第二十話 文学少女の過去と今(2)
バアルゼブル。
それが、このケースの中に入っているものの正体。
竹中製薬の開発した、ベンゾジアゼピン系の新薬―――抗不安剤の一種です。
私はその実物を得るために、ここまで来ました。
彼がまた、私に臨床試験の手伝いをさせようとしていることは、少し考えれば分かることだったので、その状況を利用することにしたのです。
「貴方の父の会社の建て直しを図った、起死回生の一手。そんな新薬が実の息子経由で流出した、とあってはこの薬の承認も頓挫してしまうかも知れませんね」
私がこの薬を世間に公表してしまえば、彼も、彼の父の会社も破滅の一途をたどるでしょう。
「貴様……!」
この新薬は、汚職関係で業績が低迷していた竹中製薬を再興させる為に、急ピッチで開発されたものです。
ですがどれだけ開発期間を前倒しにして進めても、必ず一定の期間―――少なく見積もっても10年は掛かる工程が、新薬開発にはあります。
それが、臨床試験です。
特に人間に対してのそれについては、竹中製薬では被験者を集めるのも困難でした。
誰も、不祥事を起こした会社が作った薬なんて飲みたくありませんからね。
ですから、竹中製薬は―――竹中勝は、ある悪魔のような方法を以て、新薬の臨床試験を進めました。
その方法とは、この新薬を欲しがりそうな人間のグループに、裏でひっそりと、ながし始めたのです。
そして薬の情報が、そのグループ以外の人間には漏れないよう、後から違法薬物に手を出したという暴露をし、罪悪感で被験者たちを縛り付けました。
では、そんなグループとは何でしょうか。
抗不安剤。
その薬を求めるのは、人間関係や環境の変化に悩みを……それがたとえ具体的でないにしても漠然と将来に不安を抱いている人でしょう。
或いは、既に絶望を抱えている人間です。
前者は彼の周りに多くいました。
一年前。
中学から高校へと環境を変え、受験という選別を受けたことから人間関係も一新されてしまいます。
なので、勉強についてでも運動についてでも、将来に不安を感じては、その不満を吐き出せずに溜め込んでしまう生徒は、当時のクラスには多かったのです。
そして、後者は幸運にも―――私にとっては不幸にも―――両親の死により鬱屈していた生徒が、彼のクラスには在籍していました。
彼は最初、その生徒に近づき、薬をちらつかせました。
安易な逃げ道を探していたその生徒は、愚かにも彼の口車に乗り、薬を服用してしまったのです。
薬を飲めば、自分の身に起きた不幸を、少しの間だけですが忘れることが出来ました。
薬を飲み続ければ、眠れない夜を過ごすことがなくなりました。
その場凌ぎの逃避行。
一時的な快楽。
見せ掛けの解決。
ですが、彼女は、それに縋ってしまいました。
薬の効果が切れれば、また鬱屈とした日々に戻ることになります。
いつしか彼女は現実を直視することすら避けるようになり、薬の量は日を追う毎に増えていきました。
そうなってしまえば、もう手遅れです。
気付いた頃には、彼女は薬無しには日常を送ることすら困難になってしまいました。
薬という紛い物に浸り続けた結果、彼女は抜け出せなってしまったのです。
―――本当に、馬鹿な人でした。
大馬鹿者です。
それからの私は、薬を得るために彼に従う、奴隷も同然になり下がってしまいました。
蜘蛛の巣に絡みとられた獲物のように逃げ出すことは出来ず、ただ彼の言われるがままに、被験者を増やすための、他のクラスメイトに薬を広める役割をこなす日々です。
彼自身には疑いの掛からないよう、表向きは薬の売人としての役割を強いられたのです。
中学の頃はあまり成果の出ていない運動部員に、成績不振の秀才肌の生徒に、友達作りが上手く行かずに孤立してしまっている生徒に、私は薬を与え続けました。
薬に依存する生徒が出ました。
急な眠気に襲われる生徒が出ました。
情緒が不安定になる生徒がでました。
理性が働かなくなる生徒が出ました。
―――ほどなくして、クラスは崩壊しました。
