三の一

 登城の途中、後ろから、おいと声をかけてくる者がいる。

 新次郎が振り返るまでもなく、声のぬしは磯村文之助である。

「なんだ、つれないのう、立ちどまってもくれんのか」

 横に並んで歩きながら、磯村がすねたように言う。

「挨拶もせぬうちに、おいもないもんだ、磯村よ」

「いちいち挨拶をせねばならん間柄でもなかろうに」

「親しきなかにもなんとやらだ」

「そんなことより、佐保殿の行方はつかめたか」

「いや、佐保殿の行方など、べつに追ってはおらんよ」

「佐保殿の失踪と、馬崎家老の娘御と下女の死がつながっていると考えていたんじゃないのか」

「いや、ただの出来過ぎた偶然だろう。一時は頭に引っかかっていたが、もうどうでもいいんだ」

「なんだつまらん」

「つまらんということもなかろうが」

「せっかく面白い話を耳にしたんで、教えてやろうと思ったのに、どうでもいいというのなら、教えてやる必要もないな」

「別に興味はないが、お前が勝手に話すなら、聞いてやらんこともない」

「ちぇ、素直じゃないのう」

 では、耳の穴をほじってよく聞けよ、と磯村は話し始めた。

「大番衆の知人で井上さんという人がおっての。その人は以前、参勤で江戸屋敷に詰めていたことがある。で、江戸で見たんだと」

「なにを」

「佐保殿を」

 胸がどきりと脈動して、新次郎は思わず足をとめた。

 磯村も足をとめて、にっと口の端をゆがめた。思った通りの反応をしめしたという顔であった。

「他人の空似であろう」

「いや、そうでもないらしい。その井上さんというのは、佐保殿のことを幼い頃から知っていて、見間違えるわけはないという」

 たしかに、佐保の林家は大番衆に属していた。同じ大番衆で家も近所だったとしたら、佐保の顔を知っていても別段不思議ではないだろう。

「そこは、両国とかいうところで、ずいぶん人出が多い場所だそうでな、人波にまぎれてすぐに見失ってしまったそうだが、間違いなく佐保殿だったらしい」

「しかし、磯村、その人が参勤で帰国したというなら、もう一年半も前だろう。いまさらそんな話を聞かされるとは妙じゃないか」

「いや、すまん、本当は、ずっと以前に聞いていたんだ。だが、おぬしの心情をさっすると、口にするのがはばかられての。先日、おぬしがあんな話を持ち出すものだから、ふと思い出してな。ここ数日、話すか話すまいか、思い悩んで食事も喉を通らないほどであった」

 言葉通りに磯村が悩んでいたとはとうてい思えないが、胸のつかえがおりたようにすっきりした顔をして、磯村は城へ向けて歩きだした。

 それを追うように歩きだしつつ、新次郎は頭がくらくらするようであった。

 結局その日は、一日落ちつかない気分でろくに仕事が手につかず、終業となると一散に詰めの間を飛び出して、いったん屋敷に帰って一刻ばかり時間をつぶしてから、大番衆の組屋敷へと向かった。

 井上は下城したばかりであったそうだが、嫌な顔もせずに応接してくれた。井上は四十半ばの人の好さそうな男であったが、

「佐保殿ね……」

 江戸で井上が見たという佐保の話を詳しく聞きたいと言った新次郎に、たちまち困惑の色を顔に浮かべてぼそりとつぶやいた。

「林家の佐保殿のことかな」

「はい」

「私が江戸で佐保殿を見かけた、という話をどこで聞かれたのかは存ぜぬが、あれは、すまない、今思えば他人の空似だな」

「え?」

「貴公と佐保殿の間柄については聞き及んでいるし、同情もするが、早う忘れることだの」

「しかし、貴殿は佐保殿のことを幼い頃から知っているとおっしゃったそうではないのですか。見知っているゆえ見間違うはずがないと」

「金森殿。貴公は江戸に行ったことがないからご存じないかもしれないが、両国という場所はそれはもう、すごい人ごみでの。似た顔の人間がいても不思議ではないし、人を見間違うことだって多分にあるだろう」

「でしたら、その見間違えた人の風体や詳しい場所などをお教え願いたい」

「ふうん」と井上はわずらわしそうに溜め息をついて、「それは、教えろと言われれば教えはするが、感心はせんの。いつまでも自分をすてて男と駆け落ちをした女子に執着するのは、感心せん」

 そうしてしぶしぶと言った態で、井上は、着物の色はこれこれだ、場所は両国橋の東のたもとだ、佐保らしき女は神田のほうへ橋を渡っていった、などということを教えてくれ、明日は朝早いから、と追いたてるようにして帰宅をうながした。

 ――なんだあの態度は。

 井上のぞんざいな態度に、腹の中に憤懣がのたうつようであった。それは見知らぬ人間が突然訪ねてきて、あれこれと詮索がましいことを訊くのだから不快ではあったろうが、もうちょっと気づかってくれても良かっただろうに。

 しかし、彼は最初は笑顔だった。それが佐保の名を出したとたん顔色を豹変させた。あれはいったいなんだったのか、と新次郎はある種の不振をおぼえた。心のどこかに棘が刺さったような気持ちの悪さだった。

 数日、時が流れるとともに、新次郎は江戸に行きたいという衝動が日増しに高まってきた。江戸に出て両国という場所で数日見張っていれば、佐保に似ていたという女に会えるに違いない。そんなふうに思いこんでいさえした。

 だが、出府の理由がまるで見つからない。

 江戸の道場で修行するほどの剣術の腕前はないし、学問所に遊学するほど勤勉でもない。江戸の中屋敷に遠い親戚がいるにはいるが、都合よく祝言をあげてくれるとか、誰かが亡くなってくれでもしなければ、出府の許可などはおりるわけもない。

 思いあぐねているうちに月日は過ぎていった。

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