三の二

 その日、新次郎が屋敷へ帰ると、見計らったように馬崎家老からの使いが来た。

 さあ着物を着替えよう、という拍子だったのでむっとしたが、玄関まで出てみると、すぐに屋敷まで来いという伝達であった。なぜ家老から呼び出されなくてはならないのか、という疑問はあったが、藩政の首座から来いと命じられれば、黙って従わねばならぬ。

 裃のままでとるものもとりあえず家老屋敷へと出向いてみれば、控えの間で小半刻も待たされ、やっと声がかかった。

 中年の家士につれられて廊下をいくつも曲がり、通された部屋は意外にも客間ではなく八畳の書院であった。

 家士がそのままさがっていくと、辺りに人の気配がまるでなくなった。

 新次郎は部屋へ入って深々と辞儀をして挨拶をした。

「そうかしこまらんでいい、顔をあげろ」

 老人の、しかし老いを感じさせない濁りのない声が頭の上から降ってき、新次郎は静かに背を伸ばした。

 目の前には、着流し姿の小柄な老人がひとり、脇息にもたれかかって座っていて、こちらをじっと見つめている。口元には笑みをうっすらと浮かべていたが、好々爺とはいいがたい、鋭利な光をやどらせた目には人をすくませるほどの威圧感が満ちていて、小柄な見た目とは相反して、やはり家老というにふさわしい威厳が全身から発せられていた。

「金森は徒目付であったの」

 馬崎主計は話しはじめた。暗い部屋の、行燈のわずかな灯火のなかで浮き上がるように、赤い口がぱくぱくと動いている。

「ふたりの姉はすでに結婚して家を出ているし、お前ひとりで老いた両親の面倒までみているのだから、苦労であろうな」

 その言葉にはいたわりというよりも、俺はここまでお前の身上を綿密に調べあげているのだぞ、という脅しのようなものが見えていた。そしてその短い前置きのあとで、

「金森は、以前この屋敷で働いていた佐保と婚約していたそうだの」

「はい」

「逃げられた女の尻をいまだに追い続けておるなど、未練がましい」

 馬崎は静かに、しかし鋭い棘を包もうともせずにそう言った。

「かててくわえて、下女の死にまで疑念をもつなど、未練を通り越して性根が卑しいとは思わぬか」

 首筋から流れる汗をぬぐいもせず、新次郎は目を泳がせた。

 ――なぜそんなことまで家老が知っているのか。

 いったいどこから漏れたというのだろう。磯村か、井上か、犬沢の名主か――。

「佐保は良い娘であった。よく働いて、気立てもよく、お前のような不愛想な男にはもったいない娘であったの。お前との婚約が決まって、この家を去ることになったが、本当はずっと手元においておきたかった。その前に出奔したのは、さらに無念であった。お前にとってもそうなのだろう」

「…………」

「未練か好奇心かは知らんが、余計な詮索は身を滅ぼすぞ」

 馬崎家老は、手文庫を引き寄せると、かねて用意してあったのだろう、手のひらほどのずっしりとした袱紗包みをとりだして、新次郎の前に置いた。

「もっていけ、遅ればせながら、女に逃げられた見舞いだ」

 ――どういういつもりだ。

 新次郎は疑念と不快感がいちどに腹の底から湧きあがってくるようであった。

「いただけません」

「なんだと」

「いただく理由がありません」

「理由なら今話した通りだ。娘のようにかわいがっていた女中の許婚に対する憐れみだ。黙って受け取ればいい」

 ――単なる口封じではないか。

 新次郎はさらに不快感が膨満するのを感じた。そうして、井上が言を翻すにいたった経緯もはっきりとわかった気がした。

「そ、それがしは、許婚の出奔の真相を知りたいだけです。それを突きとめようとしているだけです。それにご家老がどのように関係するのか、まるでわかりかねます」

 馬崎家老は舌打ちして、脇息をぎゅっとつかんで吐き捨てるように、

「ものわかりの悪い男だ。融通がきかんのか」

 ちょっとゆさぶってやろうか、と新次郎はまったく衝動的に悪心のようなものが湧いた。

「それとも、おまちという下女の不審な死因にも目をつぶれという意味でしょうか」

 家老の脇息の上に置いた手が、ふるふると震えている。これ以上怒らせたら、脇息を投げつけられそうな雰囲気だ。

「それがしは知りたいのです。なぜ佐保が男と姿を消したのか。なぜおまちの棺桶が厳重に封印されていたのか。そしてなぜ、ご家老のご息女が亡くなられたのが、ふたつの件と同時期なのか」

 ご息女、と新次郎が声にだした瞬間、家老のまなじりがきっと吊りあがった。

「下郎っ、優しくしておればつけあがるでないっ」馬崎家老は屋敷じゅうにとどろき渡るような声で叫んだ。「貴様程度の小役人ふぜい、この手で簡単にひねりつぶせるのだぞ」

 新次郎は辞儀をして座を立ちかけた。

「まさか江戸に行くつもりではなかろうな。どのような手段を使っても、行かせはせぬぞ。もし藩から許可がおりて旅に出たとしても、脱藩として刺客を差し向けるぞ、いいなっ」

 ――懐柔が無駄だとわかれば恫喝ですか。

 心のなかで、唾棄するように言って、新次郎は部屋を出て廊下を足早に去った。

 背後の襖になにかがぶつかったような音がしたのは、脇息を投げつけた音であろう。

 ――よけいな藪をつついたな、馬崎家老。

 家老屋敷を出て、とっぷりと日が暮れた道を提灯も持たずに歩きながら、新次郎は心の中で、馬崎家老の皺のよった顔に向けて悪態をついた。もう甚助の依頼をなしとげようという気持ちよりも強く、意地のようなものが湧き上がってきていた。馬崎家老の言葉からも態度からも、他人の気持ちや人生をまったく顧みることのない冷酷さと傲慢さが発せられていた。そういう権力者の横暴に対する反抗心とか敵愾心が、ふつふつと湧いてくるのだった。

 そして、やはり江戸になにかがあるな、と新次郎は確信した。馬崎家老は、なんらかの事情があって、佐保を江戸へと向かわせたのだ。おまちという下女と娘である松乃の死がどのように絡んでいるのかは、まだ模糊としてわからない。

 江戸に向かいたいところではあるが、しかし、並みの方法で旅に出ても、あの老人はさきほどの言葉通りに、新次郎に討手を差し向けるだろう。江戸へ向かうのは馬崎家老にとっては、かえって好都合なのかもしれない。なにか別な方法を考えなくてはならない。家老でも手が出せないような方法をつかって、江戸へ向かわなくてはならない。何か、宙返りを打つような奇策を……。

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