それでも、私はやめませんでした。
自ら逃れられなくなった快楽に、他の人間も引き込んでいきました。
そんな彼女は、紛れもなくあのクラスの中で加害者であり、クラスメイトたちからは忌み嫌われて当然なのです。
彼らは、聞かれても私のことを語りたがりません。
それは、当然の成り行きです。
彼らにとって、私は思い出したくもない加害者で、今後一生関わりたくない怨敵でしょうから。
そして、クラスメイトたちも自分達が薬に手を出したという事実が広まるのを恐れて、薬については口を割りません。
彼の思惑通り、クラスの怨嗟の目が彼にまで向かうことはなく、クラスの崩壊に彼自身はただ傍観するだけで、ただ一人だけ何も失わずに目的を達成してしまいました。
これが、あのクラスで起きた悲劇の全容です。
言い逃れ出来ない、私の罪。
一度は目を背けた業。
……今度は、逃げることは許されません。
「……は、はは」
「竹中君?」
「うははははははははははははははははははは―――」
彼は狂ったように笑い出しました。
心底愉快そうに、身体をねじれさせ、口角を目いっぱい釣り上げての、哄笑。
彼は今まで被っていた仮面を剝ぎ取り、本性を露わにしたのです。
「はあ―――、はっ。ああ、腹痛え。なあ水巴、お前やっぱ馬鹿だ」
ひとしきり笑い終えて向けられた声は、打って変わって、ひどく冷たいものでした。
「何でこの状況で、俺に逆らえる?それは蛮勇ってもんだろうさ。いい加減学習しろよ、蠅。お前にできることなんてのは何一つない。どうせ逃げ出す。どうせ飲まれる。これまでもそうやって、見て見ぬふりして、被害者面して、勝手に堕ちて来たじゃないか。もういい加減分かれよ、お前はそういう、どうしようもないチンケな虫けらなんだよ。一回ラッキーパンチで救われて、自分の根っこの部分が変わったとでも、本気で思ってんのか?いいかお前がクズでムカつく女ってのは、俺のせいじゃねえ、お前の元々の性根が腐ってるからなんだよ。俺から離れて、何を決心しようが揺るがない、本質ってやつさ。それを何勘違いしてんだ?いやあ笑える!勘違いして粋がってる奴ってのは何でこう笑えるんだろうな!!笑い過ぎてよお―――ちょっとムカつくわ」
彼は落ちていた黒いビニール袋を踏みつけました。
グチャリ、と水っぽいものが潰れる音が聞こえます。
「……」
―――信じられない。
彼の行動に、頭が一瞬真っ白になりました。
どうして、そんなひどいことが出来るんでしょう?
「あ?なんだその顔?蠅が、生意気にガン飛ばしてんじゃねえよ。ってか何で一丁前に立ってんだ?お前は群がって、地べた這いつくばるのがお似合いだろうが」
「……許せません」
「いや、蠅の許しなんて求めてねえから。お前はみにくいみにく~い蠅野郎。それで俺は高尚な人間様。虫が意見できるわけねえだろ。常識で考えろ、馬鹿が」
彼は一歩、私に近づきます。
それを見た私は身構え、一歩後ずさります。
彼がどれだけ凄もうと、この薬が彼の急所であることには変わりありません。
薬の存在を公表されれば彼と彼の会社は破滅する。
だからこそ、彼はそれを全力で阻止するため、この薬を私から奪い返しに来るでしょう。
この脅しに近い傲慢な態度も、私を委縮させ逃げ辛くさせようという、ただブラフに過ぎません。
こんな安いはったりに頼らなければならないくらいには、今の彼は追い詰められているので。
……大丈夫、状況は五分です。
私はそう心の中で唱えて奮い立たせます。
私と彼の距離は歩幅にしておよそ10歩。
この差を利用して、逃げきれれば私の勝ち、捕まってしまえば彼の勝ちです。
彼の取り巻きは、彼の後ろに付いて、前に出ようとはしません。
彼の豹変ぶりと状況の変化に頭がついて行っていないのでしょう、今がお互いの勝敗を分ける重要な局面であると理解できていないのです。
私と彼の一騎打ち。
状況は五分だと言いましたが、恐らく大半の人間は竹中君の方が有利であると考えるでしょう。
男女の体力差―――というよりも運動の出来ない私と得意な彼では、本来なら勝負にもならないでしょう。
