを知っているのだろう。


「あの……一体誰から……?」


「ん?魔法使いだからね。これくらいは造作もないことなのさ。ああ、安心したまえよ、勝手に赤の他人に流布したりはしないさ」


企業秘密、ということらしいです。


というか、そんなに身の隠し方が上手く、情報収集能力が高いのなら私立探偵でもやったらどうでしょうか?きっと天職ですよ。


……冗談はさておいて、真面目な話で、情報元を秘密にされても大体目星は付いてしまいます。


私の過去を知っている人間は少ないのです。


恐らく、に彼女は会ったのでしょう。


「罪を犯したなら、償えばいい。たとえ周りの人間からは関わらないことを、そして死を望まれようとも、君は償うことしかできない。それはただ許しを請うよりもずっと辛い、茨の道だ。でも君なら歩むことが出来るだろう。許しを得る為ではなく、自分自身が前を向くために、君は行動すべきだ。君にはそれが出来るくらいのやさしさと、強さを持ち合わせている」


「だから、協力しろと?現金な人ですね……」


彼女にとって、これまでのやりとりはただ自分という敵の情報を探る為の、茶番なのかもしれません。


私は彼女にとって、今だけの体のいい道具―――竹中君のように利用する為だけの、そんな存在なのかもしれません。


―――こんな人に絆されるのは馬鹿げていると、また騙されるのか少しは学習しろよと、そう自嘲してしまいます。


私の判断能力の無さは言わずもがな、感情に任せても録なことが起きませんでした。


「やっぱり。私なんか信じられないよね」


「……え?」


抱きしめられた状態から、竹中君たちには聞こえないくらいの声量で、そう耳打ちされました。


今までの不遜な態度が嘘のように、声量だけでなく口調までも変わっていました。


「あの……」


「静かに。彼らに聞こえちゃう。時間も無いから、貴女は聞くことに徹して欲しい」


「……分かりました」


「ありがとう。水巴さん、胡散臭く見えるのは百も承知で、今だけは私のことを信じて欲しい。こんな見るからにペテン師な私が『信じろ』なんて言うのは滑稽に映るだろうけれど、どうかこの詐欺師に、今は騙されて欲しい」


何だか不思議な感覚です。


自分のことを嘘つきだと自称して、それで『騙されてくれ』なんて正面から言われたのです。


不誠実な要求を誠実にお願いされているという、そんなちぐはぐな状況に私はいるのです。


「少なくとも私は、絶対に君だけを助けたい」


彼女の表情はここからでは見えず、読み取ることは出来ません。


ですが真剣に思いを伝えられていることは、彼女の顔を見なくてもなんとなく分かります。


それが分かるくらい、彼女の声は真っ直ぐ私に届いてくるのです。


何より、こうして彼女に抱き寄せられ、直に触れることで初めて気付けことですが、彼女の身体は小刻みに震えています。


それは私のよく知る―――恐怖によって引き出されるものでした。


そうです、こんな倉庫内に単身乗り込み、数的不利を承知で対等な交渉をする、それが怖くないわけがないんです。


彼女は奇術と話術で場の主導権を握り続けましたが、その理由は交渉を有利に進める為ではなく、そうでもしないと対等な話し合いになどならないと彼女は分かっていたからだったのです。


この状況も、彼女の不遜な態度も、全ては彼女の言葉に私たちが聞く耳を持ってもらう為の布石。


それだって上手く行く保証はどこにもありません。


そんな未知数な勝算に賭けて彼女はここに来……震えるなと言う方が酷でしょう。


さっきは大きく見えた彼女の身体は、何だか小さく感じます。


独りで戦う、その苦しさは私では計り知れません。


しかも他人の為ですよ?たとえ自分の為でも、それは私には出来なかったことです。


けれど私よりも一回りは小さい彼女は、震えながらも立ち向かっている。


怖い癖に、あくまでも私を助けたいと、私を思いやってくれているのです。


彼女の背中に手を回して身体を寄せると、震えが一層伝わって来ました。


「……分かりません。どうしてここまでするんですか?何のために?」


「貴女を助けたいからだよ。お節介かもしれないけど、君だけが不幸になるなんて納得出来ない。君だけが罪を背負って他の奴ら被害者面なんて、認めたくない。だって私は―――正義の魔法使いだからね」