だから、彼の足を止める何かが必要になります。
私はポケットに手を入れ、そこに忍ばせているケースの中かから錠剤を数個取り出して、薬がポケットに直に入ったことを確認します。
私が持ち帰るべきはケースの中にある薬そのものであり、このケースをそっくりそのまま死守する必要は無いのです。
彼の罪を告発するだけならポケットに直に入っているこの数個で十分なので、残ったケースを囮として使う、それが私に遺された唯一の策です。
彼は、私が走り出せばすぐに反応して追えるよう、私の動き一つ一つを注意深く観察しています。
今、彼の目当てのものであるケースが投げれば、彼はその動きを見逃さず、投げられたのがケースであることにも気付くでしょう。
少し考えれば私がまだ薬を隠し持っている可能性はあることは分かるので、この行動だけで聡い彼を欺き、手を引かせられるとは思っていません。
けれど一瞬、ほんの一瞬ですが彼も思考の時間を要し、初動が遅れ、動きは固くなります。
たとえ数秒でも、今のこの状況における一瞬は私にとって値千金です。
「……はぁ」
小さく息を出して呼吸を整えます。
大丈夫、私が有利です。
そう、もう一度言い聞かせます。
出まかせでも、暗示でも、思い上がりでも、それが少しでも臆病な自分を奮い立たせるものだったなら、十分なのです。
この一瞬、そこだけに勇気を振り絞れればいい。
それだけで、私の勝ちです。
一年間の罪を許されるわけではない。
一年間の逃避が無くなるわけでもない。
過去の自分は一切変わらない。
それでも今日、この日、この場所で、私は変わらなければならない。
ポケットの中のケースを固く握りしめ、彼に投げつけようとし正にその時―――
―――私が動くよりも早く、彼は足元にあるビニール袋を私に向けて放り投げました。
彼の想定外の行動に私は咄嗟に反応できず、投擲された犬一匹分の質量を持つビニール袋がぶつけられたことで、私はそんまま為す術なくバランスを崩して地面に転げてしまいます。
「ひぐっ!」
すぐに立とうとしましたが。上手く着地出来なかったことで足を痛めてしまったのか、足首に激痛が走ります。
これでは走るどころか、立ち上がることさえ出来ません。
「やっぱ虫は、地べたに這いつくばるのが似合いだよな」
彼は獰猛な、勝ち誇った笑みを浮かべ、近づいてきます。
―――ああ、彼の態度を見てやっと、私は彼に踊らされていたことに気づきました。
再三にわたり自身を必死に奮い立たせようとしていたのも、狭窄した思考を誤魔化してたことに他なりません。
私が必死に考え付いた策は、唯一だと思っていた勝ち筋は、彼によって導かれ、作られた紛い物の希望。
怒りに我を忘れたような振る舞いをしておきながらその実、彼は私の抵抗を事前に予見して、対策を打ったのです。
見せ掛けの希望をエサに、彼は全員を欺き、ただ一人勝つ。
一年前と一緒の構図。
彼の、言う通りかもしれません。
変わったなどと思っておきながら、一年前と何も変わっていない。
私の覚悟は、彼にとっては取るに足らないものだった。
最初から最後まで、あの一年前から全て彼の思い通りだったのです。
―――私は、あの魔法使いのようにはなれなかった。
諦めて目を閉じようとしたその時、それは現れました。
「―――あ?」
彼も、彼の取り巻きも、忍び寄る影に気づいて私から視線を外してそれを捉えました。
そして、私たちの時間が止まります。
非現実的な、しかし現実。
ありえないから思考が追い付かない、という訳ではなく、私たちは全員一年前の光景を思い出して、固まったのです。
それこそ、もう起こるはずのない、現象なのです。
体育倉庫の中から、大きな黒い巨体がゆくっりと出てきます。
一年前と同じ、彼女の魔法。
現実の犬をより大きく、そして首は三つに分かれた、神話上の化け物。
―――ケルベロスが、私たちの目の前に現れたのです。
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