彼女はまた、そう嘯きました。


震えながらも、私の為に言ってくれたのです。


「おかしな人ですね……」


そんな彼女に絆されてしまい。彼女の覚悟に答えてあげたいと、私は思うようになりました。


どうしようもなく罪深い私は、愚かな行為を繰り返してきた私は、自分の決断を信じることなんてもう出来ません。


これからもきっと、私は愚かな行為を重ねて、罪を積み上げていくのでしょう。


だからせめて―――それが、愚かであろうと、罪深いものであろうと―――最後くらいはこんな私なんかを想って震えながら訴えてくれる彼女の為に、決断したいのです。


「……まあ、どうせタダではすまない、ですよね」


諦めたように、小さく呟きました。


あくまでも理性的で人間的な判断だと意地を張らせてもらいます。


これはそんな、意味の無い格好つけです。


私が行動しても、しなくても私の結末は変わらない。


過去は消えません。


後戻りできるような地点は、とっくに通り過ぎてしまいました。


なら、何を遺せるかを考えるべきでしょう。


ただの意趣返し、復讐、或いは偽善。


―――それと、こんな私に声を掛けてくれた彼女への、恩返し。


形容する言葉はいくらでもあるのでしょうが、ともかく私は、このまま終わるのはどうしようもなく癪であるという、それだけのことなのです。


「分かりました。私に出来ることなら、協力させてください」


「……ありがとう」


感謝したいのは私の方ですよ。


言葉を返そうとしましたが、それが叶うことはありませんでした。


勢いよく彼女に胸を押され、後方に突き飛ばされてしまったのです。


訳も分からず地面に投げ出された私は顔を上げた次の瞬間、どうして彼女がそんな行動を取ったか、理解しました。


さっきまで私が立っていた場所に、倉庫にあったハードルが明確な害意を持って投げつけられたのです。


鈍い轟音が倉庫に響きます。


もしあれだけの質量があれだけ速さでぶつけられたら、私はひとたまりも無かったでしょう。私はこのを行った人間たちがいる方を向こうとしましたがそれより早く、私の髪をつるし上げるように引っ張って、強制的に私の顔を自分の方へと向けさせました。


「何コソコソしてんだよ?まさか寝返るなんて言わないよなあ」


「竹中君……がっ」


彼は私の頭を今度は地面へと顔を下向きに叩きつけました。


「はい反抗的な眼~、推定有罪!」


「いっ……」


「感謝しろよ。虫なんかが俺直々に躾されるなんて、お前は幸せ者だ」


「何を……うっ」


彼はまた強く私を地面にぐりぐりと押し付けます。


痛い。


痛いし、呼吸も苦しい。


声が出せない。


彼は抵抗出来ない私の懐からケースを取り上げました。


あれは彼の父の会社に繋がる重要な証拠、是が非でも回収したかったのでしょう。


「ったく、何絆されてんだっ!」


彼は私を俯せに押さえつけながら、膝で私の背中を強く打ち付けました。


鋭い痛みが私を襲い、肺の中の空気が無理矢理吐き出されます。


「やめたまえ!生徒に危害を加えて悪い風評が流れるのは、君も望むことじゃないはずだ」


「うるせえ。いきなりしゃしゃり出てきて、でかい顔するんじゃねえよ。それに安心しろ、噂が流れることはない。ここにいる誰も漏らさねえからなあ」


彼の取り巻きたちが彼女を取り囲むように前に出ます。


「……脅迫のつもりかい?」


「ちげえな。散々好き勝手してくれたんだ、ただで返すわけねえだろうが。口で済ませる段階はとっくに過ぎてんだよ。口が聞けないくらいにボコボコに、思い出したくもないくらいにギタギタに、してやる」


「や……め……がっ!」


「喋んな」


押さえる力がより強くなりました。


口のなかに砂利やほこりが入ってきました。


痛い。


汚い。


でも、止めなくちゃ。


私を助けてくれた彼女が、私の罪を認めてくれた彼女が、私のせいで傷付くなんてあってはダメです。


―――もう、私のせいで誰かが傷つくのは、見たくない。


「安心したまえ」


一体四の人数差で、さらに相手は全員が小柄な彼女よりも身体が大きいのです。


そんな正しく絶望的とも言える状況にも関わらず、彼女は私を気遣い語りかける余裕すらありました。


「私は、正義の魔法使いだ」


目の前の奇術師は、そう不敵に笑いました。


「……糞が」


彼女の態度に、竹中君は露骨に嫌悪の声を漏らしました。


「もういいよ、お前。死ね」


死ぬ?まさか彼は、彼女を殺そうというのでしょうか?ハッタリ?いえ、彼なら本気で実行する。


相手が同級生であろうと、自信が学生であろうと、柵なく、躊躇いなく、彼は人を殺してしまう。


冗談では済まない彼の性格を、私は今まで幾度となく見てきました。


このままじゃ、彼女が死んじゃう。


「だ、駄目―――」


瞬間、体育倉庫が白い煙に包まれました。











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